あとがき

 東京駅構内にある書店で<遂に発売!地球の歩き方「東京版」>というポップが揺れているのを見つけた。

 『ノンストップ・アクション』シリーズは、大学生の頃におこなったバックパッカーの旅を基にした私小説である。90年代末の『進め!電波少年』を見て育った世代であり、気付けばその後のバックパッカーブームの中を歩いていた。

 当時から<ラストはニューヨークで>という構想があった。その後20年の熟成を経てようやく読み物として完成させたが、最後はかつて諦めてしまった旅を終わらせるべく、家族の後押しを受けてニューヨークへ飛び立つというシーンで着地させようと考えていた。ところがこのコロナ騒動である。ニューヨークを文字だけで蘇らせることはできるだろうが、あくまでも「実体験に基づく」という看板には忠実でありたい。しかしこればかりは願っても時期が悪かった。

 そんな中出会ったのが『地球の歩き方 東京版』だった。東京とは私にとってガチャガチャとした戦場でしかない。ただそこに存在し、消費するだけの街。その魅力に迫るため、改めてこの街を歩くという発想はなかった。

 この作品を書き始めたのは2018年12月18日。そのあとがきを書くための一人旅がちょうど2年後の12月18日だったことは何らかの祝福だったのかもしれない。カバンにはこの物語を綴ってきた愛用のノートパソコンと『地球の歩き方 東京版』を入れ、メトロに乗った。


 一人旅のよいところは、地図を読み間違えて遠回りにくたびれようと、詫びなければならない相手がいないことだ。しかしそうした無駄足にこそ旅の愉快というものがある。小説『ノンストップ・アクション』の行間を埋めているのは、道に迷い、回り道の途中で見た日常風景や人々の表情に滲んだ何かである。

 飯田橋で極上の天丼を頂き、浅草参りの後、向島でレトロな喫茶店に出会った。そしてたどり着いたビルに挟まれた銀座のBarは、重たいスチールドアの外にひっそりと看板を出していた。


「おひとり様ですか?」


 江戸っ子としてはこういう無駄な質問が大嫌いだ。隣にお半分様だの四半分様だのが見えるってのかい。静かにうなずくと奥へと案内された。昭和の文豪や芸術家に愛された「銀座ルパン」のカウンターが見えた。


「――太宰さんはね、いつもそこのL字の角に座っていたらしいよ」


 近くの年の離れた男女の声が聞こえてきた。太宰治がスツールの上で片膝を立てている写真は有名だ。彼が玉川上水にドボンといった38歳を超えたので遠慮なく言わせてもらうが、人の親になって読み返してみてこれほど痛々しい作家はいない。高校の頃全集まで買って浸ったダダイズムに、今では三島由紀夫に近い感想を持っている。

 ともかくその太宰で有名なバーのスツールに腰かけると、「スプモーニを」とバーテンダーに声をかけた。普段酒は飲まない。本当は週末に一杯やりながらカウンターの片隅で小説でも読んでいる大人になりたかったが、どうにも体質がそれを許さなかった。今宵このバーで格好をつけるためだけに、昼に天丼、向島の喫茶店でコロッケサンドまで喰らい、腹がくちくて仕方がない状態にしてやってきた。不本意だが、やっていることはいかにも太宰っぽい。

 美人バーテンダーがシェイカーを振る。美しいあごのラインを向けたまま無駄のない仕事をしてくれる。


「…スプモーニでございます」


 赤く灯ったコリンズグラスが差し出された。こういう場所での流儀を知らないので、ただ固くなって「いただきます」と深々と頭を下げた。

 カンパリは好きだ。情熱的な深紅や柑橘系のさわやかな香り、そして尾を引かないキリっとした苦みがいい。彼女のスプモーニは、苦みという言葉が不適切なほどさわやかで、カンパリ、グレープフルーツジュース、トニックウォーターとそれぞれ違う苦みがきれいな放物線を描いて胸の中に落ちていった。ステアではなくあえてハードシェイクでアルコールの角を落としたのもよい。シェイカーを閉じる前に加えた数ダッシュのレモンが全体を気品高くまとめている。

 さすがにノートパソコンを取り出してパチパチ始められるような空気ではなかったので、ただ難しい顔をして太宰をはじめ多くに愛されたこの空間を眺めていた。


「初めてお越しいただきましたか?」


 美人バーテンダーの声に顔を上げる。そうですと答えると、こちらが当店のパンフレットでございますと店のマッチと一緒に冊子を渡された。それによると戦後間もない1946年(昭和21年)<矢鱈なところで酒を飲むと何を飲まされるかわからない時代にルパンなら安心して飲める(原文ママ)>という触れ込みで流行ったとあった。”安心して飲める”と集まってきた中には、家庭に入れるべきものを懐に入れた太宰の姿もあったのだろう。


「――次は何をお持ちいたしましょう?」


 美人バーテンダーが伏し目がちに尋ねてきた。


「また来ます。ごちそうさまでした」


 当てもなくそう微笑むとマフラーを巻いて立ち上がった。

 店を出ると銀座の狭い空に星が見えた。たった一粒だが指輪に収めたくなるほど鋭い光を放っていた。

 夜空の一部になってしまったE・TそしてY・Zにこの物語を捧げる。

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