AMAKUSA

 天草灘に突き出した下島には、﨑津や大江といったカトリック教会の天主堂があり、その白さを際立たすような群青色が遠くまでキラキラと輝いていた。


<…やっと来ましたよ、姉さん>


 春、ようやくここに来た。

 于春麗ユー・チュンリーは一度だけここからポストカードを送ってくれた。そこに描かれた﨑津教会の白い屋根に目を細める。

 北京国際友好協会に「地域交流部門」が新設されたのは、俺が帰国してすぐのことだった。その本部長といえば聞こえはいいが、実際にはアシスタントが一人いるだけの降格人事となった。かつてのように東京を行き来することもなくなり、「わたしたちはしばらく会うべきではない」という彼女の言葉はこうして実現された。


 それから12年が過ぎた。

 その間にニューヨーク同時多発テロがあり、東日本大震災があり、そして俺を取り巻く環境も結婚や娘の誕生によって変わっていった。もはやカバンひとつで世界を放浪していた頃のことなど思い出すこともなかったが、そんなある日受け取ったのが﨑津教会の白い尖塔がスケッチされた一葉のハガキだった。

 ”お久しぶり”でも”元気かしら”もなく、ハガキは唐突に近況報告から始まっており、天草市の観光文化課で観光案内などを中国語に翻訳しているとだけ書かれていた。なぜ東京や他の都市ではなくなのか、まったく説明の足りないハガキであった。


「姉さん…」


 呟いてみて、かつての微熱がまだそこに失われずにあることに気付いた。居ても立っても居られず天草市の観光文化課を調べると、恐るおそるその番号を呼び出した。内線の向こうにようやく姉さんの声を聞いた瞬間、涙で呼吸が詰まった。ところが受話器の向こうは無言だった。


「…ごめん今忙しいの」


 姉さんの声はそれだけで、その後姉さんから折り返しがかかってくることはなかった。

 あの春を待つ北京の窓辺で、于春麗ユー・チュンリーは「尊敬される姉に戻るために時間が欲しい」と俺を突き放した。考えてもわからないことには蓋をして12年が過ぎたが、いったい姉さんは何を伝えたくてあのハガキを送ってきたのか。きっと俺から電話がかかってくることは予想していただろう。

 結局天草での活動目的もあのハガキの意図もわからないままだが、後年彼女が熱心なキリスト教信者になったのは、この島での活動がきっかけだったはずである。


 それからさらに4年が過ぎた秋口、ふたたび珍しい差出人からメールが届いた。

 それは于春麗ユー・チュンリーからだというのはすぐに分かったが、クリックした中身はエンコードによる文字化けを起こしており、アルファベットと奇妙な漢字が並んだ謎めいたものだった。かなりの分量だったが読めないものは仕方がない。すぐに短い返事と共に「忠実な番犬より」というサインを添えて送信した。しかし、結果的にこれが于春麗ユー・チュンリーとの最後のやり取りとなってしまった。


 子宮頸がんだったことは後に彼女の部下だった人から聞いた。もちろんそのことも書いてあったはずだが、それよりも伝えたかったことがあったはずだ。後日、葬儀に参加した部下の方から北京郊外の墓地の住所が送られてきた。ただ、そこを訪れることがあるとすればもっと年老いてからにしたい。

 ふたりは事実から目を背けることに慣れている。永遠に実を結ばないと知りながら、「姉と弟」と呼び合うことでただ季節の巡りを見送ってきた。どうしても結婚したことを伝えられなかったのも、それを言うことでもう二度と「弟」と言ってもらえなくなる気がしたからだ。

 またどこからか絵ハガキでも送ってくるかもしれない――。そう誤魔化すことで、俺は自分だけ救うことにした。

 


 﨑津集落は小さな漁村だ。

 中心にある天主堂を守るように集落が平たく広がっている。ここが「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」としてユネスコ世界遺産に登録されたのは2018年。1637年島原の乱以降、地下に潜った信者が柱の中に刻み込んで慕い続けたマリア像など隠れキリシタンの秘めた祈りを知ることができる。

 きっと于春麗ユー・チュンリーも、俺の胸骨のどこかにそれらしき顔形をして刻まれているはずだ。いつの日か俺の骨を拾った娘たちが骨に刻まれたマリア像を見つけてあっと声をあげるかもしれない。しかしそれは裏切りや不浄なものではなく、あの文字化けメールが「もう一度会いたい」という内容ではなかったことを祈るための小さな祠だ。


 天草の海が鳴っていた。

 漁港近くの寿司屋に入った。車海老の旬は冬だが、春先の今も口の中で甘くほどける。


<――お刺身は苦手。偉いセンセーたちとの食事会はホント困ったわ>


 北京のバルコニーでの会話を思い出す。

 

「そういう時はどうするんですか?」 

「口紅を拭く仕草でティッシュにペッとやるの。それをやらせたら世界一うまいと思うわ」


 あの日、姉さんが見せてくれたいたずらっぽい笑顔が浮かぶ。

 霞が関からの帰りの車で、ガラス窓を鏡にして紅を塗り直していたのはそういうことだったのか――。それも今となってはどうでもいい。海老の甘みを味わいながら、胸骨に刻まれたマリア様に語り掛けた。


<…姉さん、これならイケると思いますよ>

<あら言ってなかったかしら?わたし、ここでお刺身に対する宗旨も変えたのよ>


 隣の席で頬杖をついていた姉さんは、勝手に一つ摘まむと口の中に放り込んで微笑んだ。

 一緒にこの海を見たかったです――。

 そむけた横顔に一筋の涙が伝った。

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