2001年2月14日

 小窓を開けたのは愛想の悪いロシア婦人で、こちらが指差した大きなコッペパンとサクランボジュースを袋に詰めると、何も言わずに手のひらを突き出してきた。客であるこちらが「スパシィーバ《ありがとう》」と頭を下げているのに、婦人は藪睨み一つ寄こしただけである。が、忘れていた。ここはロシアだった――。


 フィリャンツキー駅を背に、レーニン像が右手を胸高く上げている。この国がマルクス・レーニン主義を捨ててしばらく経つが、いまだに個人崇拝の像が国際駅の前に凛としている辺りにロシアの内情の複雑さを思う。

 サンクトペテルブルグの中心部はY字を左に倒したような形のネヴァ川が街を分けている。予約したホテルは街の目抜き通りにあった。箱形で、いかにも旧時代を思わせるような建物だが、ネフスキー大通りから1本外れた好立地で、部屋の窓からはカザン大聖堂の荘厳な構えが迫って見えた。

 それにしても排気ガス臭い街である。窓を閉めてタバコをくわえると地図を広げた。暗くなる前にネヴァ川の対岸にある旅行社を訪ね、支払い済みのモスクワ行き列車チケットを引き取らなければならない。

 ロシアの旅は例えるなら、セキュリティーエリアに忘れ物を取りに行くようなものである。あらかじめ申告した目的地以外はトイレにも立ち寄らせない。おそらく見られて困るものに触れさせないというより、この国の不気味な皮下組織に巻き込まれた際すぐに救出するためのシステムなのかもしれない。

 目的の旅行社は観光を兼ねて歩ける距離にあった。吸い殻をもみ消すと、厚手のセーターに着替えてコートを羽織った。


 血の上の救世主教会(スパース・ナ・クラヴィー教会)の玉ねぎ頭を見上げる。金平糖のような可愛らしい屋根の上に、ロシア正教の八端十字が日差しを浴びて輝いていた。1881年、足元に投げ込まれた爆弾によって吹き飛ばされたアレキサンドル2世の慰霊を兼ねて受難跡地に立てられた。

 背の高い男に声をかけられたのは、トロツキー橋に向かって運河沿いを歩いている時のことだった。私服警官だという。行く手を阻むように立ちふさがると、彼は「パスポルト!」とぶっきらぼうに言い放った。

 無礼なヤツだが仕方がない。ところがカバンの中に手を入れた瞬間、パスポートはホテルのフロントに預けてきたことに気付いた。念のために取っておいたコピーを広げたが、彼はそれを手で払いのけると原本を出せと苛立った表情を見せた。パスポート原本を所持していない場合罰金として100ドル払えと言うが、すでにこの時点ですでに罰金は確定したらしく、男はさっさと払えとばかりに手を突き出してきた。まるで駅前のキオスクと同じである。その性急な言い方にムッとすると同時に、そもそもコイツはホンモノなのかという疑問が浮かんだ。ちょうどその時だった。


「――ちょっと。日本人の方?」


 振り向くと茶色いダウンジャケットの男が立っていた。

 50絡みだろうか。目深くかぶったロシア帽の隙間から白髪が見えたが、妙に目に力のこもった紳士だ。彼は私服警官を名乗る男を見やり、何やら早口のロシア語をぶつけた。立ちふさがっていた男の顔に狼狽の色が広がった。やがて急に何かを思い出したように男は走り去っていった。


「この辺多いんですよニセ警官が。ガイドブックに書いてあったでしょ?」


 走り去っていく男の姿を目で追いながら彼は首を振った。


「ちょうど仕事場に戻るところだったんですけどね。でもあなた、だいぶ前から狙われてましたよ」


 鋭い目つきをしているが、笑いじわが入ると何とも愛嬌ある顔になる。


「ああいう時は『警察手帳見せな』って言うんです。彼らは旅行者がホテルにパスポートを預けてきていることを承知の上てわざわざそこを突いてくるんです」


 この辺りは脇道も多く、観光客ばかりを狙った組織があるという。


「申し遅れました。ナカムラって言います。こっちで商売してましてね」


 仲村氏は銀のシガレットケースから1本取り出すと金色のライターで火をつけた。


「だが気を悪くしないでください。ここじゃ騙されたほうが悪いんだ。ロシアはそういう国ですから」


――そうだ、忘れていた。ここはロシアだった。


「ホテルも安全とは限りませんよ。ちゃんとパスポートの預かり証はもらってきましたか?万が一ホテルの従業員が盗んだとしても預かり証がなければ警察はまともに取り合ってくれませんからね」


 俺の顔から血の気が引くのを見て仲村氏は楽しそうに笑った。まったく情けない初歩的なミスだ。


「ネヴァ川の反対側にある旅行会社にモスクワ行きのチケットを受け取りに行かなければなりません。それが済んだらすぐにホテルに戻ることにします」

「もしかしてスタートラベル?」


 仲村氏は今まさに俺が向かおうとしている旅行代理店の名前を言い当てた。


「日本からの予約はだいたいスタートラベルさんが取りまとめているからね」


 彼は吸いかけのタバコを運河に放り投げると手招きした。


「ついてきてください。ウチの事務所の近くですから」


 凍ったネヴァ川は青く沈み、サンクトペテルブルグに夕闇が迫ろうとしていた。

 この仲村氏との出会いが、その後において大きな意味を持つことになるとはこの時まだ知らない。マフラーを締めなおすと、仲村氏の背中を追ってトロツキー橋を北へと渡った。

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