2001年2月13日

「おやおや!誰かと思えばどこかのイケメン風じゃないの。お一人さんかい?」


 ヘルシンキの目抜き通りエスプラナディ通りを過ぎ、湾岸方面に続く道を歩いていると突然すれ違いざまに声をかけられた。酒焼けしたかすれた声。振り向くまでもない。ベルリンで消えたはずのヒッピー・タケがそこにいた。


「ダチがヘルシンキ《こっち》にいてさぁ。遊びに行くって約束してたんだけど、旅の初心者さんたちに親切にしてたら遅くなっちゃってさぁ」


 勝手にしゃべらせて俺はヒッピー野郎の脇を抜けて歩き出した。


「まぁ待ちなって!あんな形でオンナ横取りしてったんだから感想ぐらい先輩に報告してくれたっていいんじゃんね?」


 回り込むとヒッピー野郎は両手を広げて立ちふさがった。

 ――仕方がない。静かに人差し指を突き付けるとひと言だけ忠告した。


「…そこをどけ」


 ヒッピー野郎は大げさにおどけると笑い声を立てた。


「そんな冷たいこと言わないで旅人同士情報交換しようや。オレが言ったとおりアイツ処女だったろ?どうだった?あの女の――」


 言い終わらないうちに野郎は視界から消えた。

 ひねりながら繰り出した右の拳がヤツのみぞおちに喰い込んだ。口からよだれを垂らして崩れ落ちたその髪の毛をすかさず鷲掴みにして引っ張り上げた。


「ブログに書いてみるか。レイプ未遂で捕まりましたって?」


 ヒッピー野郎は荒い息を吐きながら、しきりに首を振った。

 数日前サユリさんから届いたメールには激しい怒りと後悔を巻き起こす内容が書かれていた。


<――あの翌日ベルリンを出発するとき、待ち伏せしていたタケさんにつかまってしまいました。あまりにもしつこく駅まで送るというので、ついその誘いに乗ってしまいました。しかしそれが間違いでした>


 車の中でいきなり抱き着かれたという。必死で抵抗したのでそれ以上何もなかったとは書いてあったが、その後ショックでウィーンでもずっとホテルに引きこもっていたとあった。


<わたしはいつもあなたに反発ばかりしていました。ちゃんと自己管理できていると認めてほしかった。でもやっぱりわたしはバカで騙されやすい人間です――>


 「それは違う!」と声に出して叫びたかった。すべてあのクズ野郎のせいだ。本来なら今頃何かしらの自信を得て帰国していたはずだ。せめて彼女がウィーン行きの列車に乗り込むまで見送るべきだったと激しく後悔した。


<――最後の最後で楽しみにしていた旅がこんなことになってしまいましたが、これからは気持ちを切り替えていこうと思います。次に会うときはもっと素直な女の子になっていたいです>


 サユリさんからのメールは<また会いたいです>という言葉で結ばれていた――。


 追いすがってきたヒッピー野郎は俺の肩を掴んだが、その手をひねり上ると再び地面に沈めた。襟首を掴んで引きずり起こすと怯えた目をのぞき込んだ。


「旅の神様だか知らねぇがオトモダチと遊んでる場合じゃねえぞ。相手は裁判所の職員だ。日本で被害届を出せば在外公館から出頭命令を出すことぐらい知っているだろう」


 ヒッピー野郎の顔はみるみる白くなった。


「ちがう、違うんだよ!あのオンナから誘ってきたんだって!」


 再び視界から消した。

 カバンからカメラを取り出すと、冷たいコンクリートの上で涙とよだれを垂らした男の姿を何枚か撮った。


「アンタがまたくだらない独演会をやる時は必ず遊びに行ってやるよ。その時にこの写真をばら撒いてやる。わかったな?」


 そう言い残すと、俺はふたたび荷物を肩にかけて歩き出した。

 こんなことのために武術を学んできたわけではない。しかし人には大切なもののために戦わなければならない時がある。


 軍事行動も辞さなクレムリンに対し、リトアニア300万人が首都制圧に現れた戦車の前に飛び出した。ここフィンランドも戦っている。資本主義を守る代わり、NATOなど西側軍事同盟には加盟せず、言論統制までかけてロシアを刺激するような言動を控えてきた。ロシアと1,300キロも国境線を共有する国として、これもまた戦い方の一つある。

 人は誰かのためにこそ強くなれる。国を守ってきた先祖のため、未来を担う子供たちのため、そして愛する者のため。自分以外の誰かの幸せを祈るとき、自らの命を振りかざして戦えるのだ。


<――拝啓サユリさん。サユリさんを守れなかったことをとても後悔しています。新しい思い出で埋めていきましょう>


 路上でエビのように丸まったヒッピー野郎の写真も添えようかと考えたが、おそらく彼女が求めていることではないので削除した。


<明日いよいよロシアに入ります。聞くところによるとモスクワはマイナス15度。できるだけたくさんポストカードを送りますので、僕と一緒に旅を続けていると思ってもらえたら嬉しいです>


 ロシア・サンクトペテルブルグ行きの高速列車は、明日の早朝7時にヘルシンキ駅を出発する。謎に包まれた大国ロシア横断の旅が始まろうとしている。

 ”東京に戻ったら食事でも行きましょう”という一文は消したが、それ以外はそのまま送ることにした。ベルリン大聖堂で彼女が見せてくれた勇気を思ったりもしたがそれに答えるのはしばらく先でいい。だが今は一人でも味方がほしい。一瞬自分の身勝手を思ったが、かまわず送信ボタンを押した。

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