2001年2月12日

「どうしてももう出発しなければならないのかね?」


 シギタス氏は大げさに手を広げた。どうやらお世辞でもなさそうだが、その横を「パパのリトアニア自慢はもう十分」とシモナ嬢は手をヒラヒラさせながら通り過ぎた。


「――お嬢様、言葉を謹んで下さい」


 クラウス氏はわざわざ英語で言葉をはさんだ。

 すっかりリトアニアという国が気に入った。しかしこれ以上旅程を遅らせるわけにはいかない。ロシア入国のビザ申請には、航空会社やホテルなどへの支払証明書(バウチャー)の提出が求められる。よって旅人は事前に提出した旅程に縛られることになり、明日にはエストニア・タリンを出る船に乗らないと全てが間に合わなくなる。

 シギタス氏はようやく諦めて頷くと、クラウス氏にここから400㎞も離れたタリン港まで送るよう指示した。さすがにそこまでお世話になるわけにはいかないと揉めていると、「パパの代わりに私がタリンまでご一緒するわ」とシモナ嬢が割って入ってきた。


「まだ旅行の話もたくさん聞きたいし。いいでしょパパ?」


 結局シモナ嬢に押し切られる形で、ふたたびクラウス氏が運転するボルボでエストニアの首都タリンを目指すことになった。


「旅の何が聞きたい?」


 ラトビアの首都リガで昼食を取ると、ふたたびバルト海沿いの国道を北上した。

 真冬のバルト海は、限りなく黒に近い藍色をしている。シモナ嬢はしばらくその色を眺めていた。


「旅をしていて一番楽しい瞬間は?」


 こういう本質的な質問はこちらの空っぽさを見抜かれないかヒヤヒヤする。


「旅そのものよりも計画を立てている時が一番楽しいかな」


 旅に出てしまえばあとはスケジュール通り旅程を消化していくだけだ。それに比べて旅に向けて準備を進めている時の高揚感は特別だ。最新のローカル情報を集めたり、ビザ取得のために大使館をめぐるのも楽しい。今回は一年かけて初級ロシア語を準備してきた。こうして旅のために研ぎ澄まされていく感覚こそ快楽なのだ。自作自演の一切を背負っている間、孤独やそれ以外のことなど忘れてしまえる。


「好きなことをとことん追求できることこそ”自由”だと思うけど、振り返ってみてリトアニアはまだ自由という意味が分からずに苦しんでいると思う」


 シモナ嬢は窓の外に目を向けたまま言った。


「ソ連時代、アイスクリームは決まって2色だけだった。それが急に20種類もあるよと言われてもどうしたらいいのか分からなかった。自由って世界が考えるほど便利なことではないの」


 日本でバニラアイスかチョコ味しかなかったらそれはちょっとした事件である。しかし、何十種類から今日の気分を選べるということが必ずしも幸福とは限らない。選択には必ず責任が付いてくる。バニラかチョコかという規模ではなく、人生も職業もそして旅先も、無限の中から選ばなければならないと考えると、決断できないことへの弱さは最終的に”自分自身の弱さ”につながっていく。


「リトアニアが世界で最も自殺率の高い国になっていることは知ってますか?」


 バルト海に分厚い雲がのしかかっていた。

 WHOの『対人口比における自殺者数』という報告書がリトアニアという名前を有名にしている。(※2015年頃まで1位はリトアニアか韓国という状態が続いた。ちなみに日本は毎年10位内にランクインされる)


「私たちカトリックは自殺を禁じられている。なのにリトアニアは先進国を抜いて世界で最も不幸な国になってしまった」


 その示唆するところは深い。報告書によれば、格差社会や飲酒を原因としているが、上位10位の多くが旧ソ連から独立した国々であることを考えると、「自由」という青空をいきなり背負わされた側について思いを馳せる必要を感じる。

 2001年リトアニア独立10年にあわせて世論調査が行われた。そこで60歳以上の半数が「独立前のほうがよかった」と回答していることは興味深い。スターリンに国を奪われ、身内や親類がシベリア送りになった時代を生きてきた世代が、独立後を支持しないというのはあまりにも皮肉だ。


「独立によって、自由について考える暇もなく全員が空中に放り出されてしまった。どこかに行く自由が約束されたけど、”どこにもいかない”という責任まで追わされているような気持ちになる。格差社会っていうけど経済的な意味だけじゃないと思う」


 クラウス氏は我々の会話にひと言も口を挟まず、北へと続く道を見つめていたが、「お嬢様はたいへん大人になられました」とつぶやき、サイドミラー越しに笑顔を見せた。


「わたしはとっくに大人よ!」


 口をとがらせたシモナ嬢に「大変失礼いたしました」と静かに返したクラウス氏だったが、その表情は楽しげだった。独立を勝ち取ってきた世代から新しい基準の整備を任される世代へ。リトアニアが今後本当の意味で独立を保てるかは、新しい世代の知性にかかっている。


 エストニアの首都タリン港は美しい夕陽に包まれていた。


「…いよいよお別れね。もっと旅の話も聞きたかったわ」


 停泊中の客船は、流氷が浮かんだフィンランド湾を渡ろうとしている。その大きな船体にシモナ嬢は目を細めた。


「俺ももっとあなたの話を聞きたかったです」


 シモナ嬢は俺をハグをすると、頬に軽くキスを添えた。


「次は日本で!」


 そう言うと彼女はクラウス氏が待つ車に戻っていった。俺はその姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

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