2001年1月30日
「――まぁ旅のことなら何でも聞いてよ。なんたって伝説のバックパッカーって崇められてるんだから」
ハンドルを握るヒッピー・タケは、助手席のサユリさんから笑顔を引き出そうとはしゃいでいる。時折バックミラーごしにサユリさんは助けを求めるような視線を送ってきた。俺はそれを無視して窓の外に流れる雨だれのロンドンを眺めていた。
こんなヒッピー野郎など放っておけばよかったのだ。それを律儀に<無事ロンドンに着きました>などと連絡するからこういうことになった。精いっぱいのオシャレのつもりか耳に4つもピアスをぶら下げ、バナナがプリントされたシャツで我々が泊まるゲストハウスに現れた。
「サユリンとのデートのために助手席掃除しておいたし」
レゲエ帽の隙間から薄くなりはじめた縮れ毛がはみ出ている。この下品なチンパンジーを見ているとイライラする。彼の大声にロビーにいた人たちが眉をしかめている。俺は自分の荷物を肩に引っ掛けるとソファから立ち上がった。「じゃ俺はこれにて」と畳み掛けると、サユリさんはサッと顔色を変えた。
「大丈夫だよサユリン。あとでちゃんと送ってあげるから!」
ヒッピー野郎は勝手にサユリさんの荷物を担ぐと駐車場に向かって歩き始めた。
「そういう問題じゃなくて!」
サユリさんの鋭い叫びに全員の足が止まった。だがこれは彼女自身が招いた危機であり、今さらふくれ面をされてもいい迷惑だ。
しかし結局3人で仲良くロンドン市内観光となった。バックミラー越しに時折ヒッピー野郎の視線とぶつかった。お互い「なんでコイツが」というのが胸中である。
うがった言い方をすれば、大英博物館はイギリスが<太陽の沈まない国>と呼ばれた頃のメモリアル・ミュージアムである。
「ロンドンに3年もいるけど1回も来たことないね」
ヒッピー野郎はまぶしそうに大英博物館の太い柱を見上げた。
ロゼッタストーンやミイラの石棺は、19世紀末イギリスの保護国だったエジプトから運ばれてきた。古代ギリシャ・ローマ部門にあるパルテノン神殿の彫像やエルギン・マーブルは、同じく19世紀にイギリス貴族が剥ぎ取って持ち帰ってきたものである。イースター島まで行かなくてもここでモアイ像を拝むことができるのも、英国海軍が勝手に引っこ抜いて持ち帰ってきたからである。
もちろん文化保護の観点でいえば盗賊まがいの行為とはいえども一定の貢献は否めない。しかし目玉となる展示品の来歴を考えると、受け止め方に多少整頓が必要である。
日本ブースを回っていたサユリさんの足が止まった。着物や鎧兜の奥に、歌麿の<春画>がピンスポットを浴びていた。
「サユリンは太いのと奥まで届くのどっちがいい?」
「…ちょっとどいてください」
立ち去ろうとしたサユリさんにヒッピー野郎はひつこく立ちふさがった。俺はひとつ息を吸うとヒッピー野郎の肩に手をかけた。
「やめましょう。そういうの」
出方によっては、ヤツの鼻っ面に一発沈めるつもりだったがヒッピー野郎は小さく息を吐くと俺の手を振り払った。
「…アイツ絶対処女だな」
下を向いたまま駆けていくサユリさんの背中を眺めながら、ヒッピー野郎は卑猥な笑みを浮かべた。
「――どうして日本ってあんなイメージで見られるんですか?」
帰りの車の中でわざわざ蒸し返してきたのはサユリさんだった。
年間6,000万人も訪れる第一級の博物館に、どんな意図でチョンマゲが花弁に突き立てている淫画を飾っているのか。一体ロンドンの日本大使館は何をしていたのかとサユリさんとは別の意味で腹が立った。
サユリさんはトランプ柄のリュックを胸の前で抱えたまま、男二人を揺さぶった。
「日本の男性がああいう印象を世界にバラまいているからじゃないですか?」
サユリさんの刺々しい意見に、ヒッピー野郎はハンドルを叩きながらゲラゲラ笑った。サユリさんが感じた違和感は充分共感できるが、少なくともこのだらしない放浪者たちに問いただすことではない。
「…スミマセン、言いすぎました」
不毛さに気付いたのか彼女は赤くなって矛を収めた。しばらく沈黙が続いたが、やがてハンドルを握っていたチンパンジーがからかうような声を向けた。
「――もしかしてサユリンってオトコと付き合ったことないんじゃね?」
サユリさんはしばらく外を向いて黙っていたが、やがて低い声でつぶやいた。
「…興味ないんです。恋愛とかに」
すかさずヒッピー野郎は「一人よりも二人のほうが気持ちよくなれるよ」とはやし立てた。そろそろこのチンパンジーを拳で黙らせようかと思っていると、サユリさんはゆっくり俺の方を向いて伏し目がちに答えた。
「誰かと共感し合うのが苦手なんです…」
いた、同類が。サユリさんにとって他人とは価値観を強要してくる存在だった。恋愛のみならず誰かと共感し合うことを恐れ、他人と境界線を築くことでどうにか自分を保ってきた。
「オレが教えてあげようか?一人よりキモチいいこと」
サユリさんは首を振ると「少し疲れたので」と目を閉じた。しばらくして、ミラー越しにサユリさんの視線に気付いた。だが俺は窓の外に目をやり短くため息を付いた。――ゴメン、俺も人が嫌いなんだ。もう誰かとつながりあって傷つくのはゴメンだ。
耳障りな笑い声と水たまりをはねる音がいつまでも続いていた。やがてサユリさんも目をそらすと窓の外を流れる石畳を見つめていた。
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