2001年1月29日

 眠たくなるような重たい曇り空が続いている。

 サユリさんは朝はフルーツとヨーグルトという主義らしいが、ロンドンの朝はテーブルの上もなかなか重たい。


「イギリス人ってもっと健康志向だと思っていたのに」


 サユリさんはしぶしぶコーンフレークにミルクを注いで戻ってきた。厚切りハムとフライドポテトは取り放題だが、朝食ビュッフェのどこを探しても生野菜が見当たらない。俺もギトギトしたベーコンを半分残すと、口の中の油をオレンジジュースで流し込んだ。


「ロンドン警視庁内にブラックミュージアムっていう博物館があってね、」


 ティーカップを置くとサユリさんは唐突に話し始めた。切り裂きジャックの手紙や拷問道具などイギリスを震撼させた事件の資料を並べた博物館だという。


「変わってるって言いたいんでしょ?いいの。わたしは裁判所職員だから」


 別に何の感想も述べてないのに、サユリさんは勝手に締めくくった。問題があるとすれば、肝心の博物館の見学には事前申請が必要だということにここに来てから気付いたということだ。つまり「今日の予定がなくなってしまった」という愚痴を聞かされている。


「じゃあ、ロンドン・アイにでも行ってみます?」


 ビッグベンへと続くウェストミンスター橋のすぐ横に、巨大観覧車ロンドン・アイはあった。高さ135m。窓辺に張り付いたサユリさんは、ウェストミンスター宮殿やバッキンガムなどを見下ろしながらいちいち声をあげた。

 最上部に来た時、彼女はボソッとつぶやいた。


「…一緒に写真撮ろ」


 言うなり隣にきて寄り添うと、サユリさんはカメラを持った右手を伸ばし、左手で目元にピースを作った。


「ありがと。こういうデートで来るような乗り物初めてだったから」


 カメラには戸惑いながらはにかんでいる俺が写っていた。

 その後どんより曇の下をブラックフライアーズ橋を渡り、シティと呼ばれるロンドンの金融街へと歩いた。ワインレッドのタートルネックに黒のジャケットを合わせたサユリさんはうつむきがちに俺の隣を歩いた。


「もしかして他の女子と一緒に写真とかダメだった?」

「別に」


 それ以上何も言わず、霧雨のロンドンを歩く。そのやり取りの横を赤い2階建てバスが過ぎていった。やがて大きなゴシック建築の白い教会の前に出た。


「ここはチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式が行われたセントポール大聖堂です」


 サユリさんは「ほう」と威厳を放つ白い柱を見上げた。

 アンドリュー・モートンの暴露本によれば、1981年7月29日の結婚式についてダイアナ妃は<あれは人生最悪の1日だった>と語っている。

 ただダイアナ妃に関するドキュメンタリーの多くは、彼女を悲劇的を描くことに熱心で客観性に乏しい。チャールズ皇太子とカミラの不貞についてはくどいほど喧伝しているのに対し、ダイアナ妃のについては、ウィンザー家の冷淡さとチャールズ皇太子のゆがんだ性格に被せるのがセオリーだ。また平和活動家としての側面は強調されているものの、最後は武器商人の一族に名を連ねようとしていた矛盾についてどの媒体も説明を果たしていない。


「つまりダイアナ妃は悪だったと?」

「違います。一方的な印象を植え付けようとするメディアが悪だということです。ダイアナ妃にも色々矛盾点はありますが、世の中に寛容さを求めた彼女の戦いは注目されるべきです」


 弱冠19歳で一般人からロイヤルファミリーになり、膨大すぎる期待を背負わされ、公務で、路上で常にフラッシュを浴びせられた。世の中は無責任に完璧を望み続け、彼女はたった一人でそれと戦い続けなければならなかったのは事実である。

 シティを行く背広はみな足早だ。その中を俺とサユリさんはゆっくり泳ぎ続けた。


「でもやっぱり周りはイメージ通りの姿を求めるのかな」


 サユリさんもまた、周囲からの期待やイメージに苦しみながら生きてきた。<校長センセーの娘>という緊張感は、決して彼女だけのものではなかっただろう。サユリさんは「親の期待に応えてきた」と短くまとめたが、実際には余所見も許されない環境を育ってきた。


「子供の頃から優等生キャラを期待されてきたし、わたしもそのイメージを守ろうとした。だけどずっとそうやって他人軸で生きてきたから時々すごく自信がなくなるの。どうやって自己肯定感を持ったらいいかわからない」


 だからバックパッカーだったのか――。

 たしかに一人旅とは徹底的に自分軸だ。どこに行き、何を食らい、何を感じるか、すべて自分次第だ。しかしそれを突き詰めた先に、彼女の言う自己肯定感が待っているとは思えない。それは他人との交わりの中で醸成されていくものだ。


「飛行機で隣同士になった頃から少しはわたしのイメージ変わった?」


 同じ旅程だったことを幸いに、どうやらベルリンまで俺を頼る気でいるらしい。見かけとは裏腹のか細さは意外だったが、もう少しこの頭でっかちな裁判所書記官殿を知りたいという気になり始めている。

――ただ。俺は家族や友人の助言に対し勝手な期待を寄せるなと切り捨て、あえて孤高を選んだ。それを今この黒髪の微笑みにほのかなものを感じていいものか。もう誰かを大切に想うことはないだろうと結論付けたのではなかったのか。


「お茶でも飲んでから帰ろうよ」


 何をいうべきか言い淀んでいると、サユリさんは角のカフェを指差して微笑んだ。ふと空を見ると、いつの間にかロンドンの霧雨は止んでいた。

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