2001年1月28日

 海岸沿いの突き当りにマストを立てた船が停泊していた。チャップマン号という元帆船で、現在はユースホステルとして改築されている。

 食堂に降りてきた俺を見つけると、サユリさんは奥のテーブルから手を振った。彼女もシャワーを浴びてきたらしく、首に巻いたタオルの上に粗く拭いたばかりの黒髪を流していた。


「あれぇ?おふたりとも髪濡らしちゃって。もしかしてさっきまでお楽しみだった?」


 男は面倒くさそうに立ち上がると、酒臭い息を吐きながら俺を抱きしめた。


「友よ!今日からタケと呼んでくれ」


 球根の根のように伸びた口ひげにレゲエ気取りの派手なニット帽。隣に投げ出してあるバックパックには、民芸品らしいドクロや十字架を背負ったキリストなど世界中の神々がジャラジャラとぶら下がっていた。

 彼は適当に自己紹介を切り上げると、擦り切れたバックパックの中から小鍋やガスコンロを取り出した。とりあえずメシメシとつぶやきながらビニール袋から色々な缶詰をテーブルの上に並べはじめた。


 ”ヒッピー野郎”のワンマンライブは夜中まで続いた。

 リオでは白昼強盗に殴られ、メルボルンではゲイに襲われ、イスタンブールではクスリの売人と間違わられて拘束されたという。それらが実話なら、まずはよほど本人に隙があったと反省すべきである。しかしそんな彼が発信する<旅ブログ>は、一部の旅マニアから”レジェンド”と崇め奉られているらしい。


「みんなオレを”伝説のバックパッカー”って言うけど、こう見えても一応ロンドンのマジメな大学生だから」


 凱旋帰国の際に行われたオフ会での写真を引っ張り出すと、「真ん中の黄色い帽子がオレ」と鼻の穴を膨らませた。どう見ても葉っぱをキメたヒッピーにしか見えない。彼が缶詰の煮込みをクチャクチャやりながら粘っこい視線をサユリさんに送っていることに気付いた。「みんなも食べなよ」とエイリアンの死骸のような色をした皿を勧められたが、俺もサユリさんもスプーンを取ることはなかった。


「――でもさ、人生一回だけじゃん?ルールに縛られた人生なんてつまんなくね?みんな保険掛け過ぎなんだよね」


 新しいバドワイザー缶を一気にあおると、ヒッピー野郎は豪快にげっぷをした。ところがそれを聞いたジャンヌダルクが突然「そんなはずありません!」と吠えた。


「楽な方ばかり選んでたらいつまでたっても自立できないですよ。バックパッカーってみんなこんな感じなんですか?」


 ヒッピー野郎は大袈裟に手を振りながら「オレはバックパッカーじゃねーし!」と逃げた。罵った相手に逃げられた彼女の視線は俺のところで止まった。その視線に耐えかねて「明日のフライトは早いからそろそろ」とまとめると俺は席を立った。



「――俺とあんなヒッピーを一緒にしないでくださいね」


 ロンドン行きのフライトはガラガラだった。機内食が片付いたのを見計らってサユリさんに声をかけた。昨晩向けてきた視線について答えたつもりだったが、サユリさんは「何が?」ととぼけた。

――何が?じゃないだろ。またあの薄汚いヒッピー野郎とロンドンで顔を合わせなければならなくなったのはアンタのせいじゃないか!。


 明日のロンドン行きは早いからと立ち上がったとき、突然ヒッピー野郎は手を叩いて喜んだ。


「マジで!?じゃあ明後日ロンドンで会おうよ!」


 大学から追試とレポート再提出の知らせがあり、ちょうどロンドンに戻らなければならないところだったという。


「ロンドンのことなら任せてよ!サユリンのために車出すし」


 サユリンなどという甘ったれた呼び方には、明らかに”隙あらば”という不快な匂いが含まれていた。にもかかわらずサユリさんは戸惑った表情を向けてきた。考えるまでもない。また腐った缶詰料理と武勇伝などたくさんだ。

 立て、ジャンヌ・ダルク!今こそこの薄汚いヒッピー野郎の首をはねてしまえ。ところが立ち上がったサユリさんは予想外のことを言い出した。


「いいですよ。彼も一緒ならば」


 俺もヒッピー野郎もそれぞれ呆然とした。しかし切り替えが早かったのはヒッピー野郎の方だった。


「しょうがねぇなぁ。じゃあとにかくサユリンがロンドンに着いたら電話ちょうだい」


 ヒッピー野郎はレシートの裏に電話番号を書くと、「じゃあロンドンで」と強引にそれをサユリさんに握らせた。


 

 ロンドン行きの窓の外には美しい青が続いていた。


「…タケさんのこと嫌いでしょ?」

「いいえ別に」


 なるべく突き放した言い方にならないようしたつもりだが、「でも」とひと言付け足した。


「あの気持ち悪い缶詰料理は二度と勘弁です」


 サユリさんはたまらず吹き出した。

 

「吐きそうになるから思い出させないで!」


 サユリさんは黒髪を揺らして笑った。それにつられて俺も笑顔を返した。サユリさんは平等であろうとするけれど、その傾きがまだこちら側にあることにホッとした。


 しかしだ。周囲の反対を押し切り、意図して一人旅を選んできたつもりが、あの薄汚いヒッピー野郎とサユリさんを二人だけにさせてたまるかという焦りは何だ。もう誰かと共有することに疲れたくなかったのではないか。今目を合わせて笑っているからといっても結局は他人同士ではないか。

 乱れた気持ちの答えなど書いていないことは分かっているが、顔を背けるとロンドンへと向かう窓の外に目をやった。

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