2001年2月16日

 スタートラベル社のサンクトペテルブルグ支店は、仲村氏の説明どおり彼のオフィスから1ブロックと離れていなかった。今回で2回目である。先日仲村氏と一緒に来てみたが、まだ営業時間内のはずなのにすでに明かりが消えていた。

 らせん階段をあがり、小さな看板が掛けられた3階のドアをノックすると、驚いたことにそこに仲村氏がいた。ノートパソコンを広げ、携帯電話を肩に挟んだまま話し込んでいる。こちらに気付いた仲村氏はマグカップを軽く持ち上げて微笑んだ。


「――実はね、急にモスクワに行くことになりましてね。よかったら一緒に行きますか?」

 

 奥のデスクで新聞を読んでいるよく肥えた男がこの店の支配人らしい。仲村氏によれば明日の朝11時台なら秘書の分も含めて3名分の空きがあるという。何が起こるか分からないロシアの旅で、言葉に堪能な人が同行してくれるのは心強い。

 ただしその場合、すでに日本で支払ったモスクワ行きのチケットはどうなるのか。


「そんなもんどうにでもなりますよ」


 仲村氏は奥で新聞を読んでいる男に何やら言葉を投げた。支配人は最初渋い顔をしていたが、やがて受話器を持ち上げて二言三言話すと、太い指を曲げて顔の前で小さな丸を作った。見かけによらず仕事のできる男らしい。


 仲村氏の秘書マーシャは、まるで愛想というものを知らない。遅れて現れた彼女に立ち上がって挨拶をしたが、彼女は「ダー」と低く唸っただけだった。

 ウェーブがかった黒髪の隙間から澄んだブルーの瞳を光らせている。ツンと尖った鼻を向けて仲村氏に何やら耳打ちをしていたが、あまりいい報告ではないらしい。仲村氏は舌打ちをして再び携帯電話を取り出すと長いケタ番号を押した。すると今度は流ちょうなクィーンズ・イングリッシュでクレームらしきを吹き込んだ。受話器を押さえながら「では明日モスコーフスキー駅で」と俺に手を挙げると、仲村氏はふたたび電話口にまくし立てた。まったく忙しい人である。


「(…あなたはサンクトペテルブルグの出身ですか?)」


 マーシャの運転でホテル近くまで送ってもらうことになった。車内の沈黙に耐えかねて雑談を切り出してみたが、返ってきたのは「ニェッ《いいえ》」という一言だけだった。


「(サンクトペテルブルグのおススメは?)」


 マーシャは一言も発せず、うんざりした顔で渋滞気味のトロツキー橋を見つめている。先日のキオスクの婦人といい、こちらの女性は笑顔というものをまるで知らない。


「…エルミターシ」


 マーシャは前の車のテールランプを睨んだまま独り言をつぶやいた。

 確かにサンクトペテルブルクまで来たのならそこには足を運ぶべきだ。トロツキー橋を渡りきると、ハンドルを右に切ってもらった。


 エルミタージュ美術館の宮殿は、エメラルドグリーンに白や金をまとい、粉雪の中で凛然としていた。その鋭利な美しさはどことなくマーシャに似ている。だがそこの300万点ともいわれる膨大な美術品を語る前に、まずは女帝エカテリーナ2世についてを素通りできない。

 このドイツ生まれの少将の娘が、皇帝ピョートル3世に嫁ぐ前のロシアといえば、ゴツゴツとした拳だけを頼りにしたヨーロッパの田舎者だった。そこに文化や美術といった色艶を与えたのが、後に「女帝」と呼ばれる彼女である。

 「女帝」という語感を知るためにも世界史は学ぶ価値がある。愛人と共にクーデターを起こし、現職の皇帝である夫ピョートル3世を葬った。女帝という鹿呼び方については、100人を超える夜のお相手を後宮に控えさせ、片手では数えきれないほど愛人たちの子供を産んだ生涯が含まれている。孫のニコライ1世にして「あれは玉座の上の娼婦だった」と眉をしかめられるほどである。

 しかし外交面では現ウクライナやポーランド・リトアニア共和国を消滅させ、治世においては国内の医療教育の拡充や文化芸術保護を行うなど、一応きちんとした実績も残している。


 そのエルミタージュ美術館である。10ドルに満たない入場料を払い、どこまでも続く絨毯をカメラをぶら下げて歩く。そもそもこの宮殿は、エカテリーナ個人の美術品とその愛人たちを鑑賞し、愉しむ場として増築された。

 思わずひれ伏したくなるようなまばゆい客間の数々だけでも圧倒されるが、ダ・ヴィンチやラファエロの宗教画、ルーベンス、レンブラントなどのフランドル画家たちの作品も見逃せないが、次第にその「美しさ」がうるさくなってしまい、適当に切り上げると街に出た。

 今日も粉雪が視界を塞いでいる。コートのポケットに手を突っ込み、前かがみになってネフスキー大通りを行く。


「ヤーパン?《日本人か》」


 声に顔を上げると、黒服が親し気に手招きをしていた。男が指差す先にはド派手なネオンが瞬いており、ガラス越しに舌を転がしながらウインクを送る美しい女たちがいた。笑いながら首を振って立ち去る。後ろからなおも声が降ってきたが、やがてそれは罵声か嘲笑の類になっていった。

 エルミタージュを埋め尽くすひとつ数十億ドルはくだらない美術品と、ネフスキー通りの風俗店を並べるのもどうかと思うが、「美しさ」とはあっという間に飽きてしまうらしいことを学んだ日となった。

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