2001年2月19日

 西欧の香りであふれていた。それは少し甘めの香水であり、PRADAやDiorのハンドバッグが放つ光沢だ。

 グム百貨店のある赤の広場前といえば、革命記念日に軍服の行進に続き、大陸横断ミサイルやアルマータ装甲戦車がお披露目される軍事パレードの目抜き通りである。このホワイトハウスの対義語である広場の前で、玄関から西側で作られた香水の匂いを漂わせ、「お支払いはドルでもOK」と微笑んでいる姿は全くもって奇異である。

 コートのポケットに手を突っ込み、赤の広場を横切る。正面に赤いレンガ造りが見える。それほど大きくはないが入り口には衛兵が立っている。中に眠るのは、壮麗なグム百貨店を発注し、史上初めて社会主義革命を成功させた男ウラジミール・レーニンである。


 クレムリンには元老院と呼ばれる黄土色の建物がある。現ロシア大統領府のことで、その丸屋根の上にロシア国旗があがっている日は、大統領閣下は本日はこちらでお仕事ということらしい。今日そこには旗はなかったが、それを指差してバカ笑いをしている一段がいた。アメリカ人観光客である。


「やい!オレ様のと比べてみるか!」


 すぐさま警棒を持った軍服が現れ、卑猥な腰の前後運動を観せていた不埒なクソガキと鬼ごっこが始まった。男子校出身者としてはこういうバカ丸出しの光景は嫌いではないし、モスクワくんだりまで来てアメリカを代表したいのもわかるが、やはりいささかやり過ぎである。


<――たとえ便所に隠れていても必ず引きずり出して息の根を止めてやる!>


 これはKGB出身のウラジミール・プーチンが、対チェチェンのテロリスト戦への意気込みとして語った名台詞である。

 ソビエト崩壊後初代大統領となったボリス・エリツィンがやったことといえば、新興財閥を恐喝し、反対派が立てこもる最高議会ビルに戦車からぶっ放したぐらいである。極端な緊縮財政は膨大な失業者を生み出し、国債濫発によって深刻な財政危機を招いた。国家統治者としておよそ不向きなこの泥酔者によって失われた10年が、”もう一度強いロシアを”という機運を醸成した。そしてその救世主として現れたのが、あのサイボーグのような顔をした剛腕リーダーである。


 ”オレ様のと比べてみるか!”で思い出すことがある。

 人類は第二次世界大戦という莫大な犠牲を経て、核ミサイルという答えにたどり着いた。その後の十数年における課題は、いかにしてソレを仮想敵国の顔面にぶっかけるかというシュミレーションだった。

 ホワイトハウスは今までに増して軍需産業に税金をつぎ込んだが、ロシア人の発想はアメリカ人のそれをはるかに超えていた。


<――ならば宇宙から撃ち込んでやればよかろう>


 スターリン亡き後の指導者は、激情家で知られたニキータ・フルシチョフである。

 宇宙を手に入れるということは、同時に大陸弾道間ミサイルにも応用できる高度な空間制御技術の獲得を意味する。これまで低空偵察機や諜報員が命懸けで集めてきた軍事情報など、宇宙に浮かんだ偵察衛星から毎分高画質で送らせればいい。そして気に入らないヤツの頭の上には、核ミサイルを背負った宇宙ステーションをうろつかせるだけでいいのだ。「宇宙開発」という4文字には、そんな魔法の杖のようなきらめきが託されていた。

 そして1957年10月4日、ホワイトハウスを震撼させる大事件が起きた。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功のニュースである。このわずか直径58センチのアルミニウムの球体に西側は戦慄を覚えた。アメリカはただちに膨大な宇宙開発費を計上し翌1958年には専門機関を立ち上げた。それが現在のNASAである。

 しかしソ連は61年4月ふたたび偉業を成し遂げた。人類初の有人宇宙飛行「ボストーク1号」の打ち上げである。ガガーリンの<地球は青かった>という言葉と共に、そのニュースは世界中に喧伝された。アメリカのこれを超える記録は、69年7月の「アポロ11号月面着陸」まで待たねばならない。


 しかしこうした熾烈な宇宙開発戦争は、いうまでもなく国民の犠牲の上で成り立っていた。ことソ連においては国民の空腹やインフラ整備を後回しにしてまで推し進められたため、次第に不満は各地の民族主義と結びついていった。やがてその膨張の波に潰される形でソビエト連邦は自壊した。1991年12月25日、レーニンが始めたソビエト連邦は69年の歴史に幕を閉じた。

 ロシアという恐ろしい巨体がたどってきた極端から極端への歴史は、人ひとりの人生をあまりに軽薄に捉えてきた。結局は古今東西の歴史が教える通り、国民の幸せを設計できない政権は続かない。どのような恐怖政治を敷こうと、それを下支えしている納税という仕組みからは逃れられないからだ。


 爪痕のような下弦の月がぼんやりと浮かんでいた。その淡い光の中でダイヤモンドダストが舞っていた。

 聖ワシリー寺院の玉ねぎアタマは、カラフルな包み紙にくるまれたチョコレート菓子のようで、軍事パレードや権力闘争の舞台となってきた広場に違和感を与えている。聖ワシリー寺院の上に浮かんだ月に照らされたグラニュー糖のような細かい光の粒が、空に怪しい光を与えていた。

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