2001年2月18日

 モスクワ・レニングラード駅の外に停まっていたBMWは、駅を迂回すると街の中心部へと加速した。今にも泣き出しそうな厚ぼったい雲がこの街に覆いかぶさっていた。


「――少しだけ寄り道させてください。ホテルまではきちんとお送りしますので」


 仲村氏はハンドルを握っているスキンヘッドに細かく指示を出した。車はニキーツカヤ通りの大きな劇場の前で停まり、仲村氏とマーシャは例の茶色い革カバンを持って車を降りた。通りの反対には両手を広げて座っているブロンズがあった。大作曲家チャイコフスキーの像である。その後仲村氏とマーシャはすぐに戻ってきた。


「これでミッションは終わりました。ささやかながら今宵いかがです?」


 再び車を出させると、仲村氏はマーシャから受け取ったセカンドバッグの中からダンヒルと金色のライターを取り出した。


「…その前に、あのカバンの中身は何だったのです?」


 ここでうやむやのまま終わらせるわけにはいかない。すると仲村氏は大袈裟に頷くと微笑んだ。

 

「もういいでしょう、我々はロシア産の宝石を専門に扱う宝石商です。あのカバンの底には600万円相当のデマントイド・ガーネットの原石が入っていました」


 仲村氏は事も無げに言うと煙を吐き出した。冷たい戦慄が胸の底を這った。

 イズマイロヴォホテルはモスクワ中心部からやや北東にある。1980年のモスクワ五輪の選手村として建てられた。ベッドフレームをひっくり返せば旧時代の盗聴器などが出てくるかもしれない。だが構うもんか。ベッドに大の字になったまま目を閉じた。

 俺もとことん甘い。おそらく仲村氏は一緒にモスクワ行きを提案した段階からこういうシナリオを想定していたのだろう。もしあの二重底の中身が覚せい剤だったら、今頃やわらかいベッドの上で伸びている場合ではなかった。急に疲れが押し寄せてきた。熱いシャワーを浴びると、そのまま約束の19時まで泥のように眠った。


「――改めて今回はとんだご迷惑をおかけしました。平にご容赦くださいね」


 太い首に蝶ネクタイを食い込ませた格好で現れた仲村氏は、ショットグラスを持ち上げた。


「ザフストリェーチュ!(出会いを祝して)」


 ショットグラスを傾けると、マーシャはその手をそっと仲村氏の右手に重ねた。二人から同じ香水がした時点でそういう関係なのだろうと思っていたが、こうも目の前でいちゃつかれると目のやり場に困る。

 モスクワでも珍しいシベリア料理の専門店は、ほんのりと燭台の中で揺れていた。


「それ美味しいでしょ?」


 添えられたコケモモのソースが際立っているが、噛めばややエキゾチックな肉汁が口の中に広がった。


「それはクマ肉のステーキです」


 絶句している俺の顔を見て彼らは笑った。他にも氷頭なますのような凍った魚のマリネや揚げピロシキなど、意外にも豊かなシベリアの味を楽しんだ。



「――この商売を始めて長いが、今回ほどの石はもうお目に掛かれないでしょう」


 ガーネットといえば一般的に情熱的な深紅が有名だが、デマントイドはその美しいグリーンから「ガーネットの王様」と呼ばれる幻の石だ。


「もう採りつくしてしまったと聞いてましたが」

「さすが宝石屋のご長男。色々知ってますな」


 仲村氏は楽しそうに笑った。 デマントイド・ガーネットがウラル山脈ふもとの村で発見されたのは今から150年ほど前のことだが、その後鉱脈のある村全体がマフィアの管理下になっているという話を聞いたことがある。

 そうした意味での希少性もあるが、デマントイドにはホーステイルという特有の繊維線(インクルージョン)が入っており、これが少なければ少ないほど価値はあがる。


「今日届けた石は残念ながらインクルージョンだらけでした」


 それでも大金を払う連中はいるんですと、仲村氏はショットグラスのウォッカを一気に煽った。

 ロシアはその広大な大地に、天然ガスや石油など外貨を稼ぐ手段を多く持っている。そしてダイヤやエメラルドといった鉱石類もその重要な外貨獲得アイテムのひとつである。


「だからね、我々宝石商は都市間の移動でさえも事前に申請が必要なんです」


 今回はおそらく何らかの形で情報が漏れ、あざとくそれを嗅ぎつけた悪徳警官にたかられてしまったというのが仲村氏の見立てだ。


「ただね、我々にとってはむしろグレーゾーンがあったほうがやりやすいんです」


 条例や法律の行間を読み、その隙間を縫って生息するその顔は、まさにカオスの住人そのものだった。


「私はね、連帯責任ってのはつまり無責任だっていつも言っているんです。この国じゃそんな生温い考えではやっていけない」


 ブランデーグラスの琥珀色に語り掛けるように仲村氏は続けた。


「モノの価値も人生の価値も他人が決めることじゃないんです。大事なのは自分で決めた価値を信じ続けることじゃないですか?」


 仲村氏は顔を上げると横のマーシャの肩を抱いた。マーシャは微笑みながら仲村氏の分厚い肩に寄り添った。


 夜のモスクワは静まり返っていた。店に入る頃に降り出した粉雪は、路面をうっすらと白くしていた。さすが仲村氏もマーシャも強い。ウォッカやブランデーを代わる代わる注文して、店を出る足取りは少しもぶれていない。

 モスクワの夜にオリオン座が浮かんでいた。目が慣れてくると、恐ろしいほどの星が空を舞っていた。レストランを出た3人は雪のやんだ空にそれを見つけ、白い息を吐きながら夜空に見つけた星をいつまでも数えていた。

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