2001年2月17日

「――実家といってオヤジもお袋ももう仏壇の中だし、今は弟夫婦が住んでいるからどうしても足が遠のいてしまってね」


 車内販売のビスケットを広げながら仲村氏は東京の話しをし始めた。車窓には時折雪をかぶった松やモミの木が写る。サンクトペテルブルグから5時間半。モスクワは680km先にある。秘書のマーシャはキュッと唇を結んだままノートパソコンを見つめている。仲村氏は紅茶に沈んだイチゴジャムをかき回すと、なおもおしゃべりを続けた。


「ロシアのほうが落ち着きますか?」


 20年近く故郷を離れ、異文化の中で暮らす気持ちを聞いてみた。


「とんでもない。どんなに現地の言葉が話せてもやはりここではガイジンだ。舐められたらおしまいだから必死なんです」


 今一つこのオヤジのことが分からない。基本的に穏やかな紳士なのだが、時折ゾッとするような冷たい目をしている。隣に座っているマーシャも含め、安易に他人を立ち入らせない結界のようなものを感じる。

 オクロフカという町を過ぎ、トンネルを超えたところで誰かがコンパートメントのドアをノックした。ドアの外に制服の男が二人立っていた。目を閉じて休んでいた仲村氏は慌ててドアに駆け寄った。


「警官です。下がって」


 仲村氏は俺を奥へと押しやった。マーシャは拳を膝の上に置いたまま横目で様子をうかがっている。鋭い緊張感が狭いコンパートメントに広がった。ところが警官たちは仲村氏といくつか言葉をかわすと突然去っていった。

 ドアがしっかりと閉じられたのを見届けた仲村氏は早口でマーシャに何事か指示を与えた。そして茶色い革カバンの中身を突然床の上にばらまいた。


「ちょっと、何があったんです?」


 声をかけられる状況でないことは分かっていたがよほどの緊急事態らしい。


「詳しい話しは後で。とりあえずあなたはロシア語も英語も分からないフリをしてください。それからこのカバンはあなたのものということにさせてください」


 決して怪しいものは入っていないというが、マーシャは赤いボストンバッグの中に詰め込まれていた衣類をせっせと茶色い革カバンに詰め込んだ。口ごもって立ち尽くしていた俺に仲村氏は今まで見せたことのない凄みのこもった目を向けてきた。


「乗り切るしかねぇのよ。AでダメなりゃB。BがダメならCだ。それがロシアで生きるってことです」


 ふたたびドアがノックされた。先ほどの上長の方が一人で立っていた。彼は遠慮なくコンパートメントに入ってくるとピタリとドアを閉めた。

 男はまずマーシャを指差し身分証を提示するよう言った。マーシャは不貞腐れた表情で身分証を突き出した。それを返すと次に仲村氏を指差し何やら詰問をはじめた。仲村氏はアタッシュケースから数枚の書類を取り出し、携帯電話を突き出して男に迫った。頑丈そうな顎に青白い頬。小さくはまった目。ホオジロザメは微動だにしない。


「パスパルト!」


 男は突然こちらを指差すと、有無を言わさない口調で手を突き出した。仲村氏と目を合わせ、カバンの中からパスポートとバウチャーを取り出した。パスポートをめくっていた男は眉間にしわを寄せながら何事か俺に尋ねた。すかさず仲村氏がそれを訳して伝えてくれた。


「なぜこれほど多くの入国スタンプがあるのだ、と言ってます」

「…私は、旅人だ」


 腕を組んだままのホオジロザメに向かって日本語で答えた。仲村氏はしばらく俺の横顔を見つめて黙っていた。


「…オン ジョナリスト《彼は記者だ》」


 後になって、”バックパッカー”というニュアンスのロシア語がないのでジャーナリストと答えたと聞かされた。


「ジョナリスト?」


 ホオジロザメは疑わし気に繰り返すと、俺の肩掛けカバンを指差して中身を見せろと迫ってきた。仲村氏は抗議をしたが男は腰に下げた拳銃の入ったホルダーをパンパンと叩いて仲村氏を黙らせた。

 不承不承カバンの中身を見せると、「それもオマエのか?」と男は例の茶色い革カバンを顎でしゃくった。一瞬ためらったが、小さく頷くと衣類で膨れたカバンも差し出した。ホオジロザメは大雑把に中を調べるとすぐに興味を失い、再び仲村氏のあら捜しを再開した。

 すると突然仲村氏はスッと立ち上がると、財布からまとまった束を取り、握手を差し出しながらそれを男のポケットに滑り込ませた。実に慣れた手つきである。ホオジロザメは口をゆがめて頷くと、二言三言何かを言いつけて立ち去った。


「ケッ、悪徳警官め」


 仲村氏はドアがしっかり閉じられたのを見届けると呪詛を吐いた。


「アイツは最初からそういう目的だったんです」


 言ってあごひげをゴシゴシこすると、急にいつもの柔和な表情に戻り、場違いな笑い声を立てた。


「とんでもない騒ぎに巻き込んでしまいました。近頃はチェチェンの連中があちこちでおっかないことを企てるんでね。色々ピリついているんです」


 そこではないはずだ。息を吐くと仲村氏を見据えた。しかし彼は鷹揚に手を振ると予めこちらの質問を遮った。


「まぁこの穴埋めは必ずします。モスクワに着くまでは我慢してください。必ずお礼しますので」


 仲村氏は何事もなかったかのようにビスケットを一つ摘まむと口の中に放り込んだ。マーシャも冷めてしまった紅茶に手を伸ばしてため息をついた。

 一体この人たちは何者なのだ。モスクワ行きの高速鉄道はふたたび長いトンネルの中に入っていった…。

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