2001年2月20日
ヴォルゴグラツキー大通りに面した木造3階建てを訪ねると、仲村氏は右目にルーペを当てたまま指先を覗き込んでいた。
「――そろそろ訪ねてくる頃だと思ってましたよ」
ルーペと指先につまんでいた石を置くと、仲村氏は受話器を取った。そして言葉少なに相手に何か伝えると目頭をもみながら受話器を戻した。
「…ったくバカにつける薬はねぇな」
ひとつ江戸弁を吐き捨てると、仲村氏は一転穏やかな表情になり乾いた笑い声を立てた。この怪しいオヤジには不思議と惹かれる。何が大事で何が大事でないか、どんな状況でも瞬時に判断が下せる強さが滲んでいる。
「どう思います?」
仲村氏は先程までつまんでいた石を俺の前に放り出した。透明な結晶がテーブルの上でカラリと鳴った。
「合成ですね」
「手にも取らずに言い当てるとはさすが宝石商のご子息だ」
仲村氏は楽しげに声を上げた。
「紹介がありましてね。1.6カラットを売りたいという男がいるから会ってくれって。とりあえず預かってみたんですが御覧の通りです。合成ダイヤを天然として売り込まれるとはわたしも相当舐められたもんだ」
発掘量では世界一位をほこるロシア産ダイヤモンドは、1カラット(0.2g)以下の小粒がほとんどだ。天然か合成かは宝石商である親父でも簡単には判別できないらしいが、仲村氏がビニール袋にしまった石は大きさの割にあまりにもキレイ過ぎた。
ロシア産の小粒ダイヤは工業用として使用されるか、あるいはメレと呼ばれる1カラット以下を組み合わせた商品として店頭に並ぶ。
「そういう小粒ダイヤを売りさばくためにデビアスが考えたのが『スイート10ダイヤ』や『マイルストーンダイヤ』という商品ですな」
業界最大手デビアス帝国の名前が出たので掘り下げる。
ダイヤモンドが、ルビーやエメラルドより高価として取り扱われるようになったのは、研磨技術が発達した20世紀になってからである。その後世界の9割のダイヤモンド鉱山を収めるデビアスは、採掘、原石売買、小売の全てをワンストップで行ってきた。それによりダイヤモンドの世界的な価値をたった1社でコントロールしてきた。
「『サイト』と呼ばれる業者向けの販売会がありましてね。販売方法はいたってシンプルで、会場に行くと無作為にダイヤの原石が詰まった袋が渡されるんです。取引はその袋ごと買うか買わないか。それだけ」
袋の中身は確認できるが、コレとコレだけという選び方はできないし、価格交渉にも一切応じない。
「All or Nothing。もちろん手ぶらで帰ることもできますが、たぶん次の販売会には呼ばれないでしょうな」
こうしたデビアスの伝統的な取引は、一方でダイヤモンドの市場価格を一定に保ってきたといえる。しかしデビアスが考える世界秩序のため、時には独立国家ですら標的にされた。「第二のデビアス」と期待されたイスラエルのダイヤモンド事業がそれで、デビアスは世界中の金融機関に圧力をかけてこれを撃沈させた。また独占禁止法で噛みついたアメリカは巨額の和解金でこれを黙らせた。
「日本じゃ”婚約指輪は給料3か月分”とか言うでしょ?あれは日本人にダイヤをもっと売りつけたかったデビアスが考えたキャッチコピーですな。そもそも欧米には婚約の際にダイヤを贈る習慣なんてないんだ」
日本の男性諸君はたまったもんじゃないですな、と仲村氏は俺の肩を叩きながら豪快に笑った。
「――それにしても、あなたを見ていると自分の若い頃を思い出しますな」
仲村氏は立ち上がると棚の中から箱に入ったスコッチと、一冊の古いアルバムを持ってきた。広げた中に古代遺跡の中で立ち尽くしている若い頃の仲村氏がいた。髪は肩まで伸び、今よりだいぶほっそりしている。大きなバックパックを背負い、照り付ける太陽を逆に睨み返していた。リビアやアフガニスタンといった風景が続いているところを見ると、中途半端な旅人ではなかったらしい。
「学生運動の名残がまだあった時代でしてね、左翼もフォークソングも全部ひっくるめて大人たちから眉をしかめられていたんです。でも僕らは世の中に本気でキレてたし、とにかく尖ってましたね」
70年代と言えば学生運動はすでに減退期にあったが、組織や体制に縛り付けられることを嫌う若者たちの間で、次第にヒッピー文化が形成されていった時期である。
仲村氏はスコッチを開けると、マーシャや俺の分のショットグラスを並べた。
「だんだん無秩序な世界に惹かれていってね。モノもない、カネもない、インフラも法律も平等ではない世界では徹底的に己でいないと生きていけない。でもね、そういう世界の人間ってこちらが微笑むと必ず微笑み返してくれるんです。だって微笑むことが唯一の娯楽だからね」
仲村氏はマーシャを見やるとその華奢な手を取った。とうとう俺には見せてくれなかったが、マーシャはただ一人のための笑顔を仲村氏に注いでいる。
「いいですか、本気でキレることができるものを見つけてください。妥協できるものじゃだめなんです。そのためなら命を張れるものこそ野郎の価値なんです」
ふと合間に見せた混沌世界の住人の目を見逃さなかった。
「ナパサショーク!《旅の無事を祈って》」
仲村氏は立ち上がるとスコッチをあおり、マーシャもそれに続いた。
無言でうなづくと俺も琥珀色の情熱を一気にあおった。灼けつくような一杯が心に新たな火を灯してくれた。
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