2001年2月24日

 ダイヤモンドダスト舞うヤロスラヴリ駅を出発して4日。深緑色の16車両はモンゴル国境を目指し、雪原の中を一定の速度で駆け続けている。


 「シベリア鉄道」と聞いても交通手段である以上のときめきはなかったが、それが中国車両と知ったときはさすがに幻滅した。モスクワの起点となるヤロスラヴリ駅の凍てつくプラットホームで「莫斯科モスクワ烏藍巴托ウランバートル‐北京」と打ち付けた列車を見つけた。

 それにしても烏藍巴托とは酷い。中国語で”ウーランバートォ”という音になるが、中国で烏(カラス)といえば死体に群がるそれであり、不吉の象徴でしかない。莫斯科にも小馬鹿な匂いがしないでもない。中国人だけなら問題ないかもしれないが乗客のパスポートも様々である。


 タジキスタン人のイワノフ氏は今年54歳。彼にとってウランバートルまでの数日間を退屈させたのは、同じ部屋の住人である俺が十分な話し相手にならなかったことだ。にもかかわらずこちらのロシア語の辞書をひったくっては、飽きずにアレコレと話しかけてきてくれる。


「オレの仕事は金の採掘さ。南モンゴルにはまだまだ未開の鉱脈があるんだぜ!」


 南モンゴルは広漠なゴビ砂漠に飲み込まれている不毛地帯だ。しかし近年この人跡途絶えた一帯から金や銅が見つかった。イワノフ氏はウランバートルで乗り換え、先に現地入りした仲間たちが待つ南部ダランザドガドを目指す。


 隣のコンパートメントには、切れ目涼し気なモンゴル美人と、その弟という凶暴な顔つきの男が暮らしている。

 夜な夜な妙な声が聞こえていたが、それはこの男の寝言だということが昨晩判明した。いよいよイワノフ氏と苦情を言おうと決起したが、終始酒臭い息を吐いている男がドアも目も半開きに閉め忘れて、「アーン、アーン」となまめかしい声を上げながら寝入っていた。別のベッドでは、薄いネグジェ姿が壁側に顔を向けて肩を上下させている。イワノフ氏は二人の醜態を目に焼き付けると、「スヴィーニャ!(ブタ野郎ども!)」と呪詛を吐き、男の口のようにだらしなく開いているドアに蹴りを入れた。

 客室乗務員を務めるのはスーとハンという中国人だ。二人の業務は停車時のドアの開け閉めと便所掃除ぐらいで、学生のアルバイトでも務まりそうな内容だが、毎度揉めては互いに罵声を浴びせ合っている。

 何度も名前を教えたはずだが、やがて面倒くさくなったの彼らは無許可で俺を「SONY」と呼ぶことにした。お客様が張り紙を守って極寒の列車連結部でせわしなくタバコを吸っているにもかかわらず、遠慮の二文字を知らない彼らは、インドの牛のようにあっけらかんと寝そべり、ベッドの上でプカプカやっている。

 対空砲を積んだ戦車が特別車両で運ばれているのを見れば、ここがまだロシアであったことを思い出す。それ以外に車窓に写るものといえば針葉樹の森ぐらいである。しかしこの世界から隔絶された14両目で起こる事件簿は少しも退屈しない。


 その時、旅の写真を見ながらベッドでウトウトとしていた。まだ昼の2時過ぎで、イワノフ氏は雑誌のクロスワードパズルを顔に乗せたままいびきをかいていたが、突然聞こえた切り裂くような断末魔に2人とも跳ね起きた。イワノフ氏と目を合わせると声がした廊下に飛び出した。

 声の主はあの凶暴な顔つきをしたモンゴル人で、しかし隣のコンパートメントからではなく、15両目との連結部の外から必死の形相でドアを叩いているのが見えた。イワノフ氏が慌ててドアを開けようとしたが、男はさらに声を上げ、イワノフ氏の急な行動を中止させた。

 キャミソールの下で乳を揺らしながら駆けてきたモンゴル美人の後から、客室乗務員のソーとハンも首を伸ばしている。イワノフ氏は凶暴男と呼吸を合わせ、慎重にハンドルドアのレバーを下に押し下げた。車内に一気にマイナス40度の冷気がなだれ込み、全員が固く目をつぶった。見ると、男の手はハンドルドアを握ったまま凍り付いていた。


 顔の作りの割には車内マナーに従順な凶暴男は、2本目を吸い終えて車内に戻ろうとしたが、この時レバーを押し下げた右手と粉を吹くほど凍り付いたハンドルががっちりと結婚してしまった。引きはがそうにも接着剤で留められたようにびくともしない。生命の危機を感じた凶暴男は、恥も外聞も捨て大声で泣きわめき始めたのである。

 モンゴル美人と凶暴男が罵り合っている間、スーとハンは部屋に戻ってポットの湯を水で薄め始めた。しかしやがて彼らの部屋からも罵り合いが聞こえはじめた。イワノフ氏はモンゴル人たちをなだめ、俺はスーとハンに大喝を浴びせると、桶を奪って駆け出した。


「おいSONY!そこで湯を撒くな!廊下がビショビショになる!」


 声を背中で聞いたが「俺の名前はSONYじゃねえ!」と叫ぶと、凶暴男の手をめがけてワッと中身をぶちまけた。男は目をトウガラシのように真っ赤に染めて再び絶叫した。おかげで、その後全員床に這いつくばって雑巾がけとなった。


 あと一晩でウランバートルである。まずは熱いシャワーだ。できればランドリー付きのホテルに泊まり、たっぷりとした湯船に浸かりたい。

 シベリアの果てしなさに、仲村氏からもらった12年物のマッカランはすでに空になって床に転がっている。待ち遠しい明日の朝日を夢見て、今は再び目を閉じることにしよう。

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