2001年2月28日
「困るよ!こんなことされちゃ!」
バヤルは店の外に出てもなお収まらない様子で、恋人のドルマーが必死に彼の腕を引きながらなだめている。さらには矛先をツェレンに向け「まさか余計なことをしゃべってくれたんじゃないだろうな」と詰め寄っている。
この宴は、バヤルとドルマーそしてツェレンへのお礼を込めて用意させてもらった。旧正月ツァガーンサルの家族の団らんを後回しにし、この旅人に暑苦しいほどの親切を注いでくれた。そうした彼らの厚意を楽しいお酒で返そうと考えた。
どこかによいレストランはないか。受付の老婆に尋ねたが「アイドンノー!」と追い返された。ホテルから街に降りていく坂の途中にある旅行社が数件のレストランをピックアップしてくれた。リストをなぞっていた指が「TOKYO」というレストランで止まった。
<ウチは定食屋みたいなもんだからあまり期待されてもアレなんでね!>と聞かされていた割には、天ぷらも巻き寿司も上品だった。店主の北村氏は、モンゴル航空の駐在員に気に入られ、市ヶ谷の小料理屋から引き抜かれた。
「こっちで嫁さんもらったからここで骨を埋めるしかないっスよ!」
北村氏は短く刈り上げたこめかみを恥ずかしそうに掻いた。奥で黙々と洗い物をしているのがその奥方らしい。
「醤油なんかはそこらのスーパーで中国産が手に入るんですが調味料だけは譲れねぇので空輸させてます。その分ちょいと値が張っちまいましたが」
世界中でさんざん「ニセモノ日本料理」を見てきた人間としては、北村氏のこだわりには頭が下がる。反り返ったウィンナーを乗せた握り寿司にはじまり、カレー粉で染められたたくあんなど、今すぐ店の外の日の丸を降ろせと怒鳴りつけたくなるような地獄を見てきた。
かき揚げも茶碗蒸しも好評だったが、バヤルたちがそろって一番に挙げたのは「八幡巻き」だった。薄切り肉の中に市松模様に並べられたにんじんとごぼうに市ヶ谷小料理屋の技が光る。
「チャンスンマハよりうまい肉なんて初めてだよ!」
斧でぶった切った羊を海水程度の濃い塩水で2時間ほど煮る。これがモンゴルを代表する伝統料理チャンスンマハの全てだ。材料は肉・塩・水という潔さで、臭み消しのハーブもスパイスも登場しない。男も女もそれをナイフの先端で骨の髄までえぐって喰らう。それに比べてこの繊細さはと、3人は八幡巻きの美しさにほとんど泣きそうになっていた。
明日の朝、北京行きの国際列車に乗る。
ウランバートル最後の宴であり、また彼らにとっては楽しい旧正月の締めくくりとなる。
飲み足りないバヤルのために途中の雑貨屋でタクシーを停めると、酒や軽食を買い込み、そのまま俺の部屋になだれ込んだ。「今夜は朝まで飲むぞ!」と意気込むバヤルにうんざりしてツェレンの顔を見たが、「最初に寝た人が負けですからね!」と彼女も白い歯を見せた。
ダライ・ラマの話題になった。
チベット問題について、中華人民共和国設立後の歴史のみを切り取るのは間違いである。1653年ダライ・ラマ5世の清訪問以来、チベットにはモンゴルやインド・ネパール、そしてイギリスやロシアなどが出没し、常にその帰属が問題になってきた。
しかし1949年以降「内政干渉」の4文字でつっぱね続ける中国政府の性格の悪さは特別記しておかねばならない。現在までに90%以上のチベット僧院が破壊され、120万人ものチベット人が投獄されたきりになった。中国側のチベットに対する解釈がどうであれ、世界はそれを「ジェノサイド」と呼ぶ。
それだけでも中国共産党は罪深いが、チベット高原を源流とする大河が人質になっていることを忘れてはならない。インダス、ガンジス、ブラマプトラ、メコンなど南アジアを潤す大河の源流は、たどればチベット高原に眠る巨大な氷河につながっている。その源流付近に使用済み核燃料を遺棄し、ダムで水をせき止める威力を中国指導部は熟知している。
「――それでもダライ・ラマは中国政府を憎んではいけないと教えている。一貫して対話による解決を望んでいるんだ」
中国の複雑な内部事情を含んだ上で、無理に独立を求めず、チベット文化や環境への自治権を求める。これがダライ・ラマのスタンスだ。その精神を引き継ぐことはなかなか難しいとしつつ、「僕たちの幸運は尊敬できる指導者がいたこと」とバヤルは締めくくった。
言いたいことを言い終えると「難しい話はもうよそう」と彼は屈託なく笑い、ベッドで完全に寝落ちしたドルマーに毛布をかけてやった。この二人は中国人とモンゴル人というこの国で最も許されないカップルである。ことさらにダライ・ラマの寛容と勇気を聞かせてきたのは、その背景にいずれ互いの両親を説得しなければならないことを見据えてだろう。その道のりは険しい。バヤルは毛布の膨らみをいつまでも愛おしそうに撫で続けていた。
…夜中、ベッドの上の膨らみが規則正しく軋む音で目が覚めた。
暗闇の中で時折漏れる噛み殺した吐息の意味を理解し、寝返りを打って彼らに背を向けた。
驚いたことにソファに横になっていたツェレンが目をパッチリ開けてこちらを見ていた。その視線としばらく絡み合っていたが、俺はふたたび目を閉じると横を向いた。
世界平和を語るには、俺たちはまだ若すぎる。何故だかおかしくて笑いがこみあげてきた。つられてソファからもフフッと聞こえた。
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