2001年3月2日
ウッドテーブルには飲み残したチリワインが残されていた。唇の跡が残ったそれを飲み干すと、グラスをきれいに洗ってラックに戻した。姉さんが座っていたソファはまだ温かかった。ひじ掛けを伸ばし、シーツや毛布を広げて横になる。まだ話しかけてくれそうなぬくもりを抱いて目を閉じた。
広尾の中国大使館に赴任した父親に連れられ、
忘れもしない。北京滞在最後の晩餐会のときだった。会場となった北京飯店の大広間には、中国外務省高官や日本からの随行議員など総勢200人近くが集まり、一級料理人による皿が次々と運ばれてきた。その席で
「――みなさん、明日は彼の17歳の誕生日です。一日早いですがみんなでお祝いしたいと思います!」
壇上で呆然としていると、背後に<祝你生日快楽!《お誕生日おめでとう》>という横断幕が音を立てて流れ落ち、会場の後方から大きなホールケーキが運ばれてきた。割れんばかりの拍手の中、
「…あーん」
200人が注目する中、彼女は真っ赤なルージュを半開きにして近づいた。しかし次の瞬間、汚い音と共に妖艶な彼女の姿は消えた。
顔に押し付けられた紙皿がベロリと剥がれ落ちると、そこには腹を抱えてうずくまっている
「
「誰だい彼は?コレか?」
議員どもとの会食は深夜に及ぶことがある。彼らは外でスーツを着て待機していた俺に小指で立てた。
「東京に住む弟です」
姉さんは薄く口角をあげて決まってそう答える。俺は議員センセたちに軽く頭を下げると黙ってアクセルを踏んだ。
「飲み直したいわ。どこかに連れてって」
姉さんの希望で神楽坂のイタリアンに入ったが、本当はそんな背筋を伸ばさなければならないテーブルなど不要で、たとえ無言の車内であってもふたりだけになれるだけで俺は十分幸せだった。
「――世界のあちこちからポストカードを送ってくれるけど、なぜ北京に来てくれないの?」
2杯目の白ワインが運ばれてきた後、姉さんは急に弟の不義理を責め始めた。来春ヨーロッパからユーラシア大陸を横断する最後に北京に寄りますと答えた。
「そう?じゃあその時はわたしの家に泊まって」
「
”彼は弟です”、”姉がお世話になっています”と触れ回ることで、わざわざ曖昧にしてきた気持ちがある。しかし誤ってそれを超えてしまった瞬間、俺たちには罰しか待っていない。
ところが、姉さんは口元に運ぼうとしていたティラミスを止めると軽く俺をにらみつけた。
「もしホテルになんか泊まったらあの時みたいにこれをそのカワイイお顔に投げつけるから…」
だいぶ遅い朝になった。
今朝の北京はどんよりとしているが、自室から出てきた姉さんの表情はその空よりもひどい。
「――寝違えちゃったわ。肩揉んでくれる?」
ティラミスの誓いから数カ月、約束通り俺は姉さんの自宅のシャワーを借りている。ソファに腰掛けた姉さんの後ろに回り華奢な肩に触れた。シルクのガウンの下には絞めつけるものは何もないらしく、中で女が揺れていた。俺は目を閉じて彼女の肉と骨の間にゆっくりと指腹を喰いこませた。
「――そういえば明日3月3日は姉さんの誕生日ですよね。欲しいものはありますか?」
”そういえば”などととぼけたが、もちろんこの日に合わせて移動してきた。
「欲しいものねぇ…」
姉さんは目を閉じていたが、やがてフフッと笑うと残酷なことを言いだした。
「じゃあ、結婚してくれる?」
姉さんは冷酷な人だ。
彼女の物静かなボディーガードでありつづけることを課すことで、それ以上の存在になる可能性をどうにかねじ伏せてきたのだ。それを冗談にも「結ばれたい」などとはあまりにも残酷だ。
「だってこんなに上手に肩を揉んでくれる旦那さんがいたら嬉しいわ」
姉さんは俺の手をポンと叩くと、スッと立ち上がって背伸びをした。
「お誕生日にケーキを用意します」
「…それをどうするつもり?」
”ケーキ”という単語に姉さんはすばやく反応した。俺は窓の外に向けて笑い声を立てた。まさかあの時の仕返しにその澄ました顔に塗りたくるつもりとは言えない。姉さんは黒髪を払うと、包み込むような笑顔を同じ窓に向けた。
「(…そんなことしたら必ず殺すわ)」
とても国際友好協会の幹部とは思えない死刑宣告ではあったが、その目は優しさにあふれていた。
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