2001年3月1日

 死の淵まであとどれぐらいだったのか測りようもないが、間違いなくそれは今まで嗅いだことのない匂いであり、吹きさらしの荒野に口を開けた巨大な亀裂だった。


「おい日本人!大丈夫か!」


 ――馬鹿野郎。人には名前というものがあるのだ。ここでお陀仏したらそこら辺に落ちている段ボールの切れ端に「日本人の墓」とでも書いて添えるつもりか。

 額を預けた窓ガラスの冷たさが心地よい。荒涼とした砂漠が世界の果てまで続いていた。中蒙国境に広がるゴビ砂漠である。振り返るのも億劫だったので「…うん」とかすれた声を出した。



 朝8時5分、列車はウランバートルを後にした。行商帰りの中国人夫婦の子どもたちに折り鶴を教えたりしながら北京までの退屈を紛らせた。


「冬のウランバートルなんてつまらなかったろ?」


 行商夫婦は気の毒そうに笑った。たしかに夏なら草原で乗馬ツアーという楽しみ方もあったのかもしれない。しかしマイナス20度が吹き荒れるこの季節、それ以上に心を温めてくれる出会いがあった。ウランバートル駅でいつまでも手を振ってくれた、バヤル、ドルマ、そしてツェレン。彼らのことは生涯忘れない。


「ただ一つ心残りだったのは、アイラグが飲めなかったことですね」


 アイラグとは馬のミルクに干しブドウなどを発酵種として作られる地酒のことで「馬乳酒」と訳される。さすがのツェレンたちも「あれは夏の飲み物ですから」と首を振っていたが、それを聞いた行商は膝を打って大笑いをし始めた。


「アンタ運がいいな!それならここにあるぞ!」


 主は足元から大きなペットボトルを取り出すと、ボトルの腹を叩いた。歯磨きから戻ってきたおかみさんのプラスチック製のコップをひったくると、彼はそこに白濁した液体をなみなみと注いだ。

 後から思えばコップの淵に唇をつけた段階で違和感があった。舌の上で転がしながらゆっくり飲み込んだが、すぐに鋭いかゆみが喉の中に広がった。目をパチパチさせながら苦悶する俺を見て、彼らは手を打ち鳴らし煽り立てた。こうしてノリで国際交流を選んだ結果、まもなく俺は生死をさまようことになった。


 トイレに駆け込んだのは覚えているが、しだいに内側から水没していくかのように気管が狭まってきた。ビニール袋を口元にあてて呼吸を整えようとしたが、背中全体を使って肺に空気を取り込もうとしたがやがて目の前が暗くなり始めてきた。列車に揺られているのか、ろうそくの火が消えようと震えているのか。ただ零れ落ちていく感覚をぼんやり眺めていたが、やがてプツリと灯りが消えた…。


「急に倒れたから大騒ぎになったよ!」


 さすがに行商人一家は反省していたが、決して彼らのせいではない。自家製のアルコールなどという無責任なものを一気飲みするなど自殺行為に他ならない。


 それにしても、死を目の前にした時の落ち着き様はどうだ。

 死という巨大な闇に飲み込まれようとした時、何ひとつあがこうとせず、ただ事象として受け入れようとした自分が怖くなった。


<――名も知らぬだれかのおかげで今日も旅を続けられるんだぜ>


 スナフキン先輩のあの言葉は、孤独な旅の中に答えを求め続けた彼自身への戒めであり、また「俺のようになるな」という後輩へのメッセージでだったのだろう。”だれかに生かされている”という俯瞰が成立してこそ、旅は、そして人生は、点から線となるということを身を賭して教えてくれたのだ。

 もう一人旅はもう十分だ。帰国したらこれまでの俺を支えてくれた人たちに自分の未熟さを詫びよう。人生は経験値ではない。死に際に誰の顔も浮かばない人生などまるで価値はない。ポケットにしまっていたスナフキン先輩のZippoライターを握りしめた。

 ただ旅の最後に、生き急ごうとする「あの人」をどうにか救えないものか――。



 北京、朝陽区秀水南街。在外公館が集まるこの一帯の最上階に彼女は住んでいた。

 その人は、ゆったりとした所作でフルートグラスをダイニングテーブルに置くと、長い黒髪を払って頬杖をかいた。


「…どんどん大人になっていくのね。嬉しいわ」


 于春麗ユー・チュンリー女史。

 「北京の姉」と慕うその人は、こちらの旅の話を遮らずに最後まで聞くと、指先で軽く俺の手の甲を突いた。


「そうよ。急ぐことはないわ」


 熱っぽく語りすぎたことを急に恥ずかしく思った。

 姉さんは俺が旅先から送ったポストカードを数えると、細いメンソールを引き抜いた。すかさずポケットからZippoを取り出すと膝をついて火を差し出した。


<――姉さんの忠実な番犬より>


 ふたりの間に血のつながりはない。しかしそれでも姉と慕い、弟と呼び合う。そして手紙に「忠実な番犬」と署名することで、わざわざ曖昧にしている気持ちがふたりの間に存在している。


「…もう大丈夫。ここは北京よ」


 7階の窓の外には茜差す北京の街が広がり、はるか地上では高架橋の上を赤い点滅が滑っている。


「(彼らはどこに向かっているのかしら?)」


 突然の中国語に顔を上げた。

 何の謎かけかのつもりか。姉さんは西へ流れていく赤いドットを眺めていたが、やがてくぐもった笑い声をあげた。


「(きっとわたしたちと同じ地獄だわ…)」


 ”わたしたちと同じ地獄”とは、姉と弟と呼び合うこの関係のことか。あるいは誰のために生きるか探し続ける退屈な日々のことか。

 紅がついたタバコが紫色の細い煙を立てている。生と死がテーブルの上で漂っていた。

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