2001年1月26日
童話作家アンデルセンの逸話を知ったとき、ホッとする部分とヒヤリとする部分があった。
「旅は人生の一部だ」という言葉が切り取られるほど、アンデルセンは旅好きで知られた。リバプール・マンチェスター間でようやく蒸気機関車が走り始めた1830年代に、彼は29回も外国にカバンを持って出かけている。
コペンハーゲン中央駅は包み込むような寒さだった。吸い込むのは空気というより冷気そのものだった。国鉄に乗り、デンマーク第三の都市オーデンセへと向かった。アンデルセンがその街に生まれたのは1805年のことである。
この大きな鷲鼻と広い額の童話作家について、「デリカシーに欠ける人物だった」という評価がある。旅先で世話をしてくれた知人宅で迷惑がられているのも知らずに長期滞在を決め込んだり、片思いの女性に変態的な長さの自伝を送りつけたり、およそ対人スキルにおいて周囲の眉をしかめさせることが多かった。
アンデルセンの生家とされる小さな建物は、オーデンセの旧市街にあった。私人としての評価はどうであれ、『人魚姫』や『マッチ売りの少女』、『雪の女王』などの作品は、童話というジャンルでは括れないほど感情を揺さぶってくる。
さて、旅人アンデルセンは旅に何を求めたのか。機内で知り合ったサユリさんという裁判所事務官は、コペンハーゲンに到着すると、そのままストックホルム行きに乗り換えた。
<…たぶん旅では何も見つからないと思います>
なぜあんな余計なことを言ってしまったのか。しかしあれは彼女に対してではなく、自分自身への強烈な否定だったことに気付いている。
「――このまんまじゃ卒業式に一緒に出られんよ。どうするね?」
春から4年生になるというのに、俺の取得単位を聞いた藤木は真顔で心配した。
その日はクラスメートの藤木の誕生日会を兼ねた飲み会で、彼が所属するワンゲル部の後輩を含めて10人ほどが集まった。
「ま、焦ってもしょうがねぇよ」
俺は藤木のラッキーストライクを一本抜き出すと、勝手に火をつけて黙った。
中国語を専攻しているくせにいまだにあいさつもおぼつかないクラスメートたちを見下していたが、いま最も卒業に遠いのは他ならぬ俺だ。
旅のためのアルバイト三昧が卒業を脅かしはじめている。確かに俺は彼らより中国語も英語も達者かもしれない。しかし大学生活のクリア条件はそこではない。
藤木がひつこく今日の飲み会に誘ってきた目的はそれだけではないことも分かっている。アウトドア部の後輩と俺をくっつけたいらしい。社会学部の2年生で、目のパッチリとした可愛らしい子だ。
「――アイツ、アンタのことが好きだって」
藤木から何度も聞かされており、その上その子自身からも積極的なアプローチを受けている。
<わたし、先輩みたいにバックパッカーやってみたいんです。今度お話し聞かせてください!>
それを「今度ね、今度」と引き伸ばし続けている。だがこれも藤木に何度も伝えていることだが、こちらに全くその気がないのだ。
サキと別れた後、自分の中で何かがごっそり削ぎ落された。特に恋愛については障害物とすら思うようになった。
「とにかく俺はしばらく一人でいい。悪いが彼女にそう伝えてくれ」
「そういうのは自分の口からちゃんと伝えんといかんね」
今から思えば、藤木としては大学で新しい彼女を作れば少しでも大学に通う気になるだろうという想いもあったのだろう。二次会をカラオケに移り、その子が歌う宇多田ヒカルをぼんやり聞いていた。
「とにかく気持ち入れ替えんと卒業できんけん!旅なんしよる場合じゃなか!」
藤木は俺の肩をつかむとふたたび説教を始めた。言われなくても分かりきっていることを蒸し返されるのはたまらない。一瞬ひるんだが、次第にうるさくて堪らなくなった。
「うっせぇなぁ!俺には俺の考えがあんだよ!」
先日親にも同じセリフをぶつけたばかりだった。ガラステーブルに思いっきり叩いた俺に藤木は目を丸くし、その子もマイクを持ったまま立ち尽くしていた。
悪いのは俺だ。藤木が指摘するようにアルバイトに精を出している場合ではない。
しかし今この山から降りるわけにはいかないのだ。何かと理由をつけて逃げ出す人生など価値がない。今の自分に輪郭を与えているのは旅を続けることだけなのだ。
目をつぶり全てを追い出すと、ひとりヨーロッパ行きの飛行機に乗り込んだ――。
サキは、アムステルダムで出会う直前までコペンハーゲンにいた。
「――たしかにあれは『世界三大ガッカリ』だったね」
サキがそう吐き捨てた人魚姫像の前にきた。シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧と並び、旅行者はこのコペンハーゲン郊外にあるうつむいたブロンズ像を笑う。
夜間はホームレスと不良ぐらいしかいない街外れで、そのために過去何度も腕をへし折られたり、頭からペンキをぶっかけられたりしている。対岸には工場の煙突が排煙をなびかせており、画角から邪魔な2本の煙突を除こうと、像の前では人が立ったり座ったりしている。
サキは今もシドニーのホテルを走り回っているのだろうか――。彼女の甘い香りが脳裏をよぎった。
ダメだ。前に進むのだ。サキも藤木たちもすべて過去だ。過去は振り返るな。首を振ってサキの影を無理やり追い出すと、うつむいた人魚姫の前に座ってカメラを構えた。
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