2001年1月27日
ノーベル賞記念パーティーの舞踏会が行われる<黄金の間>は、ストックホルム市庁舎の2階にある。1800万枚の金箔モザイクに覆われたホールは、目が眩むまばゆさというよりはむしろほの暗い。正面に鎮座した〈メーラレン湖の女王〉が微笑みとも恐れともいえない表情で観光客たちを見下ろしていた。
その大きく見開かれた女王の目を静かに見返している女性がいた。派手なトランプ柄のリュックをこちらに向け、ストレートの黒髪に金色の輪が浮かばせていた。躊躇したが、思い切って声をかけた。
「…何かお困りですか?」
サユリさんは驚いて振り返ると薄暗い広間声を響かせた。
「――夏だったら市庁舎の展望台からガムラスタンが一望できたんですけどね」
近くの喫茶店に移るとサユリさんはアールグレイを注文した。
ガムラスタンはストックホルム旧市街の観光エリアで、狭い石畳を見下ろす形で中世の建物が並んでいる。市庁舎の展望台は夏の一定期間のみ観光者向けに開放されるらしい。ガムラスタンやメーラレン湖に浮かぶストックホルム市内が一望できる。
「『魔女の宅急便』って見ました?」
わたしは10回以上見てるけど、とサユリさんは付け加えた。このガムラスタンの街並みが風景モデルになってるんです、と彼女は窓の外の石畳に顔を向けた。
「サユリさんがジブリ作品なんてちょっと意外な気がしました」
彼女は持ち上げようとしていたティーカップを止め、目に警戒の色を浮かべた。
「わたしってそんなに堅いイメージ?」
「旅先にポケット六法持ってきた人は初めて見ました」
彼女につられて俺も笑った。父親は小学校の元校長先生で、母親は市役所の会計課に勤めているという。血筋からして隙間もないほど堅すぎる。
「裁判所にはいろんな人が来ます。でもホント人の見かけなんてあてにもならないですよ」
サユリさんは追加で頼んだチョコチップ入りのスコーンを割ると、「そういえば」と言葉を繋いだ。
「ストックホルム・シンドロームって知ってますか?」
1973年8月、ジャンエリック・オルソンは銀行の窓口でサブマシンガンを引き抜いた。4人の行員が人質となった強盗事件の発生である。この事件が精神科医や社会学者の間で注目されたのは、投降したオルソンの裁判が始まってからで、意外なことに事件に巻き込まれた人質たちはその後オルソンをかばう供述をし、捜査に非協力的な態度を取ったという。
「…つまり人質という極限状態の中で、あらゆる行動許可や命を握っている犯人に対し、いつの間にか命を守ってくれる保護者のような感情を抱いたのではないかと心理学者たちは唱えました」
その後この奇妙な事件が起きた街の名前から「ストックホルム症候群」という言葉が生まれ、”犯人への許されぬ恋”をテーマにしたその後の映画や小説がこの言葉を有名にした。
人生初の一人旅でサユリさんが最初に向かったのは、この事件が起きた旧銀行跡地だったらしい。遠く北欧の街まで来て、最初に見るべきものは他にいくらでもあったはずである。しかしこの黒髪美人は、旅先にわざわざポケット六法まで持ってくるような人である。いくら裁判所で見てきた犯罪者の例を出し、”人は見かけによらぬ”と力説されても、やはりサユリさんはカチコチの変わり者で間違いない。「――それにしても」と静かな反撃に出る。
「社会学者や心理学者が生み出したラベルってどれだけ正確なんですかね?」
どうも心理学を前にすると攻撃的になってしまう。個性的であることを売りにしているつもりはないが、タネをすべて見透かされているようで、どうも防衛本能が先に働いてしまう。
「分類されるのがイヤ?」
サユリさんはテーブルの上で指を組むと、じっとこちらを見つめた。この頭でっかちで血統までお堅い黒髪美人は、紙に書かれていないことなど信用しないのかもしれない。裁判所はそれでいい。判例集でもめくっていればよい。しかし旅にはガイドブックに書かれていないことなど山ほどある。旅に限らず、面白さとは物事の中心から外れた場所にこそあるものだ。
近くのリッダーホルム教会の鐘が日暮れを知らせている。冬のヨーロッパは早い。3時半を過ぎると辺りは闇の中に吸い込まれはじめる。
「――さて、そろそろよい子はおうちに帰らなきゃ。ところでどこに泊っているの?」
サユリさんはいつの間にか馴れ馴れしい口調になっていた。午前中に到着したばかりでまだ宿は決めてないんですと伝えると、「そういえばわたしの宿にあなたによく似た人がいたよ」と彼女は俺の顔を指さした。
「あなたみたいに世界を放浪しているんだって。きっと話が合うと思うから一緒に来てみる?」
なんとも返事をしないうちに、サユリさんは毛皮の帽子を手に取ると「行きましょ」と微笑んだ。
そもそも一人になりたくて旅に出たのだ。それに旅マニアたちと話していると、その偏った価値感にうんざりさせられることが多く、返って自分自身の欠点を見せつけられているような気分になる。それよりも、もう少しこの頭でっかちな裁判所事務官殿とおしゃべりしてみたいという気持ちが芽生えていた。
「オフシーズンだから部屋もあると思うのでそこに泊ることにします」
派手なトランプ柄のリュックを追って店の外に出た。ストックホルムの石畳は長い闇に包み込まれようとしていた。
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