第30話 八幡太郎(三)
手早く着替えを済ませた義家は、足早に廊下を進む。
小さな灰や煤で汚れたまま、客人に対するわけにはいかない。
自分はこの屋敷の主ではないが、陸奥に下向中である父の留守を預かる身だ。その名に瑕を付けるような真似は出来ない。
とはいえ、招いておきながら待たせるという今の状況も、無礼の度合いは大差ない。
(急がないと――)
そんな意識に押されるように、彼は歩く速度を一層速めた。
もっとも、小走りに近い早足の理由はそれだけではない。
その手に愛用の弓を携え、目を輝かせながら進む義家の様子は、仲の良い友達との集合場所に走る悪童と大差ないものだった。
「すまない! 待たせてしまったな」
言いながら部屋に入ると、少女と目が合った。
名前は、確か
こちらの接近を察していたらしく、飛び込むように部屋に入ってきた彼に対し、特に驚いた様子は見られなかった。
当たり前の話だが、彼女の素性を義家は知らない。
ただ、尋常の存在ではないのだろう、ということくらいは察せられる。
どこか浮世離れした美貌と、ほのかに漂う化生の気配。
傍らにいるセツが、それに気がついていないとは思えない。ならば、彼は分かっていて彼女と行動を共にしているということになるが――
(どういう事情なのか、いつか聞いてみたいな)
朝家の守護とうたわれた
義家も彼らの伝説に胸躍らせて育った
しかし、「今はそんなことより」と義家は視線を
代わりに捉えたのは、その傍らに座す少年だ。
歳の頃は、自分と同じくらい。
剣の腕は、自分の指南役である景季と並び立つほど。
――ならば、弓の方はどうだろうか。
考えて、義家は胸の高鳴りに任せて笑みを浮かべた。
先ほどから少年――セツの視線が、自分の持っている弓に注がれている。
そのことに、彼は内心で胸を張る。
(ふふふ。どうだ)
自慢の三人張りの大弓。
この強弓を引くことが出来る者は、義家と同世代の者はもちろん、この屋敷の――つまり父である頼義の家人たちを見回してもそうはいない。
(セツは、どうだろう)
この弓を扱えるだろうか。
彼は、渡辺の一党――水軍に属する
ならば、弓が不得手ということはないはずだ。移動が大きく制限される水上の戦いにあって、弓矢の重要性は地上よりもずっと大きい。
船から船に飛び移って戦うような酔狂者など、早々いるものではない。
だから。
「よし、競べ弓をしよう!! じゃない、そうじゃない、待った」
「…………」
思わず口をついて出た一声を慌てて否定する。
困惑した表情を見せる客人に、義家は何でもないと手を振った。
コホンと咳払いを一つ。
「いや、気にしないでくれ。……その、屋敷に来てもらった理由はソレなんだが、いきなり言うようなことではないな。すまない、つい気が逸ってしまった」
今さら取り繕っても意味がないと、彼は正直に意図を口にする。
そんな義家に、セツが苦笑してうなずきを返した。
「まあ、弓を持って来られた時点で、そうなんだろうなとは思っていましたが」
「同じ年頃で武芸を競えるような相手が、あまりいなくてな。セツの剣腕を見た時から、一度手合わせをと考えていたんだ。それはそうと」
そこで言葉を切って、義家は口を尖らせた。
上役に対するような言葉遣いを崩さないセツに、拗ねたような目を向ける。
「歳は同じくらいだろう? そんな風にかしこまった物言いはしないで欲しいんだが」
「そういうわけには参りません」
「……むぅ。ならば、勝負をして俺が勝ったら、口調を改めてくれ」
「承知しました。ですが、こちらが勝った場合は?」
不敵な笑みを浮かべて見返すセツに、義家は口の端を吊り上げた。
一切の躊躇なく勝負に応じ、己が勝った場合のことを聞いてくる彼の返しに、否応なく心が躍る。
やはり、
「言葉遣いをそのままで良い、というのではセツが勝負に応じる利がないな。何か、望みがあるか? 俺に出来ることはあまり多くないが……そうだ、この弓を渡すというのはどうだろう?」
「畏れながら、ご遠慮申し上げます」
「む」
ひと言で断られ、義家は小さく唸った。
良い弓なのだが、と自慢の強弓に目をやる彼に、セツが笑って首を横に振った。
「何かの催しの時に扱うのならばともかく、三人張りの強弓を普段使いにするのは身に余ります。頂戴しても死蔵することになりますから、ご遠慮させてください。……代わりに、僭越ながら一つお願いを申し上げても?」
「もちろんだ。俺に出来ることなら、何でも言ってくれ」
大きくうなずくと、セツは「恐縮です」と頭を垂れた。
その畏まった態度を改めさせてやろうと、必勝の決意を固める義家だが、次いで彼が続けた“お願い”に目を丸くした。
「
「はい。それに心当たりがあれば、教えて頂きたいのです」
「ふぅん? 何かワケありか……」
セツが口にした願いを聞いて、傍らの
――上役である徹を頼らないのは、事情の説明を嫌がってのことだろうか。
数秒考えて、彼は「よし!」と手を打ち鳴らす。
「では、それでいこう。俺を含め、家中の者にも問うて心当たりを全て伝えるということで良いか? もちろん、理由は聞かない」
「は。ありがとうございます」
改めてセツが頭を下げる。
彼と同時に
――絶対に、友だちになってもらう。
友人なれば事情も話してくれるだろう。
二人への興味を一層強めながら、彼は弓を手に立ち上がったのだった。
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