第28話 八幡太郎(一)
「さて――」
あたりを漂う蒸気が薄れつつある中、徹がパンっと拳と掌を打ち合わせた。
セツと
「あまり邪魔をすると怖いからな。そろそろオレも行くわ。セツ、たまにはこちらにも顔を出せよ?」
「はい」
「そちらのお姫さんも、良ければ――」
「ええ。機会があれば」
たおやかに笑みを返す少女にうなずいて、彼は踵を返し――
「あれ? そちらに
「ん? ……あ」
――遠間からの呼び声に、機嫌良く立ち去ろうとしていた足を止めた。
「やはり!
「? お知り合いですか?」
よく通る少年の声だ。それが、ぱっと喜色を帯びたのにセツは気がついた。
名を呼ばれた先達の視線を追えば、こちらに駆けてくる少年と追従する青年の姿が目に入る。
少年の方は、自分と同じくらいだろうか。
「あ~。知り合い、というかだな」
「?」
徹の声を聞いて、セツは目を瞬かせた。
表情こそ平静を保っているが、彼の声には明らかに苦手意識が滲んでいたからだ。
怪訝そうなセツを置いて、徹は駆け寄ってくる少年に向かって歩き始めた。
その足取りが妙に重そうなのが気になって、セツも後を追おうと足を踏み出し――ふと背後を振り返った。
「あ、ええと」
「立ち話の間くらい待つわよ。けれど――」
肩を竦めてセツの隣に並んだ彼女は、駆け寄ってくる少年を見てその目を細める。
「気を付けなさい。彼、普通の人間ではないわよ」
「それは、どういう――」
言葉の意味を問う前に、徹と少年たちが接触する。
邪魔をしないようにその様子を後ろから見守って、セツは首を傾げた。
(別に仲が悪いというわけではないんだよな……)
物凄く慕われているように見える。
嬉しそうに笑う少年の顔には、徹に対する確かな敬意が見て取れた。
「奇遇ですね。徹さま」
「ええ、確かに。それと、何度も申しますが、徹さまはお止め下さい」
対する徹の声は、穏やかだがどこか困ったような調子だ。
ただし。
(困っているだけで、こちらも嫌っているとか、そういうわけではないのか)
では、どういう事か。そんなセツの疑問は。
「いずれ
「
そのやり取りで、氷解することになった。
公卿の名前に首を傾げるセツでも、源氏の棟梁と目される人物のことは知っている。
明らかになった少年の素性を鑑みて、彼は二人の邪魔をしないようそっと後退することにした。
その動きが注意を引いてしまったのか。
こちらを見た少年と目が合った。
「そちらは……あ!」
ぱっと少年の顔が輝く。
それを見て、何事か思いついたのか。徹がササッと脇にズレた。
結果、セツは真正面から彼と相対することになる。
(押しつけられた!?)
ぎょっと目を向けるが、知らぬ素振りで徹は口を開いた。
「こちらは――」
「ああ、大丈夫です。それと、どうか平伏などは止してくれ」
「……は」
紹介しようとした徹に首を振った少年は、慌てて膝をつこうとしたセツを笑って制する。姿勢を正したセツに、真っ直ぐな視線が突き刺さった。
「
「
「義家と呼び捨てにしてくれ。その方が呼びやすいだろう? 俺も、セツと呼ばせてもらう」
「は、いえ。セツとお呼びいただくのは光栄ですが、御身を呼び捨てには」
「歳も同じくらいだし、別にいいじゃないか」
「いえ、そういうわけにも――」
快活に笑う八幡太郎――源義家に、徹が苦手にしていた理由を察しながら、セツは恐縮して頭を下げた。
――目上の人に気楽に接してくれとか言われても、困るのだ。
「それで――」
セツの苦慮を感じ取ったのか、
彼女にとってみれば、源氏の御曹司も道行く
緊張も遠慮もなく、いつもどおりの調子で口を開く。
「何か、御用が?」
「――――」
わずかに空気が揺らいだ。
口を挟んだ彼女を見て、義家に随伴していた青年がピクリと片眉を上げる。
義家の左――セツたちから見ると右側――に立つ彼が、さりげなく左足を半歩動かしたのに、セツは気がついた。
その左足を軸に右半身を前に送れば、抜き打ちで
「…………」
立ち振る舞いこそ気品を窺わせるが、
青年は、彼女を主の会話に割り込んだ不埒者としか見ていまい。
ならば、無礼を働いた報いを受けさせるのに躊躇などあるはずもなく――
「
傍らの少女に声を掛けながら、セツは重心を変えた。これで青年が動いても、割って入るくらいは出来る。
そんな動きに気がついているのかいないのか、掛けられた声に
「――確かに、少し不躾に過ぎたわね。失礼しました」
「いや。こちらこそ、初対面の相手に配慮が足りなかった。是非、一度話がしたかったので、つい逸ってしまった」
小さく頭を下げた少女に、笑みを返しながら義家が一歩前に出る。
その動きで己の動線を塞がれた青年が、小さく息をついた。
その彼と一瞬だけ視線を交錯させた後、セツは義家に意識を戻す。
「……一度、お話を?」
「ああ。こうして顔を合わせるのは初めてだが、以前、セツの姿を見ている。……大市廊で」
そう言って、義家が小さく笑い――直後、その気配が一変した。
後ろに飛び退かなかったのは、快挙と言えるだろう。
「――――っ」
覚えのある気配。忘れるはずもない。
それは、見上げる者に畏れを抱かせ、同時に心を沸き立たせる――嵐を前にした空のようだった。
万人をひれ伏させる威と、万人を惹き付ける光を同時に併せ持つ巨大な気配。
それを前にして、セツは全身を総毛立たせて息を飲む。
たった今、ようやく理解した。
己の眼前にいる者が、いずれ源氏――いや、
「……あの時は、ご助力を賜り」
「はは。俺は大したことはしてないよ。こちらこそ、良い
「…………」
隣で
微かに震えるその手にそっと触れて、セツはうなずいた。
「はい。お招き感謝いたします。ただ、こちらの娘……
「うん? ああ、もちろん構わないとも」
義家は、にっこりと笑ってうなずいた。
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