第一章 とどかぬもの
第6話 雲の上
その山の周辺部は、古くから良質の鉄が採れることで知られ、また、星見の郷としても名高い地域だ。
その日も、満天の星を眺めることが出来る佳き夜であった。
天を埋め尽くす星々の輝きが、色とりどりに瞬いて夜の帳を飾っている。
そこに陰りが生じたのは、夜半も過ぎた――
ガタガタと、にわかに強まった風を受けて、小屋の壁が音を立てる。
その音に、男は目を覚ました。
「うん? 何だ一体――」
耳をつんざくような轟音が、己の呟きを掻き消す。
「ひゃあッ!?」
男は、悲鳴を上げて床に伏した。
追い打つように、叩き付けるような雨音と暴風が、男の小屋を揺さぶる。
その勢いに、家ごと飛ばされるのではと恐怖して、彼は頭を抱えた。
「あわわわわ―――」
この地を流れる川には、古くから龍神が棲んでいる。
この唐突な嵐は、龍神さまのお怒りに違いあるまい。
そう考えて、男は必死に祈りを捧げる。
(……何だって急に!?)
どこかの馬鹿が、何かやらかしたのか。
だとしても、なぜ自分たちが巻き込まれないといけないのか。
雨音はすでに滝音のソレに近い。轟々と響き渡るその音に、収穫間近の畑を思って、男は暗澹たる面持ちとなった。
きっと、朝には壊滅しているだろう。
(どうせなら、もう少し後にお怒りになれば良いのに……)
せめて収穫の後とか。
そんな不埒な考えを見抜いたのか、雷鳴が轟いた。
続くこと、十数回。爆音が小屋を揺らす。
「ひぁああああ!? お、お助け――……」
男は、必死な形相で龍神に慈悲を請う。そして――
「――――っ!? 朝!?」
いつしか眠りに落ちていたのか、それとも気を失ったのか。
彼は、ふと目を覚まして跳ね起きる。
風雨の音がしないことに胸をなで下ろし、次いで慌てて外へと飛び出した。
「夢じゃなかったか……」
戸外の光景を見て、彼は低く呻いた。
暴風に煽られた草木が、蹴散らされたように盛大に倒れている。
どうやら、昨夜の嵐は夢幻の類ではなかったらしい。男は、ため息をついた。
やれやれと、片付けに向かおうと歩き出し、ふと気がつく。
「龍神さまのお怒りにしては――」
思ったよりも被害が小さい。
昨夜の荒れようからは考えられないほど、畑の姿が変わっていない。
これならば、収穫にも大した影響はないはずだ。
――龍神さまのお怒りが、よほどすぐに収まったのか。
とても良いことだが、不可解だ。
雲一つない青空の下、男は首を傾げた。
◆
水量豊かな宇治川と、それを囲む山々が織りなす風光明媚な
北と南、そして東を山に、西を
同時に、古くから畿内と東国を結ぶ要衝として整備されたこともあり、
そんな絶妙な立地もあってか、この地には
「かの“源氏の物語”……特に宇治を舞台とする十帖の愛好者が、物語の舞台を巡るため、この地を訪れることも多いらしいですよ」
「源氏の物語?」
「もしや、ご存じない?」
「……はい。その、あまり学がなくて」
賀茂道世が目を丸くするのに、セツは気まずげに頬を掻いた。
源氏の物語って何だろう。
源頼光様の武勇伝とか、そういう感じだろうか。
(宇治で何か、武勇伝ってあったか?)
セツは内心で首を捻りながら、左手に臨む宇治川に目を向ける。
その流れを追って背後へと視線を動かせば、そこには立派な橋がひとつ。
宇治橋である。
(……重要な土地、のはず)
宇治川は、水量が多い。しかも、流れが速い。
このため、渡河地点は限られている。あのように立派な橋が架けられている土地が、幾つもあるとは考え難い。
となれば、この地を巡る争いもあったはず。
そこで源氏の
(……全く思いつかない)
そんな少年の内心を知ってか知らずか、道世が苦笑混じりに指を一本立てた。
彼は、滑るような足運びで歩みつつ、口を開く。
「“源氏の物語”というのは、帝の御曹司である“
何か思っていたのと違った。
「宇治の十帖というのは、その光源氏の子供を主人公に、この宇治を主な舞台として繰り広げた恋のお話、といったところでしょうか」
「ははぁ……」
道世の解説を聞いて、セツは「なるほど」とうなずいた。
どうやら戦働きとか、鬼退治とか、そういうのは無さそうだ。
少年の反応に、道世が苦笑を深めた。
「まあ、セツ殿が好む類の話ではないでしょうね」
「あ、いえ。そんなことは……」
慌てて取り繕おうとするが、さすがに無理がある。
尻すぼみになっていくセツの言葉に、道世が笑う。
「まあ、機会があれば読んでみると良いですよ。何しろ」
そこで言葉を切って、道世が歩みを止める。
道が二手に分かれていた。一方には、色鮮やかな朱の大鳥居。
陰陽師は、その大鳥居に会釈をした後、もう一方の道に進む。
「何しろ、“源氏の物語”を記した藤式部殿は、上東門院様……宇治殿の姉君に仕えられた方です」
その作品を知っていれば、何かに役立つこともあるでしょう。
そんな風に、彼は話を締めくくった。
◆
平等院。
元は、嵯峨天皇の皇子――
それが、幾人かの手を経て藤原道長公の別業となり、それを譲り受けた藤原頼通公が寺院に改めたものとなる。
「ちなみに、最初の持ち主である
「ははぁ……」
「さらに言うと、
「え!?」
瞬時に食いついた少年の反応に、道世はクツクツと喉奥で笑った。
さすがにバツが悪くて、セツは頬を掻く。我ながら、現金なことだ。
「ふふ。世の中、色々とつながっているものですね?」
「そ、そうですね……それにしても」
ニヤニヤと面白がっている陰陽師から目を逸らし、セツは話題を変えた。
「それにしても、凄いですね」
「ええ」
セツは、そっとため息をついた。
それは、話題を逸らせた安堵によるものだけではない。
いま目にしているものへの感嘆が、多分に含まれていた。
落ち着いた暗めの赤を基調とする阿弥陀堂。
暗めの赤といっても、地味な印象は微塵もない。屋根の黒と壁の白、そして随所に施された装飾の金と合わさり、上品ながらも鮮やかな印象の建物だ。
中堂の左右に翼廊が伸び、その姿にセツは大きく翼を広げた鳥を連想する。
(屋根の上にも鳥が乗ってるし、多分、狙ったものなんだろうな)
陽光を受け、金の輝きを放つ中堂の棟飾り。
そこから視線を下ろし、正面へと戻せば、目に入るのは開け放たれた大扉の向こうに座する阿弥陀如来像。
建物を朱ではなく暗めの赤としているのは、彼の如来像がまとう黄金を引き立てるためだろうか。
「何というか」
鮮やかな彩りを纏う阿弥陀堂。
そして、その姿を映し出す池の水面を見て、セツはポツリと呟いた。
「
「……うん。まあ、言わんとすることは解ります」
セツの喩えに、道世は何とも言い難い表情を浮かべた。
何か変なことを言っただろうかとセツが首を傾げると、彼は困ったような顔で口を開く。
「うん。とりあえず、関白様に感想を伝える時は、別の表現にした方が良いでしょう」
「――ははは。構わんよ」
唐突に。
二人の会話に割り込んできた声に、セツは愕然と振り向いた。
そこに立つのは、
(接近に気付けなかった!?)
手が届くほどの距離である。相手に害意があれば、今ごろ自分は死んでいる。
戦慄するセツの視線の先で、貴人は鷹揚に笑って見せた。
「言の葉を矢とする宮中ならばともかく、ここは仏の慈悲にすがるための場所。真心からの賛辞に、言葉尻をあげつらうような無粋はせぬよ」
「関白さま」
道世の声が耳に入った瞬間、セツはその場に膝をついた。
「ああ。伏せずとも良い。立ちなさい」
慌てて平伏しようとするセツを、関白――藤原頼通が手を振って制する。
彼は、柔らかな口調で続けた。
「この平等院で。阿弥陀如来の御前で。どうか私に、人を平伏させるような悪しき徳を積まさせてくれるな」
「……は。申し訳ございません」
言われて、セツは仕方なく立ち上がる。
顔を上げれば、すぐ目の前に最高権力者の笑顔。
ちなみに目が笑ってない。
――勘弁して欲しい。
「……あまり、若者をいじめないでください。お人の悪い」
「ははは。
見かねた道世が助け船を出すと、頼通は呵々と笑い声を上げた。
視線を外され、セツは内心で大きなため息をつく。
(鵺よりも、よほど怖い)
気取られぬよう呼吸を整える少年に、関白は笑いかける。
「
「…………は」
――本当に勘弁してください。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます