第7話 天上の煌めき
従一位。左大臣にして関白。
朝廷の実質的な最高権力者である。
つい最近、
その軽やかな足取りを思い返し、道世は内心で頭を振った。
(……床板はともかく、細石の上を無音で歩かないで欲しいですね)
実は浮遊しているのではと思えるほどに、全く重さを感じさせない歩み。
それは、何も知らないままに見れば、彼を仙道の類ではと疑うほどの見事さだった。
セツが、接近に気付けなかったのも無理はない。
(あそこまでいくと、もはや方術の一種ですね)
呪的な罠などは、意識すらせずにすり抜けるだろう。
そんなことを考えて、道世は首を振った。
(いえ。宇治殿がおかしいだけでしょう)
今も床板を踏む音はもちろん、衣擦れの音さえ立てずに歩む貴人を見て、道世は改めて結論付けた。
そんな、陰陽師をして非常識と言わしめる身の軽さの頼通だが、その言動が持つ重みは比類なきものだ。
少なくとも“誰とどこで会ったか”が、政争の材料となるくらいには重い。
ゆえに、彼の本邸はもちろん、洛中に設けられた別邸であっても、道世達の訪問を認めるのは難しい。
その結果、この平等院が面会場所に選ばれたのだが――
(単に自慢したかっただけですね、これ)
貴人がセツに向ける得意満面の笑みを、道世は半眼でみやる
「ふふ。どうかな?」
「…………」
反応がない。
少年の耳に、関白の言葉は届いていないようだった。通常でなくとも、不敬の誹りは免れないが、頼通に気分を害した様子はない。
むしろ、一層笑みを深めたあたり、期待どおりの反応なのだろう。
「無理もないですが」
小さく独りごちる。
セツが見回している――つまり自分たちがいる場所のことを考えれば、人の声が耳に入らなくとも仕方あるまい。
自分だって、別のことを考えていないと魂をもっていかれそうなのだ。
二人から視線を逸らせば、途端に周囲の光景が意識を鷲掴みにする。
――そこは、先ほどまで眺めていた阿弥陀堂の中だった。
堂内の中央。
精緻な
「……ああ」
知らず、道世の唇からため息がこぼれた。
その頭上に設けられた天蓋は、方形の中に円形の花形天蓋が吊されるという、他に例を見ない二重構造の豪華さだ。
そこには、蝶や華の形に刻まれた螺鈿がはめ込まれ、それ以外の場所も金箔がふんだんに押されて金色に輝いてる。
天蓋中央では、大きな八花鏡が、堂内の明かりを受けて煌めきを放ち――
その様は、見上げる者に天から降り注ぐ光を想起させた。
(いやはや、これは――)
壁に目を向ければ、飛び込んでくるのは極彩色の
臨終を迎える男の屋敷へと、海を越え、山を越え、阿弥陀三尊と菩薩たちが雲に乗って訪れる。
そんな光景が、色鮮やかに描かれている。
それら来迎図の上の壁は、空を思わせる群青に塗られ、雲に乗った姿の菩薩像が数十体、堂内を取り巻くように備え付けられていた。
柱を見れば、その一本一本に至るまで、青、赤、緑、紫で描かれた花模様や菩薩の舞姿で飾られている。
それらが支える
そして、その天井の中央には、金色の天蓋。
その輝きに目を細めながら視線を下ろせば――
いつの間にか、中央の阿弥陀如来像に視線が戻っている。
大きな光背とともに、黄金の輝きを纏う阿弥陀如来。
その表情は、どこまでも優しげだ。伏し目がちに、静かにこちらを見つめる大きな
――これこそは、地上に顕れし極楽浄土。
そんな言葉が脳裏を過る。
何を大げさな、と笑おうとして道世はため息をついた。
否定出来なかったのだ。
「…………」
道世は軽く頭を振って視線を剥がし、セツの方へと意識を戻す。
どうやら彼も、ようやく意識が戻って来たらしい。
ハッと我に返った様子で、セツが関白へと顔を向けた。
「あ、あの……」
「うむ」
うなずく関白に対して、少年は何事か口にしようとして、しかし閉ざす。
それを数度繰り返した後、彼は諦めたように吐息をこぼした。
「その…………すごいです」
何か気の利いた表現を考えようとして、上手くいかなかったらしい。
結局、セツが口にした言葉は、あんまりと言えばあんまりな賛辞だった。
恥じ入るように、少年が頭を垂れる。
「申し訳ありません。その……」
「良い良い! 取り繕った澄まし顔の万言よりも、
関白は、ご機嫌な様子で笑い声を上げた。
◆
結論から言えば、蒸気船沈没に関する咎めはなかった。
『我が屋敷から盗まれた呪具によって、我が蒸気船が沈んだのだ。これに文句を言っては恥となろう』
京でも数少ない蒸気船の所有者で
(どうりで関白様への面会を簡単に段取れたわけだ)
呪具の出処――さる貴きお方の屋敷とは、
年明け早々に火難に遭い、その際のどさくさで色々と散逸したのだそうだ。
『化け物の被害を最小限に留めてくれた渡辺の者に、感謝せねばな』
そう言って笑う関白の表情に、全く陰がなかったのを思い出し、セツはため息をついた。
相当な被害のはずだが、それを気にした様子を一切見せなかったのは、さすがは藤原氏を束ねる者といったところか。
彼からすると、本当に大した被害ではないのかも知れないが。
「住む世界が違う」
当然のこととして知っていた事柄を、実感を持って理解した。
殿上人と自分たち地下人の“違い”を思い、セツは空を見上げる。
中天に月が輝き、色とりどりの星々が瞬いていた。
――星が降ってくるようだ。
満天の星々に、セツは吐息をこぼす。
視線を下ろせば、そうした星月の灯が宇治川の水面に映し出されていた。
その煌めきを、橋の上から見下ろして、少年はうなずいた。
「俺は、こちらの方が好きだな」
黄金と極彩色の浄土を思い出し、けれどセツはそう思う。
魂が消えるかのような衝撃だったが、それだけに何度も目にしたいとは思わない。何度も目に出来るとも思えないが。
「うん。浄土とか、死んだ後に目に出来れば十分だよな」
わりと不遜なことを少年は独りごち、水面の星月を眺める。
とどかぬ光は、あれで十分だ。
「ん?」
ふと、セツは目を細めた。
宇治川の中程に何かの影を捉えたのだ。夜の闇の中、白く浮かび上がる影。
「……女?」
それは、真っ白な水干を身にまとった娘に見えた。
その長い髪もまた白い。風を受けて揺れる白が、燐光をまとっているかのように、周囲の闇を圧して浮かび上がる。
娘のいる場所は、浅瀬というわけではない。彼女は、水面の上に立っていた。
(物の怪、いや……?)
すでに鵺という化け物を目にしているせいか、特に動揺もなく
気にするべきは、あれが悪しきものか否か。
この地には、いま関白が逗留している。悪しきものならば、害が及ぶ前に討たねばなるまい。
ただ。
「……悪いものには見えないな」
鬼気――あの不快な感じがしない。
むしろ、涼しげで心地よい風を感じる。
川の流れに身を浸している時のような清々しさに、セツは視線を緩めた。
ふと、気配を感じる。
顔を動かせば、こちらへと歩いてくる賀茂道世の姿。
「ああ。星見の邪魔をしてしまいしたか?」
「いえ」
首を横に振る。
何となく川面に視線を戻せば、そこにあった人影は消えていた。
「明かりもなしに、夜の川沿いを歩くのは危ないですよ?」
「同じように手ぶらで歩いてきた方に言われても……」
セツもそうだが、道世も夜目が利くのだろう。
月と星の明かりがあるとはいえ、真っ暗な橋を進むその足音には、何の迷いも感じられない。
道世は、セツの隣に並んで月を見上げる。
「さすがに中秋ですね。月が美しい」
「はい。本当に」
そろそろ
観月の祭りは終わっているが、だからといって月の美しさに陰りなどない。
「……宇治殿の頼みですが、引き受けて良かったのですか?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、それで
関白の頼みである。どちらにしろ拒否権などない。
そうは言ってもと、こちらを気遣う道世に、セツは頭を垂れた。
「もっとも、荒事はともかく、探索は道世様にお頼りせねばどうにもなりません。何卒よろしくお願いします」
「ええ。それは、もちろん」
道世が“長い付き合いになりそうですね”と、苦笑交じりに呟いた。
セツは、“今後ともよろしくお願いします”とうなずいた。
結論から言えば、蒸気船沈没に関する咎めはなかった。
しかし、その代わりに使命をひとつ与えられた。
鵺との一戦の様子を聞いた関白が、重々しくうなずいて
『
――大丈夫か、
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