第2話 ぬえ(上)

 地面に腕を叩き付けた反動で、化け物――鵺が大きく飛び上がる。

 その高さは、倉の屋根を軽々と超えるほどだ。


(やっぱり、大きいな)


 怪物の上半身は、それだけで六尺2m弱にもなる。

 成人した男の胴よりも太い両腕は、八尺2m半にも届く。その五指には短刀のような鉤爪。


 そんな怪物が飛び掛かってくる様は、見る者の心胆を寒からしめるものだ。

 そして、その恐怖が思考を鈍らせ、体を強ばらせ、反応に致命的な遅れを生む。

 結果、避けることさえ叶わず組み敷かれ、その後は言うまでも無い。


 ――対峙しているのが、武士もののふでなかったならば。


「まあ、大きいだけか」


 空中にあるということは、体の自由を損なっているに等しい。

 軌道は分かりやすく、着地点は変わらない。見えている落下攻撃は、脅威にはならないのだ。

 セツは、鵺の一撃を鼻で笑った。

 落下と同時に叩き付けられた両腕を避け、するりとその側面に回り込み――


「――――ッ!」

「ふっ!」


 悔しげな声を上げた鵺の脇腹に、呼気とともに太刀を叩き込む。

 だが。


(……っ!? 刃が徹らない)


 浅い、どころではない。

 白刃が毛皮の表面を滑る感触に、セツは瞠目する。

 刃筋がズレたとかそういう話ではない。単純に、毛皮の強度に阻まれたのだ。

 太刀は脅威でないと理解した鵺が、その猿面をニタリと歪ませた。


「――ちッ!」


 横薙ぎに振るわれた右の裏拳を、その場にしゃがみ込んでやり過ごす。

 頭上を抜けていく豪風に、セツの背筋が粟立った。

 即座に立ち上がり、その勢いを斬り上げに乗せて放つが、やはり刃が徹らない。


(隙間がない上に、動きの邪魔にならない鎧を着込んでいるようなものか)


 まとっている鬼気が、鋼をも退ける強度を毛皮に与えているのだという知識を、少年は持ち合わせていない。

 だからといって、「なぜ斬れない!?」と恐慌するような無様を、彼は晒さない。ただ在るがままの状況を捉え、思考を回す。


「さて、どうしたものか」


 わずかに後退して、セツは太刀を構え直した。

 怖じたり、怯むつもりはない。だが、化け物退治というのは想像以上に厄介だ。

 勝手に口の端がつり上げるのを感じる。

 今の自分は、どんな顔をしているのだろう。


(みっともなく引き攣ったりしてなければ良いけど)


 鵺が大きく左腕を振り上げた。

 己の絶対的な優位を確信しているのだろう。反撃を全く気にしていない大振りの構えだ。

 対する少年は、意識を研ぎ澄ませる。

 先ほどの一閃で斬れないのならば。


 ――もっと強く、もっと鋭く斬り付ければ良い。


 冴え渡る思考回路。迷う余地のない解決策。

 つまり、もっと超頑張る。

 渡辺切わたなべのせつは、脳筋だった。無論、それだけではないが。


「――ハッ」


 狙うのは交差法。

 叩き付けるように振るわれた巨腕に刃を合わせる。

 より強く。より鋭く。内で燃えさかる炎に押され、裂帛の呼気を放った。


「今、鬼気を祓ってえぇ……!?」


 陰陽師の声が聞こえた気がした。

 迎え討った一刀が、虚空に斬線を引き――


 ――切断された獣腕が、くるくると宙を舞っていた。





 鵺が悲鳴を上げる。


 賀茂道世は、泡を食って跳び退いた化け物ではなく、剣気で鬼気を打ち破った少年に目を奪われていた。

 案内役として付けられた少年は、己が技を誇ることもなく、静かに調息を行って次に備えている。

 追撃に動く様子がないのは、逃げに徹されると追い切れないことを理解しているからだろう。とはいえ、易々と逃がすつもりはないと、剣呑な光を宿したその瞳が物語っていた。


「…………」


 言葉もない。


 道世は、武の力を侮らない。

 生霊や死霊の類であればともかく、鬼などのような実体を持つ強大な怪物は、いつだって武士の扱う直接的な力で平定されてきたのだ。

 もちろん、それらは陰陽師を始めとする術士の助けや、神仏の加護があっての功績だが、だからといって彼らの武威が損なわれるワケではない。


 だが。だからといって――


「武芸ひとつで妖を斬ってみせるとは……」


 これだから武士は、とは思わない。

 そんなことが出来る者が、どれほどいるか。まして、未だ年若き身である。

 どこか薄ら寒いものを感じ、道世は頭を振った。


(いやはや、末恐ろしい)


 そんなことを考えていたせいだろう。

 不利を悟った鵺の動きに対し、彼の反応は致命的に遅れることとなった。

 鵺が、猿の上半身を黒煙に変える。


「――しまっ!?」


 慌てて符を投じるが、距離がある。

 術が届くよりも早く、鵺が化けた黒煙は北の空へと流れていった。

 ドサリと音を立てて、取り残された賊が地面に倒れ伏す。


「……逃げられた」


 賊には目もくれず、セツが黒煙の消えた空を睨んでいる。

 当然の話だが、賊はとうに事切れていた。


(ずいぶんと高くつきましたね)


 うつ伏せとなっている賊の死体。

 その大きく割り開かれた背中が目に入り、道世は小さく息をついた。

 同情する気は微塵もないが、単純に思う。盗みの代償としては、ずいぶん高くついたものだと。


「さて――」


 視線を戻す。

 空を見上げていた少年は、いつの間にかその背後に向き直っていた。

 その瞳に映っているのは、地面にぶちまけられた赤い血溜まりだ。

 かつて人であったもの。


「…………」


 セツが、静かに一礼する。

 その顔が上がるのを待って、道世は口を開いた。


「さて、それでは追いましょうか」

「追いつけるでしょうか?」


 すでに黒煙は見えなくなっている。

 セツの不安そうな表情に対し、道世は左眼を閉じて笑った。


「大丈夫。見失ってはいませんから」

「見失ってない……?」


 セツが怪訝そうな表情を浮かべた直後。

 カァ――、と北の空からからすの鳴き声が聞こえた。

 少年が、あっと小さく声を漏らす。


「さっき飛ばしていた式神!」

「察しが良いですね。そういうことです」


 閉じた眼に逃走中の黒煙を映し、道世はすました顔でうなずいた。

 こっそりと、はかまの尻で手汗を拭っているのは、彼だけの秘密だ。


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