第25話 霧中の先行き(上)
セツは、迫り来る川面を睨んだ。
(駄目か)
“太郎坊”は、左右一対の羽で必死に空を叩いている。
しかし、落下が止まらない。速度は若干減じたものの、この様子だと再び機体が上昇するより川に落ちる方が早い。
ならば、と彼は“太郎坊”を繰って、着水を前提に態勢を整える。
そして。
「――――!!」
巨大な水しぶきが、壁となって機体を取り囲んだ。
水面を押し潰すように、機体が沈む。
舟縁すれすれまで水面がせり上がってくるのを、セツは冷や汗を垂らしながら横目で睨んだ。
水が流入したら終わりだ。
一気に浮力を失い、“太郎坊”は為す術無く川底に沈むだろう
「あっがれええええ――――!!」
セツの檄に応え、羽が風を掴む。
機体が下降から上昇に転ずる――正面の水壁に突っ込んだ。突き破る。
「よし!!」
一気に開けた視界に、セツは小さく歓声を上げた。
しかし。
(羽が水を吸って重い)
川面を水切り石のように跳ね飛びながら、“太郎坊”が桂川をすっ飛ぶ。
羽ばたきはするが、機体が持ち上がらない。
このまま飛行に移るのは不可能と判断し、セツは機体の減速を図ることにした。
(とにかく、転覆だけは避けないと)
風を読み、川の流れに舟を乗せる。
変に風に煽られて、あるいは流れを読み損なって、着水をしくじれば横転しかねない。
川面を跳ねる度に聞こえる“太郎坊”の悲鳴を聞きながら、セツは必死に機体を制御する。
「この程度――」
暴風と大波がうねる嵐海で舟を走らせるよりは、ずっと簡単なはずだ。
そう己に言い聞かせ、さらに川面を跳ねること八回。
「…………は」
半死半生の機体を何とか川岸に停泊させて、セツは大きくため息をついた。
挺から降りると、こちらに駆け寄ってくる道世と
自分は大丈夫だと軽く手を振ると、安心したのか、二人の速度が緩んだ。
「怪我はありませんか?」
「はい。ですが、“太郎坊”が」
「あれは仕方がありません。むしろ、良く無事に着水できたものです」
道世に頭を下げると、彼は安堵したように笑って手を振った。
そして、その視線が“太郎坊”に向けられる。
倣うように、セツも機体へと目を向けた。
「……羽が折れてるだけじゃなくて、舟体も歪んでいるわね」
「うん」
彼女が言うとおり、“太郎坊”は満身創痍といった有様だった。
一番分かりやすい損傷は、折れて千切れ飛んだ左前羽だ。
次いで目に付くのは、ずぶ濡れになった上に微妙に歪んだ三枚の羽。
そして。
(これは、下手をしなくても沈む)
何度も川面を跳ねたせいだろう。
衝撃で舟自体が歪んでいる。嵐の海を無理矢理越えた後の小船を思い出し、セツはため息をついた。
「……すみません」
「幸い蒸気機関は無傷なので、修理はそれほど手間ではありませんよ。ふふ、今度は嵐の中でも平気なように改良しましょう」
肩を落とすセツに、道世が笑って応じる。
その目が輝いていた。どうやら、本当に気にしていないらしい。
顎に手を当てて「羽に撥水処理を…」とか「強度と重さを考えるとやはり竹…」など、思考が呟きとなって漏れ聞こえる。
本格的に長考の気配を漂わせ始めた道世に、
「それで、これからどうするのかしら?」
「……ああ、そうですね。とりあえず、ここで解散としましょうか。私は、“太郎坊”を屋敷に運んで修理と改造をしようと思います」
「それでは――」
「いえ。こちらは、私一人で大丈夫です」
手伝う、と手を挙げようとしたセツを道世が制する。
彼は、ぴっと指を立てて言葉を続けた。
「お二人は、このまま洛中を回ってはどうですか?」
「…………」
二人とも探しものがある身でしょう。
そんな風に続けられた言葉に、セツと
◆
“太郎坊”を使って空から見回せば、捜索も捗るはずだ。
帝の
桂川や鴨川の上空から
「歩いて回るよりは、絶対に効率が良いと思ったんだけど」
「急に空を飛ぶと言い出すから何かと思えば」
「まあ、単純に操縦してみたかったというのもあるけど……まさか墜落させる羽目になるとは」
肩を落とすセツに、
「怪我がなくて良かったと思いなさい」
「……そうだな」
彼女の声は、ずいぶんと優しい響きを帯びていた。
そのことに、セツは頬を掻いて目を逸らす。
セツの呪具回収は、順調に進んでいる。
上洛してから短期間で既に二つ確保していることを考えると、順調過ぎると言ってもよいだろう。
道世を通じて聞かされる
無論、呪具が何らかの怪異を引き起こすことを考えれば、早期に回収するに越したことは無いが――今のところ、セツに成果を焦る動機はない。
そんな彼が、上空からの捜索を考えたのは何故か。
(……見透かされているか)
何となく、バツの悪いものを覚えるセツに
囁くように「馬鹿ね」と呟いてから、彼女は「それと」と言葉を続けた。
「上空から広範囲を見回すという案は悪くないと思うけれど、この
「? それは、何故?」
「見通しが効かないもの」
答えに、セツは怪訝そうに首を傾げた。
確かに
しかし、霧の中にいるように数間先も見えないということはない。
見通しが効かないというのは、少々大げさではないか。
そんな疑問を浮かべるセツに、道世夫婦の仕草を真似してか、
「セツが言う上空から見回す案は、普通は見えないものを見る……霊視を前提にしているのでしょう?」
「ああ。そうだけど」
「この
「何でまた、そんなことに……?」
「おそらく、煤煙に呪力が……まあ、実際に見る方が早いわね」
言って、
肩を並べるように立ち、小さく咳払いをした。
「ん。ちょっと腰を屈めて」
「こうか?」
頭の高さを合わせる。
僅かに腰を落としたセツの頭に、コツンと
ふわりと、わずかに甘い香りがして、セツは何となく落ち着かない心持ちになる。
直後、彼は驚きに息を飲んだ。
「――――っ!?」
視界から、
「これは……」
灰色の世界。
青々と葉を茂らせ、万色に咲き誇っていた花々はいずれも
風が運ぶ仄かな光の正体は分からない。ただ、その中に、火の粉のような赤が見え隠れするせいだろうか。
セツの目には、灰が舞っているように映った。
舞い踊る灰色の光。
それが、セツの視界を塞ぐ。
「今、私の視界を共有しているわ」
「
そのとおりだと、
光って見えるものは、呪力や魂魄の輝きなのだと彼女は続けた。
「一面、灰色だらけだな」
「よく辺りを見なさい。他の色も見えるはずよ」
「あ、本当だ」
灰の光が多すぎて圧されているが、よく見れば青や黄といった光を捉えることができる。それらは、通りを行き交う人々の色彩だった。
ただ、あまり綺麗ではない。どこか色褪せていたり、暗い色がまだらに混じっていたりする。
そんなセツの感想に、
「目を惹き付けるような強い輝きを放つ者は稀だから」
「そういうものか」
「そういうものよ。さて――」
そっと、ぬくもりが離れ、視界に
再び一変した視界に、セツはわずかに目眩を覚えた。
「ね、見通しは効かなかったでしょう?」
「確かに」
ひどい霧の中にいるようだったと、セツはうなずいた。
同時に、あんな光景の中、彼女は一人で探索をしていたのだと思い至り――
「馬鹿ね」
顔に出てしまったのだろう。
こちらを見て、
先に進み始めた彼女の背で、桔梗文のあしらわれた細布が揺れる。
「私は、左京の五条あたりを回るつもりだけれど――」
「一緒に行く」
「そう。好きになさい」
小さな背を追う。
毎日のように
しかし。
――見通しの効かない中を歩むのは、誰だって恐ろしい。
それが強がりであることくらい、セツは知っている。
だから。
(何の助けにもなれないが……隣を歩くくらいは――)
彼は、わずかに歩を速めた。
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