第40話 颱風(下)

 雨でぬかるんだ大路を走る。

 地を蹴る度に跳ねる泥を置き去りにし、五夜さやは、一歩で数間もの距離を進む。


 大雨に打たれながら、その身を濡らすことなく。

 大風に煽られながら、真白の髪を乱すこともない。


 その超然とした姿は、知識教養の有無に関係なく、見る者に一目で人外であることを理解させるものだ。

 しかし。


「…………おとうさま」


 その表情は、超然とはほど遠い。

 焦燥に歪み、今にも泣きそうな目で彼女は空を見つめる。

 視線の先――京の上空では、黒き龍が狂乱のままに荒れ狂っていた。

 身をくねらせて大風を生み、京に喚び寄せた黒雲から甚雨ひさめを降らせ、四方八方に稲妻を撃ち放つ。


「お父さま」


 声は届かない。

 当然だ。風の咆吼に瀑布が如き雨音、そして轟く雷鳴。彼女の声など、簡単に掻き消されてしまう。

 そうでなくとも、距離が遠い。

 思念を飛ばしても効果がない以上、己の声を父に届かせるためには、空を飛んで近づく必要があるだろう。

 本来、龍神の娘である五夜さやにとって、それは大した問題にならない。

 しかし。


(……風に宿った力が強すぎて、私の力じゃ)


 唇を噛む。

 龍神の神気を宿した風雨。

 それは、みやこを長年覆っていた呪力混じりの排煙を吹き飛ばし、五夜さやに霊的な視覚を取り戻させた一方、飛行などの力の行使を大きく制限していた。

 この嵐の中では、霊的、呪的な力は、影響を受けないほど小さく単純なものか、影響を無視できるほど強大なもの以外は機能しない。

 そして、彼女が用いる飛行の力は、そのどちらにも当てはまらないものだ。

 結果、空を見つめることしか出来ない。


「…………」


 本当は、どうすれば良いのか解っている。

 霊的、呪的な力に頼ることなく、蒸気仕掛けで空を飛ぶ機械。そんな意味の分からない存在を、彼女は知っているのだから。

 それでも、こうして独りで雨の中に佇んでいるのは――


『こっちのことは気にするな。すぐに追い掛けるから』


 そう告げた少年と別れてから、すでに一時2時間近くが過ぎている。

 とうにあの鬼との決着はついているはず。それなのに、未だに合流できないのは何故なのか。

 道世と顔を合わせることで、その答えを知ってしまうのが恐ろしい。あり得ない可能性を、しかし否定しきることが出来ない。

 だから。


(“太郎坊”は羽が折れているから、今は使えないはず。それに、これは私の問題だから、自分の力で何とかしないと)


 そう己に言い訳して、五夜さやは道世と合流する選択肢を排除していた。


「はやく」


 早く何とかしないと、と焦燥が脳裏で渦を巻く。

 父は、まだ完全に正気を失い――人間たちのいう祟り神に堕ちたわけではない。稲妻を雨の如く降らせていないのがその証拠だ。

 本当に狂ってしまっていたなら、今頃、万雷の雨によって平安京たいらのみやこは灰燼と化しているだろう。

 しかし、それもいつまで保つか。


「はやく」


 風雨に宿る神気の淀みが増している。

 これが完全に陰り、真に瘴気と成り果てた時、父は永遠に失われる。

 その前に、何とかしないと――そう考えて、しかし、どうすれば良いのか解らない。


「はやく」


 うわごとのように、五夜さやは繰り返す。

 はやく。


「はやく……来て」


 ――セツ。

 知らず俯いた視線。こぼれ落ちた言葉は、嵐に飲まれ――


 直後、彼女の頭上を大きな風が駆け抜けた。

 一瞬、周囲に影が落ちる。


「……え?」


 咄嗟に顔を上げた五夜さやの視線の先で、頭上を通り過ぎた影が旋回する。

 二対四枚の羽をはばたかせ、荒れ狂う風雨を切り裂いて飛ぶその姿。

 見間違うはずがない。


 “太郎坊”だ。


「――――ッ!!」


 声が聞こえた。


「……ぁ」


 旋回を終えた“太郎坊”が、急激に高度を落とす。

 そのまま、大路に侵入。低空飛行でこちらに向かってかっ飛んでくる。

 見開いた彼女の目に、飛行艇から身を乗り出す少年の姿が映った。


「……ああ、もう」


 こぼれ落ちた吐息は、安堵のもの。

 同時に、自分に対する呆れを多分に含んでいた。

 先ほどまであった気が狂いそうな焦燥。それが綺麗に消えている。

 そのことを自覚して、五夜さやは頬を緩ませた。


「――――」


 大きく身を乗り出して、両手を伸ばす少年。

 その意図を察して、彼女は笑みを深めた。普段なら、正気の有無を問うところだが――


「馬鹿ね」


 そのひと言は誰に対してのものなのか。

 彼女を飛行中の“太郎坊”に引き上げようとする無謀な少年か。

 それとも、そんな少年の腕に身をゆだねようとする自分だろうか。


 セツによって嵐の空に攫われながら、五夜さやはそんなことを考えていた。



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