第19話 とある因果(中)
ヒソヒソと陰口が囁かれる中、足音も荒く去っていく三人組。
当然、彼らの耳にも嗤い声は届いているはずだ。
その歪んだ表情の
「何よ、あれ?」
男たちの背を見送っていると、背後から声が掛かった。
馴染みある、涼やかな声。
ようやく戻ってきたかと、セツは苦笑しながら振り返り――
「…………」
「な、何?」
動きを止めたセツに、
彼女の傍らでは、何やら満足げに
「これはこれは」
竜胆文をあしらった白の
――
見慣れた水干とは対極の、華やかな、しかし清涼感のある出で立ち。
道世が上げた感嘆の声も耳に入らずに、セツは惚けたように
「セツ殿、そのように凝視しては
「……ぁ」
笑いをかみ殺す
はっと我に返った視線が、気恥ずかしげな
何か気の利いた言い回しをと考えて――
「その、すごく綺麗だ。お姫様みたいだな」
「~~~~!」
恐ろしく直截的な感想を口にした。
口にして、もう少し他に言い様はないのかと、己に呆れるセツだったが、
真っ赤になってそっぽを向いた彼女の様子に、年長の夫婦は顔を見合わせて微笑み合う。
「セツ殿は、言葉を飾る術を覚えた方が良いかも知れません」
「同感です。あれは、相手によっては勘違いをさせかねない」
何の飾りもない、心からのひと言。
それを真正面からぶつける行為は、時に歌仙が紡ぐ言の葉以上に心を捉えるものだ。
未熟な少年は、その辺の機微をまだ理解出来ていない。
「……それは、そうと」
その目が、肩を怒らせて立ち去る男たちを捉え、すっと細められた。
「――あの三人」
「ん?」
その視線を追って、セツも同じ方向へと目を向ける。
男たちの姿は、他の客に混じってもう分からない。
しかし、彼女の目は、はっきりと彼らを捉えているようだった。
「ずいぶんと恨みを買っているようだけれど」
「……よく分かるな」
セツは感心したようにうなずいた。
うなずきながら、さきほどまで話をしていた男の眼を思い出す。
――藤原登任に同情する。
そう口にした道世を睨む眼は、もはや仇に対するものだった。
庇う者も同類だと、憎悪と怒りを隠そうともしない。
それほどまでに憎まれる者の家人であるならば、やはり相当な恨みを向けられていることだろう。
(でも、それが分かるのは、先ほどの
何も知らないはずの
一目瞭然だと、彼女は告げた。
「あれだけ陰気をまとっていて、分からない方がおかしいわ」
「陰気……?」
「恨み辛み、憤怒に憎悪、悲嘆、嫉妬……一般に“
道世が解説を入れる。
誰かから、強い負の感情を向けられている者、逆にそうした感情を発している者は、昏い陰気をまとう。
「彼らの場合、多くの恨みを向けられている上に、自身も何かを恨んでいる、といったところでしょうか」
「でしょうね。でも、どれだけ恨まれたら、あんなことになるのかしら」
恨みの元は、一人や二人ではあるまい。数十でも足りない。数百、千を超えるかもしれない。
そんな彼女の言葉に、セツはポツリと呟いた。
「……蝦夷の民からの恨み」
「彼らが本当に藤原登任の家人なら、そういう事でしょう。もっとも、原因はそれだけではないでしょうが」
そうした悪意が生んだ陰の気も多分にあるはずだ。
そう告げる道世にうなずいて、
「いずれ形を成して、あの男たちを襲うと思うわ」
「あれだけ陰気が濃いと、ないとは言い難いですね」
そんな、二人の言葉が招いたわけではないだろうが――
「――――っ」
直後、酷く陰惨な気配が、人混みの中で膨れ上がった。
◆
人混みの中に、唐突に現れた気配。
先ほどまでの悪意ある囁きを
空気が、軋む。
まとわりつくような不快感。その感覚を、セツは知っていた。
「これは、鬼気?」
呟きを肯定するように、ソレは唐突に、何の脈絡もなく出現した。
「あ?」
誰かが呟いた。
人混みの中から、墨染めの大蛇が鎌首をもたげる。
その口からは、人の足がはみ出していた。見覚えのある袴。
先ほどの三人組が、同じ色の袴だったなとセツは何となく思い出す。
「……二人とも、こっちへ」
現実感のないその光景を前に、誰も彼もが動きを止めている。
そんな中、セツは
この後に起こるだろうことを考えて、廊下から退避したのだ。
チラリと道世に目を向けると、彼はセツの考えを察しているようで、同意するように力強くうなずいた。
「ひ――」
誰かが、か細い声を上げる。
それが呼び水となった。凍っていた空気が砕け散る。
「う、わあああああアアアア――――!?」
セツたちのいる北棟は、大市廊の中でも特に客数が多い。
それが、一斉に動き出したのだ。
悲鳴を切っ掛けに、地鳴りのように足音が響き、人々が雪崩となって廊下を駆ける。
「た、助けて!!」
「ば、化け物が!?」
とにかく怪物から離れようと、ある者は中庭に飛び出し、ある者は廊下を必死の形相でひた走る。
その様子を
「多分、こうなるだろうとは思ったけど」
まともな判断力を失っているのだろう。
誰かを追い抜けば助かるのだと、そんな考えに縋るように、鬼の形相を浮かべた男が前を行く者の肩を掴む。
直後、何かにつまずいて数人を巻き込んで転倒した。
鈍い音。
「やめ、がっ! ぃギ!! 踏ま―――」
悲鳴は、程なくして重く湿った音に化けた。
それを耳にしたセツは、ウンザリした様子で舌打ちをする。
「中庭に下りた方が正解だったか?」
「いえ。こちらが正解でしょう」
道世が首を横に振った。
彼が顎を向けた先も、地獄となっていた。
「ひ、嫌!? 来ないで―――ッ!!」
どうやら墨染めの大蛇は、中庭の人間から平らげるつもりらしい。
不運にも標的に選ばれた娘が、蛇の
泣き叫びながら丸呑みにされた。
「う、わああアアア!!」
それを見た男が細太刀を手に、喚き声を上げて大蛇に吶喊する。
勇気を振り絞った男が丸呑みにされる間に、残る者たちの一部は近くの廊下に上がり――、怒濤の人波に呑まれて消えた。
(この僅かな間に、何人死んだ)
その様子を睨み、セツは歯噛みする。
鬼気は加速度的に強まっている。
大市廊を満たす恐怖を喰らってか、墨染めの大蛇が先ほどより大きくなっていた。
「…………」
チラリと視線を送ると、道世がうなずいた。
その手には、
彼は、指先を噛んで滲んだ血を糸に塗りつける。
「先行します」
「私も――」
セツと同様に
「……わたくしは大丈夫ですから」
「申し訳ありませんが、
青ざめた顔で、しかし気丈に笑う
その顔を前に、逡巡を見せる
「“道先”には、すでに状況を伝えています。二人が東棟の車宿に入れば、すぐに迎えに来るでしょう。そのまま、牛車の中で待っていてください」
「その姿でアレと戦うのも良くないだろうし、それが良いと思う」
道世の言葉に、セツも同意する。
言われた
「……分かったわ。こちらは気にしないで」
「ええ。お願いします」
話は決まったと、セツは太刀を抜き放つ。
白刃が煌めいて、周囲の鬼気を散らした。
「行きます」
「気を付けなさい」
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