第9話 蜃気楼(上)
賀茂道世の屋敷は、八条大路から町尻小路を少し下ったあたりにあった。
「…………」
その敷地に足を踏み入れたセツは、その様子に目を丸くする。
当たり前の話だが、
せいぜいが、その八分の一程度といったところだ。
その内の半分を占める庭は、中々に個性的な造りをしていた。
いきいきと背丈を競い合う草木に、苔むした縁石に囲まれた池。水面を泳ぐ蛙を樹上から
夜には虫と蛙の大合唱が聞けそうだ。
荒れているというべきか、野趣に富んだというべきか。
(管理に手が回らないのでは無く、意図的なもの……かな?)
池の傍らに見える藤棚が、とても良く手入れをされている。その様を見て、きっとわざとだろうと、セツはひいき目で判じた。
藤棚の下には、小さな卓と
今は季節でないため青々とした葉しか見られないが、春の終わり頃になれば、満開の藤を愛でることが出来るだろう。
(……ん?)
何か違和感を覚え、セツは眉をひそめた。
再び庭の様子を眺め――ふと、藤棚の向こうに置かれているモノを捉える。
屋根の付いた小型の舟、のようなモノ。
宇治から
“太郎坊”だ。
「あれ? 鴨川に泊めたはずじゃ……」
「ああ。運ばせたんですよ」
誰にだ。
思わず出かかった言葉を慌てて飲み込む。
「…………」
あまり大きくないとはいえ、飛行のための仕掛けを積んでいる“太郎坊”は、一人や二人で運べるほど軽くはない。
だが、この屋敷に何人も使用人がいるとは思えない。何しろ屋敷内にある気配は、一人だけなのだ。
どうやって人手を確保したのだろうか。
「……もしかして、式神とかですか?」
「さて。どうでしょうか」
セツの言葉に、道世は飄々と惚けてみせる。
そんな二人の話し声に気がついたのか、セツが捉えていた気配が、屋敷の奥から近づいて来た。
「あら――」
現れたのは、女だった。
歳の頃は、いくつだろうか。二十歳を少し過ぎた程度にも、三十を過ぎているようにも見える。
長く艶やかな黒髪に、百合のような楚々とした美貌の持ち主だ。
彼女は、二人の姿に目を丸くした後、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「お帰りなさいませ」
「ええ。ただいま戻りました。セツ殿、こちらは私の妻、
「はじめまして。ゆっくりしていって下さい」
結婚していたのか。
驚きを極力隠しながら、セツは頭を垂れる。
「はじめまして。
「ゆっくりしていって下さいましね」
「それで――」
にこやかに笑う
「私の留守中、変わりはありませんでしたか?」
「はい。……ああ、いえ。少し変わった噂を耳にしました」
「噂?」
道世が興味深げに眉を上げ、先を促す。
「昨夜のことだそうですが、鴨川の東岸……
「楼閣?」
「はい。そして、その楼閣には龍の姿があったそうです」
「…………」
セツは道世と顔を見合わせた。
うなずき合う。
「詳しいお話は、中でしましょうか」
そんな二人の様子を見て、道世の妻は穏やかにそう続けた。
◆
「蜃気楼でしょうね」
「……海に幻が現れるアレですか?」
話を終えた
その言葉に、セツは今しがた聞いた話を反芻して首を傾げた。
それは、
日の入りの時刻を見誤ったのか、暗い帰り道を急ぐ男は、“六道の辻”のあたりで、奇妙なものを目にする。
それは、薄暗い中、ぼんやりと浮かび上がって見える楼閣だった。
普通なら、そんなものに近づくハズもない。
それなのに、男は、吸い寄せられるように足を向けたという。
近づいてみれば、
誘われるように中へと足を踏み入れ、そこで一枚の鏡を目にした男は、フラフラと手を伸ばし――
(突如、鏡から出てきた龍に、泡を食って逃げ出した、か)
転げるように必死に走り、珍皇寺のあたりで振り返れば、龍はもちろん、楼閣の姿も消え去っていたという。
「うーむ」
セツは小さく唸った。
蜃気楼。幻が出現する点では確かにそうだが――
「あれは、遠くにある風景が見えているだけですから、何処にも存在しない楼閣が現れるのはおかしいのでは?」
「さすがは渡辺党。水辺の現象に詳しいですね。ただ――」
蜃気楼と呼ばれるものには二種類あるのだと、彼は続けた。
つまり、自然の理により生ずる現象と、
「今回のは、後者の方でしょう。蜃気楼の由来である“
「……
「ええ。龍族の一種です。鏡から現れたというのは、それでしょう」
「なるほど」
確かに噂の内容と合致する。
ただ、とセツは首を傾げた。
「何故、龍が京の近くに?」
「そこですが、件の散逸した呪具の中に“蜃の宝鏡”というものが」
「中に
「ご名答」
セツは天井を仰いだ。
怪異絡みなら可能性はあると思っていたが、いきなり当たりを引いたらしい。
京についたばかりでこれは、幸先が良いのか、悪いのか。
「その場所に行ってみようと思います」
「私は、その前に陰陽寮に行こうと思いますので、先に向かってください」
陰陽寮の術士が動いていた場合、変に衝突して禍根を生むのは避けたい。
情報収集がてら様子を見てくると告げながら、道世が一枚の符を取り出した。
指二本で挟み、何事か囁く。
編まれた
「道案内と万が一の時の援護は、この式を通じて行います。後、こちらの符をお渡しておきます。とりあえず、実体のない化け物とも戦えるでしょう」
「助かります」
鵺との戦いの際に渡された符だ。
それを大事に懐へとしまい込み、セツは頭を垂れた。
顔を上げ、太刀を掴む。
「それでは――」
「危ないと思えば退いて下さい。セツ殿が無事ならば、後で何とでも取り戻せます」
道世の言葉にうなずきを返す。
肩に
◆
「あら――」
少年が屋敷から出て行ったの気がついたのか、
彼女は、道世の様子を見て首を傾げた。
「お出かけですか?」
「ええ。陰陽寮に用事が出来ました」
「陰陽寮……夕餉はどうされますか?」
「少し遅くなるかもしれませんが、帰ってから戴くことにします。……ああ、夕餉はセツ殿のものもお願いします」
「はい。分かりました」
話をしながら、
背中に触れる妻がクスリと笑ったのに気がついて、道世は彼女を振り返った。
「どうかしましたか?」
「いいえ。ずいぶんとお歳の離れたご友人が出来ましたね」
微笑ましげな
彼女から見れば、二回りは下の少年だ。それが、自分と一緒にいるのが面白いのだろう。
「まだ出会って数日ですが……おそらく、これから長い付き合いになると思いますよ」
「それは良いことですね」
それに笑ってうなずいた後、道世は小さく息をついた。
穏やかに笑う妻に対し、多少なりとも後ろめたさを感じるためだ。
「……ゆっくり話をすることも出来ず、すみません」
「いいえ。いいえ。大切なことなのでしょう? わたくしの父も、忙しい時には何日も戻ってこないことがありましたから」
ある程度は理解しているつもりだと、
彼女の父親は、正五位下――
藤原頼通公の書斎に出入りしていたこともある彼は、
「ただ――」
柔らかな笑顔に、何故か凄みが混じる。
彼女は、囁くように続けた。
「父のように、歳若い娘のところに通うのは、お止め下さいましね?」
「ははは。もちろん」
背筋がぞわりと粟立って、道世は乾いた笑い声を上げた。
もちろん、そんなつもりは全くない。本当に。
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