第9話 蜃気楼(上)

 賀茂道世の屋敷は、八条大路から町尻小路を少し下ったあたりにあった。


「…………」


 その敷地に足を踏み入れたセツは、その様子に目を丸くする。

 当たり前の話だが、四十丈120m四方――“町”ひとつを占める広大な大邸宅、などということはない。

 せいぜいが、その八分の一程度といったところだ。

 その内の半分を占める庭は、中々に個性的な造りをしていた。


 いきいきと背丈を競い合う草木に、苔むした縁石に囲まれた池。水面を泳ぐ蛙を樹上からカラスが狙っている。

 夜には虫と蛙の大合唱が聞けそうだ。

 荒れているというべきか、野趣に富んだというべきか。


(管理に手が回らないのでは無く、意図的なもの……かな?)


 池の傍らに見える藤棚が、とても良く手入れをされている。その様を見て、きっとわざとだろうと、セツはひいき目で判じた。

 藤棚の下には、小さな卓と倚子いしが置かれている。

 今は季節でないため青々とした葉しか見られないが、春の終わり頃になれば、満開の藤を愛でることが出来るだろう。


(……ん?)


 何か違和感を覚え、セツは眉をひそめた。

 再び庭の様子を眺め――ふと、藤棚の向こうに置かれているモノを捉える。


 屋根の付いた小型の舟、のようなモノ。

 宇治からみやこに移動した際、このまま洛中に乗り付けるのはマズいと、鴨川の岸辺に泊めたハズの飛行艇。

 “太郎坊”だ。


「あれ? 鴨川に泊めたはずじゃ……」

「ああ。運ばせたんですよ」


 誰にだ。

 思わず出かかった言葉を慌てて飲み込む。


「…………」


 あまり大きくないとはいえ、飛行のための仕掛けを積んでいる“太郎坊”は、一人や二人で運べるほど軽くはない。

 だが、この屋敷に何人も使用人がいるとは思えない。何しろ屋敷内にある気配は、一人だけなのだ。

 どうやって人手を確保したのだろうか。


「……もしかして、式神とかですか?」

「さて。どうでしょうか」


 セツの言葉に、道世は飄々と惚けてみせる。

 そんな二人の話し声に気がついたのか、セツが捉えていた気配が、屋敷の奥から近づいて来た。


「あら――」


 現れたのは、女だった。

 歳の頃は、いくつだろうか。二十歳を少し過ぎた程度にも、三十を過ぎているようにも見える。

 長く艶やかな黒髪に、百合のような楚々とした美貌の持ち主だ。

 彼女は、二人の姿に目を丸くした後、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。


「お帰りなさいませ」

「ええ。ただいま戻りました。セツ殿、こちらは私の妻、十花とうかです」

「はじめまして。ゆっくりしていって下さい」


 結婚していたのか。

 驚きを極力隠しながら、セツは頭を垂れる。


「はじめまして。渡辺切わたなべのせつと申します。突然の訪問、ご容赦ください」

「ゆっくりしていって下さいましね」

「それで――」


 にこやかに笑う十花とうかへと、道世が問いかける。


「私の留守中、変わりはありませんでしたか?」

「はい。……ああ、いえ。少し変わった噂を耳にしました」

「噂?」


 道世が興味深げに眉を上げ、先を促す。


「昨夜のことだそうですが、鴨川の東岸……鳥辺野とりべのの辺りで怪異があったそうです。何でも、楼閣が突然現れたとか」

「楼閣?」

「はい。そして、その楼閣には龍の姿があったそうです」

「…………」


 セツは道世と顔を見合わせた。

 うなずき合う。


「詳しいお話は、中でしましょうか」


 そんな二人の様子を見て、道世の妻は穏やかにそう続けた。





「蜃気楼でしょうね」

「……海に幻が現れるアレですか?」


 話を終えた十花とうかが下がった後、道世は断言する。

 その言葉に、セツは今しがた聞いた話を反芻して首を傾げた。


 十花とうかから聞いた噂話。

 それは、みやこの東――鴨川を渡った先にある清水観音に参拝した男の話だった。


 日の入りの時刻を見誤ったのか、暗い帰り道を急ぐ男は、“六道の辻”のあたりで、奇妙なものを目にする。

 それは、薄暗い中、ぼんやりと浮かび上がって見える楼閣だった。

 普通なら、そんなものに近づくハズもない。

 それなのに、男は、吸い寄せられるように足を向けたという。


 近づいてみれば、東寺ひがしでらの五重塔もかくやという立派な建物。

 誘われるように中へと足を踏み入れ、そこで一枚の鏡を目にした男は、フラフラと手を伸ばし――


(突如、鏡から出てきた龍に、泡を食って逃げ出した、か)


 転げるように必死に走り、珍皇寺のあたりで振り返れば、龍はもちろん、楼閣の姿も消え去っていたという。


「うーむ」


 セツは小さく唸った。

 蜃気楼。幻が出現する点では確かにそうだが――


「あれは、遠くにある風景が見えているだけですから、何処にも存在しない楼閣が現れるのはおかしいのでは?」

「さすがは渡辺党。水辺の現象に詳しいですね。ただ――」


 蜃気楼と呼ばれるものには二種類あるのだと、彼は続けた。

 つまり、自然の理により生ずる現象と、しんによって引き起こされる怪異である。


「今回のは、後者の方でしょう。蜃気楼の由来である“しんの気によって作られた楼閣”のとおり」

「……しん

「ええ。龍族の一種です。鏡から現れたというのは、それでしょう」

「なるほど」


 確かに噂の内容と合致する。

 ただ、とセツは首を傾げた。


「何故、龍が京の近くに?」

「そこですが、件の散逸した呪具の中に“蜃の宝鏡”というものが」

「中にしんが封じられているとかですか?」

「ご名答」


 セツは天井を仰いだ。

 怪異絡みなら可能性はあると思っていたが、いきなり当たりを引いたらしい。

 京についたばかりでこれは、幸先が良いのか、悪いのか。


「その場所に行ってみようと思います」

「私は、その前に陰陽寮に行こうと思いますので、先に向かってください」


 陰陽寮の術士が動いていた場合、変に衝突して禍根を生むのは避けたい。

 情報収集がてら様子を見てくると告げながら、道世が一枚の符を取り出した。

 指二本で挟み、何事か囁く。

 編まれたしゅに応え、符が一羽のカラスへと姿を転じた。


「道案内と万が一の時の援護は、この式を通じて行います。後、こちらの符をお渡しておきます。とりあえず、実体のない化け物とも戦えるでしょう」

「助かります」


 鵺との戦いの際に渡された符だ。

 それを大事に懐へとしまい込み、セツは頭を垂れた。

 顔を上げ、太刀を掴む。


「それでは――」

「危ないと思えば退いて下さい。セツ殿が無事ならば、後で何とでも取り戻せます」


 道世の言葉にうなずきを返す。

 肩にカラスを乗せ、腰に太刀を佩いて、武士もののふの少年は静かに席を立った。





「あら――」


 少年が屋敷から出て行ったの気がついたのか、十花とうかが顔を出す。

 彼女は、道世の様子を見て首を傾げた。


「お出かけですか?」

「ええ。陰陽寮に用事が出来ました」

「陰陽寮……夕餉はどうされますか?」

「少し遅くなるかもしれませんが、帰ってから戴くことにします。……ああ、夕餉はセツ殿のものもお願いします」

「はい。分かりました」


 話をしながら、十花とうかの手が道世の服装を整えていく。

 背中に触れる妻がクスリと笑ったのに気がついて、道世は彼女を振り返った。


「どうかしましたか?」

「いいえ。ずいぶんとお歳の離れたご友人が出来ましたね」


 微笑ましげな十花とうかの眼差しを受け、道世は小さく笑った。

 彼女から見れば、二回りは下の少年だ。それが、自分と一緒にいるのが面白いのだろう。


「まだ出会って数日ですが……おそらく、これから長い付き合いになると思いますよ」

「それは良いことですね」


 十花とうかがニッコリと笑う。

 それに笑ってうなずいた後、道世は小さく息をついた。

 穏やかに笑う妻に対し、多少なりとも後ろめたさを感じるためだ。


「……ゆっくり話をすることも出来ず、すみません」

「いいえ。いいえ。大切なことなのでしょう? わたくしの父も、忙しい時には何日も戻ってこないことがありましたから」


 ある程度は理解しているつもりだと、十花とうかは笑う。

 彼女の父親は、正五位下――式部少輔しきぶのしょうにして左衛門尉さえもんのじょうを務める殿上人だ。

 藤原頼通公の書斎に出入りしていたこともある彼は、十花とうかがまだ実家にいた頃はずいぶんと忙しく、顔を合わせることも稀だったそうだ。


「ただ――」


 柔らかな笑顔に、何故か凄みが混じる。

 彼女は、囁くように続けた。


「父のように、歳若い娘のところに通うのは、お止め下さいましね?」

「ははは。もちろん」


 背筋がぞわりと粟立って、道世は乾いた笑い声を上げた。

 もちろん、そんなつもりは全くない。本当に。

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