第9幕

鼻を突く酷い腐敗臭。

赤黒く濡れ、べっとりとぬかるんだ大地。

もはや何のものともわからない数多の骨。

無造作に散らばった大小さまざまな瓦礫は、在りし日のそれらの姿を完全に忘れてしまっている。

吹きつける乾いた向かい風。

ねばねばした赤い土に足を取られつつ、地面に残された1対の足跡を辿る。

空までもが赤く染まり、地平線さえわからなくなっている。

ぼうっとした不安とともにとぼとぼと歩き続ける。


突然、見上げるような大きさのどす黒い山が眼前に現れる。

足跡はそこへと続いている。

近づいていくと、巨大な塊のディテールが少しずつ見えてくる。

塊からは大小の棒が所狭しと突き出ている。

手を伸ばせば届きそうな所まで近づいて、初めてそれらが人間の腕や足だとわかる。

巨大な黒い塊は、ヒトの死体の山だった。

若い男、老人、女性、子供……。

腕の無い者、足の無い者、頭の無い者……。

積み上がっている人はさまざまだ。

だけど、みんな死んでいた。

死体の山のてっぺんを見上げる。

小さな人影が見える。

さらに目を凝らして見る。

その正体はヒトじゃなかった。

山の頂上に立っていたのは、見まごうことなくぼくだった。

ズボン以外に何も身に着けず、代わりに鮮血を全身に纏っている。

半開きの口からは、白っぽくてらてらと光る何かの……多分ヒトの……腸みたいなものがこぼれている。

虚に開いた目は赤くくすみ、どこか遠くを見つめている。

幼い子どもが知らない場所でひとり取り残されたときのような、心の奥の方を締め付けられるような感情に襲われながらも、どうしてだかそこから離れることができない。


山の上のぼくが、首を動かさずに目だけでこちらを見下ろしてくる。

ぼくと目が合う。

……いつの間にか風さえも止み、世界からは音が消えていた。

永遠かのような沈黙の後、山の上のぼくが大きく口を開く。

白っぽいものがにゅるっと口からこぼれ落ちて、死体の山に加わる。

下顎が外れ、上下の顎がそれぞれ2つに割れてこちらにさっと伸びてくる。

逃げたくても、足が地面に刺さったように動かない。

いつしか不規則に並んだ乱杭歯と、滴る黄色い消化液、そして口の中の溶けかかった肉だけが視界を覆い、生温かい吐息がぼくを包んで……。



「うわああっ!………」

情けない声を上げて飛び起きる。

あちこちにひどく汗をかき、背中には下着がぴったりと張り付いている。

全身がどっと疲れているのに目だけが冴えて仕方がない。

部屋はまだ薄暗く、だいぶ早く起きてしまったらしいことがわかる。

……転生して以降、不気味な夢をよく見るようになった。

素早く襲いかかってくるようではなくて、少しずつ首を絞めてくるような夢だ。

首筋を撫でるように恐怖がまとわりついてきて、だんだんとそれに耐えられなくなり、限界を迎えるころにはっと目が覚める。

そして夢の光景が頭にこびりついて、憂鬱な気持ちのまま1日を過ごすのだ。

今日もまた、嫌な夢を見てしまったばっかりに、ぼくは最悪な気分で一日を始めなければならない。



「ふぁ〜あ……。

はれ?カジハラさん、もうおきてる……?」

窓からうっすらと日の光が差してきたころ、豊かな髪を解いたまま、眠そうに目をこすりながらベルさんが起きてきた。

ぼくは朝食を食べ終え、暇つぶしに分体と戯れていた。

「ああ、なんだか目が覚めちゃって」

「そーですか…………んんっ!………」

大きく伸びをした後に、少し照れたような気の抜けた仕草で、ぼくの向かいのソファーに腰掛ける。

寝ぼけているのだろうか、ただただ幸せそうな、無防備な笑顔をこちらに向けている。

ぼくはそんな屈託のない表情を思わずじっと見つめている自分に気づき、慌てて立ち上がって彼女の分の朝食の準備を始めた。

……朝食って言っても、トーストとか簡単なものしか作れないけど。


初めて出会ってから数ヶ月。

ぼくは未だに彼女の家での居候生活を続けている。

……一応冒険者としての収入はあるから、居候とは言えないんだろうか?

でもどの道「居候」以外にいい言葉が見つからない。

家族ではないから同居とは言えないし、間違っても付き合ってるなんて言えないから同棲と表現するのもおかしい。

……そう、数ヶ月間同じ屋根の下で暮らしていながらも、ぼくと彼女との関係は恐ろしいほど進展していないのだ。

割と無防備なのは(それはそれで問題だけど)もともとのことだし、彼女に触れたことなど数える程しかない。

……ちょうどいい金づるぐらいに思われてるんだろうか。

童貞の身としては見ているだけでも十分満足できるから、どう思われていても別に構わないんだけど。

生活習慣も大して変わっていない。

朝起きて、クエストを受注して、森に行ってクエストついでに魔物を適当に喰い漁って、帰ったら報酬を渡して夕飯を食べて寝る。

同じことの繰り返しだ。

……まあ、彼女のおかげで森で暮らしていたときのような退屈さは無いけど。

ぼくの用意した朝食は、豚(のような見た目の養殖された魔物)のハムと、鶏(のような魔物)の卵の目玉焼きを載せただけのトースト。

皿に載せて手渡すと、彼女は軽くお辞儀をした後、寝ぼけ眼のまま両手で持ってがじがじと食べ始めた。

ぼくは戦闘時用と決めている制服の上着に袖を通し、そそくさと玄関に向かった。

「……もうおしごとですか?」

「ええ、ちょっと早いかもですけど」

「きょうはなにかあるんですか?」

……目の前のかわいい生き物を思いっきり抱きしめたい衝動に負けそうだから、早くここから出たいんです……なんて言えるはずもなかった。

「いってらっしゃ〜い、きをつけて〜」

玄関から手を振る彼女を見ていると、今朝の悪夢にちょっと感謝したいような気持ちにさえなった。



クエストの内容によって異なるニーズに対応すべく、受付窓口は昼夜を問わずに開かれている。

もちろん時間帯によって受付嬢も交代するので、タイミングがずれればあまり親しくない人に当たる可能性が高い。

こういうときの雑談も日々の楽しみの1つなんだけど、いつもの人が相手でないと、どうしてもどこか淡白な受け答えになってしまう。

「ナンバー1087の梶原です。

クエストの受注に来ました」

「1087……ランクはアドバンスですね。

本日ご紹介できるクエストはこちらです」

分厚い羊皮紙の束を渡される。

記されたクエスト内容には、危険な魔物の素材の調達などといった難しいものも含まれている。

「じゃあ……これで」

「ドフィスの大顎の納品ですね、かしこまりました」

ドフィス……すなわち例のムカデ……に関するクエストを受けられるようになったのも、つい最近のことだ。

「携帯食料等のサポートサービスはいかがなさいますか?」

「いいえ、結構です」

「わかりました……では、こちらの書類にサインをお願いします」

この世界の文字はかなり癖のある形をしていて、強いて言うならアラビア文字に似ているような気もしないでもない。

「はい、契約完了です。

道中お気をつけて、いってらっしゃいませ」



……おかしい。

森が静かすぎる。

結構歩いているのに、以前は掃いて捨てるほどいたムカデにさえ出会わないなんて、異常だとしか思えない。

というか周囲に生き物の気配が感じられなくて気味が悪い。

最近はぼくも獲物をある程度選り好みするようになり、不味いムカデはあまり食べなくなった。

少なくともムカデの減少は、ぼくの乱獲によるものとは考えにくい。

じゃあどうして……?


と思ったそのとき、その疑問に対するわかりやすい「答え」が突然現れた。

突き上げるように大きく地面が揺れ、思わず近くの木に寄りかかる。

遠くの方から低い唸り声が響き渡り、木々の葉が警告するようにざわざわと音を立て始める。

手近な木に登り、辺りを見渡してみると、森の高木の海からゆっくりと浮上してくる、何かの巨大な頭が見えた。

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