第35幕

扉の鍵は閉まっていた。

インターホンを鳴らしてみても応答は無い。

指で扉に穴を開け、内側から解錠して中に侵入する。

鼻腔の奥に滑り込む他人の匂い。

玄関で靴を脱ぐ習慣は、この世界では一般的らしく、2つ前の生き方と似ていてそれなりに懐かしい。

そこに並んでいる靴は2足。

古ぼけてかかとのすり減った汚いランシューズと、新品のようにぴかぴかと輝く真っ赤なローファーだ。

……もともと裸足だから脱ぐものが無い。

申し訳程度に足の裏を拭いて上がり込む。

廊下は薄暗く、自分の足音以外に何も聞こえない。

床との隙間から光を漏らす1つのドアに足が向かう。

開け放つと、まず目に入ったのは大きな窓。

通りを挟んだ反対側の建物と、すっかり暗くなってきた空とを、額縁のように切り取っている。

次に見えたのはベッド。

柄の無いシンプルな白一色。

そこに身体を起こす女性は、飾り気の無い病人服のようなものを着ていた。

化け物の姿を認めるなり、目を見開いて、当惑とも絶望ともとれる表情になっていった。

「単翼の……悪魔っ……!」

なぜか枕元に置いてあり、かつ装填までしてあった銃を掴んで構える。

手早く安全装置を外し、撃たれた弾は5発。

そのうち当たったのも5発。

頭に2発、左胸に1発、両足の太ももに1発ずつだ。

……すごい精度だな。

ただの一般人でないことだけは確かだろう。

よろめきもせずに傷を治して歩み寄る。

「嘘……死なない!?なんで?」

「……死ねない、って言う方が正しいかな」

自分の完全な敗北とその先に待つ死を悟ったのか、その肌がだんだんと生気を失って青ざめていく。

「う……あ……うああああ!」

銃口を口に咥える。

その手首を掴んで力ずくで引き離す。

「……やめろ!

……この、離して……ああっ!」

ぐっと強めに握って銃を落とさせる。

拾い上げ、残った弾を天井に撃って本体を遠くに投げ捨てる。

するととうとう抵抗をやめて、彼女は力なくそこに伏してしまった。

少し長く黒っぽい髪がぼくの足元に広がる。

……見るに耐えないな。

早く殺してやった方が……。

「…………お兄ちゃん……」

不意に漏れた、小さな子どものような可愛らしい声を聞いてしゃがみ込む。

「……お兄ちゃん?……兄弟がいるの?」

「うっ、うるさい!

あんたには関係な……うあっ!」

その頭を持ち上げて、まだ幼さの残る顔を覗き込む。

「……なっ、何すんのよ?」

滲んだ涙を指で拭き取って目を合わせる。

……やっぱりそうか。

ぼくを睨むその瞳は炎のように澄んでいた。

「君のお兄さんって、軍人だったよね?」

「……ええ、そうよ。

この街を守るんだって、すぐまた帰ってくるからって出て行って……。

でもあんたが……あんたが今ここにいるってことは……!」

「そして、戦車に乗っていた?」

「……なんで、そんなこと知ってるの?」

「殺した相手のことは、みんな覚えているからね」

……熱線で顔も見ないままに殺してしまったヒトたちのことは除くけど。

「じゃあ、やっぱりあんたが……!」

「うん。君のお兄さんは、ぼくがこの手で殺したんだ」

平然と小さな嘘をつく。

「そんな……」

「……強かったよ、本当に。

少なくとも、ぼくなんかよりは」

そう正直に言った後、ひどく苦々しい気持ちになる。

……簡単な話だ。

あの強さは、あの勇気は、全てこの少女のための……。

「でも……でも結局、あんたは……!」

「ああ、生き残ってしまったのはぼくだ。

……本当にごめん。

ぼくが謝ったってどうにもならないけど、本当に申し訳ないと思ってるよ」

その兄を殺した相手に言葉だけで謝るなんて馬鹿げていると気づいても、一度出てしまった言葉を引き戻すことはできない。

「……やめてよ」

「……そうだよね。

ぼくなんかの言葉じゃ……」

「そうじゃなくて……その顔よ!」

「……顔?」

「その顔……なんでそんな、本当に申し訳なさそうな、悲しそうな顔してるの?

……あんた人殺しなんでしょ?

なら人殺しらしく、すぐにでも殴りたくなるような、憎ったらしい顔してなさいよ!」

「ごっ、ごめん……」

「あんたはお兄ちゃんを殺したんだ。

私は絶対あんたを許さないよ……。

……でも、あんたがそんな顔してるせいで、なんだか、わかんなくなるの。

あんたがただの『悪魔』のようには見えなくなってきて……」

「…………」

「知らないの?

あんた、みんなから『単翼の悪魔』って呼ばれてるんだよ?

片っぽしか羽根のついてない、欠陥品の化け物だって」

……単翼の悪魔、ねえ。

ちょっと厨二っぽいけどなかなかいい名前じゃないか。

「でも、本当は違うんでしょ?」

「……え?」

「あんたは元から狂ってるサイコパスなんかじゃない……。

詳しいことは知らないけど、こうなっちゃうまでに何か……何かがあったんでしょ?」

今度は自分から目を合わせてくる。

その瞳の、少しも濁りの無い美しさに思わずうろたえる。

「何を言って……」

「それがなんとなくこっちに伝わってきちゃうから嫌なの。

どうせ私も殺すんでしょ?

だったらこのまま……あんたを『悪魔』として憎んだまま、あんたを睨みつけながら死にたいの。

それなのにあんたは……」

「ちょ、ちょっと待って……」

「わかんないのよ。

あんたをどこまで憎んでいいのか」

「待てって」

「ねえ、あんたにも名前があるんでしょ?

『悪魔』なんかじゃない……」

「待てったら!」

槍のようにした指先をその額に突きつける。

「君だって……君だって、そうじゃないか」

自分の思考が乱れ始めているのを感じる。

「そんな目でぼくを見ないでよ。

……違うんだ。

ぼくは悪魔だし化け物なんだ。

君のお兄さんもそうだし、他にもたくさんのヒトを殺した。

君はぼくに、ただ憎悪だけを向けなきゃいけないんだ。

君は君の言うように、ぼくを睨みつけて死ななきゃいけないんだ……。

なのに何だよその目は?

……そんな、まるで……」

まるでぼくに、兄を殺したぼくに、慈悲でもかけるかのような……。

「……それができないんなら、ここからさっさと逃げてよ。

どこか遠くに、ぼくが見つけられないほど遠くに……。

……ねえ、お願いだから、ぼくをそんな目で見ないで……」

その眼差しがぼくの心臓の奥の方を痛いくらいかき乱すんだ。

「……そうだ。

なんで君は逃げなかったんだよ?」

そう尋ねると、彼女はようやくぼくから視線を落とした。

「……逃げられなかった、から」

「どうして?」

「足が、悪いから……。

訓練中の事故で、両方とも、全然動かなくなって……」

その身体が急に小さくなっていく。

「……車椅子は?」

「あんなの担いで、どうやってあの階段を降りろって言うの?

家にはいつもお兄ちゃんしかいないのに、他のみんなは先を争って逃げてくのに……」

「それは……」

「……あんまり見せたくないんだけど……。

あれ、ベッドの横……」

彼女が指差した先の物体を引き寄せる。

それは大きな口のついたガラスの瓶だった。

濃い黄色ががった温かい液体が、その半分ぐらいまで入っていた。

「……結局、家政婦さんも来てくれなかったし、助けを呼んでも誰も……」

そこで彼女は言葉を切った。

「…………」

黙ったまま指の硬質化を解く。

兄の死を半ば確信し、窓の外に訪れようとする得体の知れない化け物の気配を感じながらも、何もできずにただ自分の死を待っていた彼女の心境は、ぼくには計り知れない。

ただ自分の中で、第11界に降りて以降、決して持つまいと排除していたしっとりとした感情が、その顔を覗かせるのがわかった。

「……ち、ちょっと!

どこ触って……きゃっ!」

ベッドからずり落ちた身体を抱き上げ、彼女を元の姿勢に戻す。

乱れたシーツをのばし、布団を腰まで丁寧にかける。

「……ねえ、お腹空いてない?」

「え?……なんで急に?」

「いや、別に……。

誰も来なかったんなら、長いこと何も食べてないんじゃないかなと思って」

「……全然、空いてないけど」

「ふーん……」

緊張状態だから空腹を感じられていないのだろうか。

「どこ行くの?」

「キッチン。なんか作ってくる」

奥のキッチンを探し当て、背の高い冷蔵庫の中身を漁る。

……これといって何も入っていない。

一旦外に出て道なりに進み、無人の食料品店から適当に商品を盗む。

歩き戻って再びキッチンに立つ。

あの人のおかげで多少の料理は覚えたけれど、食べやすさも考えて簡単にサンドイッチをこしらえる。

ベッドに腰掛け、それらを載せた皿を彼女に差し出す。

「食べる?」

「いっ、要らない……」

「そう」

自分で1つ手に取り、さぞかし美味しそうに食べる。

……実際、自分で言うのもなんだけど、こいつはそれなりに美味しい。

あの人に教えてもらった、マヨネーズをベースにいくつかの香辛料を加えたソースがいいアクセントになっている。

ちらと見ると、彼女は決まり悪そうにぼくの手元に視線を送っていた。

次の1つを取ってそっと差し出す。

一瞬乱暴に奪い取ろうとして、思い直したように両手で受け取る。

「…………あ、ありがと」

小さく1口かじり、ゆっくりと咀嚼する。

ほんの少し目を丸くする。

……そこからは本当に速かった。

女性とは思えないペースでがつがつと平らげてしまった。

「もっと食べる?」

「……うん」

皿ごと全部手渡すと、多めに作ってあったはずのサンドイッチは、ほんの数分で全て無くなった。



1つ残さず食べ終えて、空っぽの皿をいじくる彼女の横顔をぼーっと眺め、その兄との昨日までの日常に想いを馳せる。

……いや、それは駄目だ。

それは考えちゃ駄目なんだ。

考えちゃ駄目なんだけど、でも、ぼくが殺してきた1人1人には、それぞれその瞬間までの人生があって、そこからまだ続くはずだった人生があって……。

「…………ねえ、悪魔」

不意に長い沈黙を破って彼女が口を開く。

「何?」

「抱いて」

「……え?」

「聞こえなかった?

私を抱いてって……犯してって言ったの」

「いや、だから、その……え?」

……正気か?

いくらなんでもどうかしてる。

初対面であるどころか、他の何よりも恨むべき存在に、その身体を……。

「そんな……どうしていきなり?」

疑問をそのままぶつけると、彼女は俯いて、皿をぼくの反対側に置いた。

「……私だって処女のまま死ぬのは嫌なの。

あんただって、そんなに……悪い気は、しないでしょ?」

服の前紐を解いてはだけさせ、薄いピンクの下着を露わにする。

まだ発達しきっていない小さな胸元から目を逸らす。

「違う、そういう問題じゃなくて……。

なんか、馬鹿じゃないの?」

中学生の下らない妄想の方がまだ筋が通っている。

「それは……良くない。

そういうのは……やっぱり、良くないと思うんだ」

ひどく気まずい時間が流れる。

「……じゃあ、それ、片付けるから……」

皿を取ろうと手を伸ばす。

……と、彼女がいきなりぼくの手首を掴み、思い切り引っ張った。

左手で下着を上にずらし、そこにぼくの手のひらをぐぐっと強く押し当てる。

「なっ……何してんだよ!?ちょっと……」

信じられないほど滑らかで柔らかい感触と、その儚く脈打つ体温とが、唐突に思考に割り込んでくる。

「んっ……わかる、よね?

直接……触っちゃってるんだよ?

私の……女の子の、おっぱい……ううっ!」

さらにぐりぐりと押し当てられる。

「ねえ、見せてよ……。

悪魔としての、男としての、一番醜くて汚い部分……。

悪魔なら悪魔らしく、欲望のままに、私を、めちゃくちゃに、して……!」

それを聞いて確信した。

彼女は本当に「わかんなくなって」しまったんだ。

ぼくがすぐに殺さなかったせいで、ぼくが中途半端に彼女のことを知ろうとしたせいで、彼女の中で気持ちの整理がつかなくなってしまったんだ。

ぼくの決意が弱いせいで、彼女は壊れてしまったんだ。

そしてそのことは、本当に彼女の処女を奪い去り、締まりのいい膣をこじ開けてぼくを擦り付け、汚らしい精をぶちまけてしまうことよりも、よほど残虐で恐ろしいことであるように思われた。

「……おっぱいだけじゃ不満?

……だったら、こっちも……」

ぼくの手を少しずつ下へ下へと誘っていく。

手のひらは慎ましい胸の膨らみから離れ、細身な身体の上をするすると滑って……。

危うく我に返り、彼女の手を無理矢理振りほどく。

「…………なんで?

……あんた、性欲も無いの?」

「いや……そうじゃないけど……」

事実として、激しいノイズが否応なくぼくのリビドーを掻き立ててもいる。

「でも駄目なんだ。

ぼくは化け物だ……つまり、君の純潔を破れるような、立派な『人間』なんかじゃない。

説明しにくいけど……とにかく、ぼくだからこそ駄目なんだよ」

……これも半分くらいは嘘だ。

もっと根底にあるのは、あの人にもこんなことしなかったのにという、子どもじみた突発的な感情なのかもしれない。

「……ほら、わかったんなら早く服着て、その皿……」

視線を戻してすぐに、ぼくは言葉を失った。

彼女はあられもない姿のまま、口を開いて虚にぼくを見つめていたのだ。

その瞳の美しさも、いつの間にか鈍くくすんでしまっていた。

……手遅れ、か。

ぼくの言葉はもう、どうやっても彼女に届かないらしい。

大きく息をつき、彼女の隣に座り直す。

「……聡」

「……え?」

「梶原 聡……ぼくの名前だ」

「サ、ト、ル……?」

「……さよなら」

「はぐっ……!?」

頭の後ろにさっと手を回して唇を奪う。

抵抗が収まるのを待って、半ば強引に舌を入れ込む。

「うぐっ……んんんっ……!」

彼女は慣れないキスに最初こそ戸惑っていたものの、互いの口の中をじっくりと味わい合ううちに、徐々にその目を細めていった。

それを確認した後、ぼくは入念に狙いをつけて、硬質化させた舌で彼女の脳幹を貫いた。


……ほとんど即死だった。

彼女は暴れることすらしなかった。

その瞳孔が開ききるのを見て、確実に1回で殺して苦しみを最小限に抑えられたことに、ぼくは歪んだ安堵を覚えた。

舌を引き抜くと、傷口からだらだらと新鮮な血液や肉片が流れ出てきた。

ぼくはそれが止まるまで、唇を重ねたまま、それらを全て呑み干した。

やや鉄の薄い、でも若く健康的な血だった。

こうしてぼくは、勇敢な兄が何よりも護りたがっていた少女の人生に、突如として最悪の幕切れをもたらしたのだった。


彼女の口まわりについた血を舐めとり、瞼を下ろしてその表情に偽りの安らぎを与える。

窓を開け、とうとう誰もいなくなった通りに向かって飛び降りる。

髪をかき上げて歩き出す。

……じきに後ろの空が白み始めるだろうか。

この街を抜ければ魔法勢力との境界はもうすぐそこだ。

頭痛を無視して歩いていると、道端に落ちていたガラスのかけらで足を怪我した。

なんとなく、治さなかった。

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