第36幕

左手から熱く乾いた風が吹き付けている。

空と地面との間に水墨画のように浮かび上がった遠景は、追っても追っても近づかない。

蜃気楼ってやつだろうか。

光の屈折で普段より遠くが見えるようになるんだと、理系の誰かが言ってた気がする。

……みんな、今頃どうしてるんだろう?

もはや遠い過去になってしまった第5界に想いを馳せると、歩けど変わらぬ荒野の景色も手伝って、歩くという感覚がだんだん曖昧になってくる。

まるで起きる直前の、もやっと霧がかった夢のように。

…………夢、か。

夢ならいいんだ。

どんなに酷い悪夢だって、いつかは覚めてくれるから。

……これも全部、何かの悪い夢だったらいいのに。

第6界の思い出が偽物になってしまうのは嫌だけど、こんな思いをするぐらいなら、むしろ最初から全部……。

……でも、ぼくのそんな小さな期待も、時間とともに否定された。

天をも覆わんとするような巨大な壁、「絶対境界」と呼ばれる二勢力の亀裂の象徴が、威圧的にぼくを見下ろしていた。

壁、というよりもむしろ要塞と呼ぶべきかもしれない。

重厚な灰色の壁には窓まであり、壁面には監視カメラのようなものが無数に取り付けられている。

中に人の気配もすることから、ただの一枚壁ではなく、魔法勢力に対する巨大な防衛拠点として機能していると思われる。

無計画に近づいていくと、下方に何重にも設けられたゲートが次々に開かれていった。

罠かもしれないと思いながらもあえてそれをくぐり抜ける。

壁を貫く空間はちょっとしたトンネルのように長く、壁と呼ぶにはあまりにも分厚いものだということを改めて知らされた。

結局、くぐっている間に壁ごと破壊してぼくを埋めてしまおうなどといった作戦は用意されていなかった。

下手に抵抗するよりはとっとと出て行かせた方が被害が少ないと考えたのだろうか。

……まあ、そんなのどうでもいいや。

開いたんだから通ればいい。


トンネルを抜け、再び外の光に目を慣らしたぼくが最初に目にしたのは、背中に翼の生えたたくさんの人間だった。

その1対の翼は朝日を浴びて真白く輝き、彼らが羽ばたく度に羽毛特有の心地よい音を立てていた。

……翼って、こんなにきれいなものだったんだな。

自分のそれの醜さを感じながら、次の1歩を踏み出そうとする。

その瞬間、ぼくの足元に1筋の光の弾が撃ち込まれた。

大きな爆発などは起こらず、被弾した地面の一部が完全に「消滅」する。

「単翼の悪魔よ!そこで止まりなさい!」

一際大きく美しい翼を持つ青年が、指先をこちらに向けて声を張り上げる。

驚いて思わず足を引っ込める。

青年は上空から警戒しつつぼくを見下ろしている。

「……まず問おう。貴方の目的は何だ?

無差別に人々を攻撃し虐殺する、その理由は何だ?」

理由も何も……。

「ぼくの目的は向こうの連中への復讐だ。

ぼくらを虐げ続けたやつらへの反逆……こんな酷い歴史に終止符を打つことこそが、このぼくの目的だ」

彼らにとっては聞くまでもないことのはずなのに……。

「やはりそうか……。

悪魔よ、我々にもその気持ちは十分理解できるつもりだが……しかし、我々は貴方の行動には賛同できない」

「…………え?」

「我々に、彼らと戦う意思など無いのだよ」

「なっ……どういうことだよ?

君らは憎くないのかい?

あんな自己中心の文明主義者どもが……。

……少なくとも、ぼくはごめんだよ。

連中の下に敷かれて、誇りも無く縮こまって生き続けるのは」

流れるように嘘を吐きながら、背中に冷たい汗が伝うのを感じる。

計画が、明らかに、狂い始めている。

「彼らを恨む気持ちはよくわかる。

貴方も壁の向こうで、何か恐ろしい目に遭ったのかもしれない……。

だが1つ、聖典の言葉を思い出してほしい。

『いかなる者にも友愛を、そして全ての命に抱擁を』……彼らとて人間だ。

全く無関係な者までいたずらに殺すべきではないだろう」

「そんな……そんな理想論吐けるのは、君らがあいつらに何もされてないからだろ!

ぼくらがどう思おうと、あいつらはぼくらを人間だと思っちゃくれない……そんな連中を許せだなんて、馬鹿げてるよ!」

「ああ、理想論だというのはわかっている。

だが……この程度のことが慰めになるとは思えないが……私を含め、我々もまた彼らに大切な人を傷つけられている。

貴方のように彼らを憎む者も数知れないし、それは当然のことだ……。

しかし、本当にこのままで良いのだろうか?

このまま、彼らを憎んだままでは事態は好転しない。

憎しみは憎しみしか生まないからだ。

それはあまりにも悲しい……。

だから、たとえ理想論であっても、我々は彼らとの調和を目指したいのだよ」

下らない理想を嘯くほら吹きとは違う、揺るがぬ決意とそれに伴う凄みとを、彼の言葉は含蓄していた。

「…………」

「どうだろう、ここは私に免じて、殺戮をやめてはくれないだろうか?」

言葉が出なくなる。

高き理想を自ら体現せんとするような、憎しみを超越した友愛の心を持つ人間が、こんなにたくさんいるなんて……。

「それこそ……反抗を捨てて言いなりになったら、それこそ何も変わりゃしないだろ?

ぼくらはいつまでも苦しいまま、いつまでも惨めなままだ。

ぼくはそんなの嫌だ。

そんな腑抜けた甘い考え、ぼくは受け入れないよ……。

人間を殺すなって言うのなら、家畜たちとおんなじように、ぼくがあいつら全員喰い尽くしてやるんだ!」

戸惑いを抑えきれぬまま、過激な言葉も交えつつ、1人でも多くの憎悪を煽ろうと惨めに抵抗する。

……でも、ぼくの言葉に耳を貸す者は誰一人としていなかった。

「そうか……なら仕方ない。

……もちろん貴方とも戦いたくないんだ。

その気持ちは痛いほどわかるから……。

……しかし、このまま解放してしまうわけにはいかない。

彼らへの体裁もあるからな……。

……すまない、皆のためだと思ってくれ」

背後のゲートが一斉に閉じられる。

振り向くと、壁に設置されたいくつもの砲門が全てぼくを睨んでいる。

再び向き直り、翼のある人たちに混じって戦車や武装した歩兵がいることに気がつく。

「まさか……」

「……彼らも貴方の件については我々に協力すると言ってくれた。

我々も彼らに力の一部を提供した……。

貴方の気持ちも本当によくわかるのだ。

だから貴方に敵意を向けるのは辛い……。

決して謝って済む問題ではないが……本当にすまない」

その言葉を聞き、悲しげな彼の瞳を覗いた瞬間、ぼくは自分がこの第11界で完全に孤立したことを確信した。

視界がきゅっと狭くなる。

「あ……あ…………」

手先の震えが止まらなくなる。

……殺し始めたときから、いずれこうなることはわかっていたはずだ。

わかった上で、ぼくは自らこの道を選んできたはずだ。

でも火花のような感情は、それらの理屈を全て無視して強制的にぼくを支配する。

どうやってこの短期間で協力を取り付けたのかという疑問も、間接的とはいえ、どうして諭そうと試みる前にぼくを殺そうとしたのだという不満も跡形もなく揉み消される。

「あ……ああ…………あ……」

この広すぎる世界の中で、ぼくは今、1人ぼっち。

1人ぼっち。

その言葉だけが頭の中を駆け回り、反響し、侵食していく。

もしそれを見たくないのなら、両目を抉ってしまえばいい。

もしそれを聞きたくないのなら、耳を貫いてしまえばいい。

もしそれを嗅ぎたくないのなら、鼻をもいでしまえばいい。

でもこの苦しみからは、この耐えがたい痛みからは、どう足掻いても逃れられない。

1人ぼっち。

そのカッターナイフのような実感は、ボロボロになっていたぼくの心を切り裂いて、辛うじて残っていたぼくのカタチを、いとも容易く壊してしまった。

「うわああああああああああ!

あああっ!ああああああああああ……!」



……その後の記憶は空き地のようにぽっかりと無くなっている。

かつての暴走時には、形だけとはいえ理性が残っていたけれど、理性もろとも崩れてしまえば記憶など残るはずがない。

ただどこまでも広がる不毛の大地と、おびただしい数の死体とが、ぼくという「化け物」の全てを物語るばかりである。

みんな果敢に闘ったんだろう。

ぼくも何度も死にかけたんだろう。

でもぼくはそれを覚えていない。

……記憶に刻むこともせず、ぼくは一体何人を惨殺し、あるいは消し飛ばしたんだろう。

わからない。

もう何もわからない。

熱線で表面の溶け落ちた口の中に、誰かの肝臓を投げ入れる。

上を向いてそれを喉の奥に流し込む。

空が恨めしいぐらい晴れていた。


……と、背後からいきなり心臓を貫かれた。

右の肩越しに振り返ると、虐殺の唯一の生き残り、大きな翼の青年が、歯噛みしながらぼくを睨んでいた。

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