第26幕
その食事会の日から、ベルさんの様子が少しおかしくなった。
どこか遠くを見つめてぼーっとしている時間が増え、話しかけても気がつかなかったりするようになった。
笑っていてもその表情はどこか切なげで、ともすると涙を溢してしまいそうな不安定さがある。
何でもないですよ、と口では言っていても、それが本心でないと気づけないほどぼくは馬鹿じゃない。
明らかに何かに苦しめられている。
そしてそれをぼくに隠そうとしている。
一緒に寝てほしい、というお願いはほとんど毎日のようになっている。
かといって何か話したり……まあ、いろいろと……することは無く、ただぼくの手を固く握って、それにすがりつくように目を閉じるのだ。
ぼくはというと、いつもいつもその手を握り返すばかりで、できる範囲の家事を代わる以外に何もできていない。
……何かしてあげたいけれど、何をしていいかわからない。
自分の無力さに腹が立つ。
こんなときに……大切な人が悩んでいるってときに、ぼくはあまりにも非力だ。
もっと一緒にいなきゃいけないのに。
自分のことで手一杯になってる場合じゃないのに……。
……こんな力さえ無ければ。
絶え間なく、いつまでも他者を喰い尽くそうとする、こんな狂った力さえ無ければ。
このところ飢えは毎日のように襲ってくる。
人間の食事ではどうしても足りないため、魔物の捕食がぼくの生存……特に人間としての生存のための絶対条件となる。
それなのに魔物がいない。
森中どこを探しても魔物が見当たらない。
一端の冒険者として認められたぼくには、依頼の有無に関係なく自由に森に出入りすることが認められているものの、日々の探索の成果は決して芳しくない。
森を歩き回る労力の分さえ獲れなかったことも1度や2度ではない。
これまでの貯蓄は7日前に底をついた。
少しずつ、でも確実に、限界が近づいてきている。
魔物が減るのに比例して街に並ぶ食材も日に日に寂しくなり、値段ばかりがつり上がっていく。
原因はもちろんぼくだ。
止まることを知らない飢餓に任せて、森のあらゆる食糧を際限なく貪り続けた結果がこれだ。
魔王が……ミューデが言っていた通りだ。
彼女の言う通り、ぼくらはきっと、「滅ぼす者」ってやつなんだろう。
目の前の木の肌に指をかけ、そのごつごつした皮を引き剥がす。
口に放り込んで噛み締める。
乾燥していて何の味もしない。
大して栄養も無く、激しい空腹は微塵も満たされない。
でも食べなきゃいけない。
皮を剥がれて露わになった白っぽい部分にかじりつく。
いくら喰おうと終わりはしないと、わかっていながらかじりつく。
……ふと気づけば、鬱蒼と木々が茂っていたはずの森の一角は、一面が開けた荒れ地になっていた。
これだけ食べれば、おそらく明日の朝まではどうにかもつだろう。
「……早く帰んなきゃ……」
彼女を待たせているわけにはいかない。
その場で力なく立ち上がり、ふらふらと街に向かって歩き出す。
真っ直ぐ歩いているはずなのに、ぐるぐると絶えず視界が回っている。
吐き戻したくなるような不快感の中で、不意にぼくの思考が1つの仮説を導き出す。
(……ぼくはまるで、この世界の癌細胞じゃないか……)
割れるような頭痛をよそに、その考えだけは抵抗なく自分自身に受け入れられていく。
狂ったように増殖を繰り返し、周囲のものを手当たり次第に喰い散らかして、じりじりと根元まで危害を加える癌細胞。
いつかそいつがぼくの身体をめちゃくちゃに壊したように、この世界は今、ぼくというイレギュラーに生態系をかき乱されて、苦痛の叫びを上げているんだろうか。
そんなとりとめのない、気味の悪いことを考えて、髪をぐしゃぐしゃに掻きながら、酔っ払いのような足取りで歩き続ける。
何度も叩いた扉の前で、深呼吸して空を見上げる。
太陽は遠く沈みかけ、目を見張るようなグラデーションを巨大なカンバスに映している。
……今日はなんだか空が高い。
気を引き締めて扉を開く。
「ただいま戻りましたー……」
最近では珍しく、キッチンの方から食欲をそそる匂いが漂っている。
ちらと目をやると、廊下の隅の方に少し埃が溜まっていた。
……明日、出かける前にでも軽く掃除しなきゃな。
腰を落ち着ける前にキッチンに立ち寄る。
そこに立つエプロン姿が妙に懐かしい。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、梶原さん。
晩ごはん、今日は私が準備しますから、座って待っててくださいね」
「……なんか、今日のはすごい豪華ですね」
何気ない一言に彼女がびくっと反応する。
「こっ、これは、その……そう、市場に、良い食材が入っていたので……」
「そうですか……楽しみです」
……何か変なことでも言ったかな?
考えてはみたものの特に思い当たることは無く、ぼくはもやもやしたままリビングに向かって腰を下ろした。
結局、違和感の原因はわからなかったけど、食事そのものはいつも通り楽しかった。
やっぱり誰かとする食事はいい。
自分は1人じゃないと感じて安心できる。
誰もが生きて、何かを食べているんだという当たり前のことを、誰かとの食事で再確認できる。
だからどうしたと言われてしまえばそれまでだけど、ぼくにとってはその事実にこそ何より意味があるんだ。
……逆を言うと、それぐらいしか心の拠り所が無いのかもしれない。
ガウンのような寝間着に身を包み、ソファーの上で目を閉じたままそんな思索にふけっていると、だらりと垂らした左の袖をくいくいと軽く引っ張られた。
振り返るとばつが悪そうに目を逸らされる。
「…………」
何も言わずとも言いたいことは大体わかる。
重い腰を上げ、すでに歩き出している小さな背中に付いていく。
明かりを消し、彼女に続いて同じベッドの中に入る。
……これにだけはどうしても慣れない。
そりゃあ、好きな相手との同衾に慣れろって言う方が無理があるんだろうけど、その気が無い人に対して本能的に下心を抱いてしまうことへの背徳感があまりにも大きい。
否応なしに、苦しいほどに高鳴ってしまう心臓を押さえ込みながら、布団の中で左手を差し出す。
すぐさま細い指が、何かを探るようにぎゅっと組まれる。
いつものように強く握り返す。
柔らかくて、少し冷たい。
…………駄目だ。
これは危ないかもしれない。
耐えられる自信がない。
……空腹が、抑えきれない。
昼間、今日の獲物を諦めて木を喰う方針にシフトするのが遅すぎた。
夕飯が豪華だった分を含めてもやはり足りていない。
これで明日までもつかどうか……。
……1人で置いていくのは気が引けるけど、背に腹はかえられない。
隣の少女の姿を極力見ないようにしつつ、ベッドから静かに足を下ろす。
繋いだ手を離そうと少しずつ力を緩める。
……離れない。
ぼくの方はもう全然力を入れていないのに、指がしっかりと組まれていてほどけない。
軽く引っ張っても離れず、それどころかさらに強く握られる。
思わず後ろを振り返る。
「……起きてるんですか?」
やや長い沈黙が流れる。
「…………どこに、行くつもりですか?」
「ぼくは……その、壁の外の見回りに……。
いや、空腹が酷いので何か狩りに行ってきます」
下手に嘘をつくもんじゃない。
「……何か疑ってるんですか?」
「そんな、疑うだなんて……。
そんなわけないでしょう?」
「ごっ、ごめんなさい…………。
じゃあ、手、離してもらっても……?」
返事は無い。
手を強く握ったまま、彼女が微かに衣擦れの音を立てて起き上がる。
目も合わせないまま、どこかに向かってぼそっと呟く。
「…………キス……」
「……え?」
「キス……してください」
「……いい、ですけど……」
ベッドの上に座り直し、空いている右手をその顎に添え、引き寄せて唇を重ねる。
「ん……」
やっぱり、すごく……。
……と、彼女が空いている左手をぼくの頭の後ろに回し、ぐっと力を込めつつ口の中に温かいものを流し込んできた。
びっくりして目を見開き、反射的に顔を引き離す。
「べっ、ベルさん!?
……し、舌……まで……」
「……嫌、ですか?」
答えを待たずに再び唇を重ね、また舌を入れられる。
わけもわからずに自分も舌を出して、なんとかそれに絡ませようとする。
上手くできていないと自覚しながらも、だんだんと頭に血が上ってくる。
意識がぼーっとしてきて、このままキスを続けること以外はどうでもよく思えてくる。
つなぎ目はちゅるちゅると際どい音を立て、息継ぎのたびにぬるい吐息が混ざり合う。
……こんなに気持ちいいことが、世の中にあったなんて……。
脳みそまで溶けてしまいそうになったころ、ようやく彼女は顔を離した。
どちらのものとも知れない唾液が糸のように垂れ落ちる。
まだ若干意識が朦朧としている。
「梶原さん、大好き……ですからね」
ぼくもですよ、と素直に応えようとしたその瞬間、彼女を含めたぼくの周りの景色は、眩いばかりの白に染まった。
目を閉じても眩しさは変わらず、焼けるような目の痛みから逃れられないまま、ぼくは意識を失ってしまった。
目覚めると、ぼくは殺風景な部屋の真ん中、みすぼらしいほど質素な木の椅子に腰掛けていた。
目に入るのは真っ白な天井と壁に、コンクリートのような硬い床。
そして向かい合うように置かれたもう1つの椅子……。
「……お久しぶりです。梶原 聡さん」
1度聞いただけでは、自分の名前以外の部分が全く聞き取れなかった。
少し考えて、その言葉が自分の本来使っていた言葉、日本語であることに気がついた。
美しく整った顔立ちに映える、微かに輝く金色の長髪。
ぼくの初恋の人が、そこに佇んでいた。
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