第27幕

「私のこと、覚えていて下さったんですね」

「もちろんですよ」

早死にしたぼくに次のチャンスを与えてくれたその人を、忘れるはずが無いだろう。

……それにしても、ずいぶんと久しぶりの再会だ。

ずっと調査を続けていたのだとしたら、申し訳ないほどの労力である。

「で……何かわかったんですか?

ぼくの力のこと」

そう言うと彼女はちょっと考え、何かを言おうと口を開いて、すぐに俯いてその潤いのある下唇を噛んだ。

……この反応は何を意味するのだろう。

手がかりが見つからなかったのか、それとも何か言いにくいような……言いたくないようなことなのか。

「……ごめんなさい。

今の私からは何も……」

「そうですか……」

そんな言い方をされたらぼくにはとても追及できない。

少なくとも、調査報告のために呼びつけたのではないようだ。

……でも、だったら何のために?

「……あの……本当に申し訳ないんですけど、用件があるならなるべく早く伝えてもらえませんか?

待たせてる人がいるんで……」

気を悪くしてほしくはないけど、1人で置いてきてしまった彼女のことを思うと胸が痛む。

「……いいえ、その心配は必要ありません」

「……え?」

「その人物は今、あなたの目の前にいるからです」

「…………!?」

「ベル・グレイス・フィリアは、私が、第6界での仮の肉体としてずっと宿っていた人間なんです」

「……ち、ちょっと待ってください!?

…………え?……つまり、ぼくがずっと一緒にいたのは……」

理解が追いつかない。

ただ彼女の面影が、少しずつ、見知った少女のそれと重なっていく。

混乱した思考の中で、1つの疑問がさっとぼくの脳裏をよぎり、口を突いて飛び出す。

「……じゃあ、全部知ってたんですか?

全部知ってた上で、ぼくに命を助けさせて、ぼくと一緒にあそこで暮らして、ぼくと一緒に旅に出て……」

彼女とのさまざまな思い出が次々と頭の中に投影される。

……あの日々が全部、彼女のぼくへの同情と罪の意識が生み出した、悲しい奉仕の産物だったとしたら……?

「違います!

……そもそも、私、本来なら全く別の生命体に宿る予定だったんです。

でも、エラーか手違いか……何らかの要因で正常に手続きが行われなくて、予期しない場所に宿ってしまったんです。

そのときに、それまでの私の神府職員としての記憶も失われたみたいで……。

あの日、あなたに名前を呼ばれるまで、何も覚えていませんでした」

……あのとき体調を崩したのは、唐突なフラッシュバックが原因だったということか。

「……だとしたら、ぼくと出会ったのは?」

「それは、私には何とも……。

偶然か、言ってみれば……奇跡、とでも呼ぶべきものでしょうか」

「…………」

事情が飲み込めたような、飲み込めていないような……。

「……それが、伝えたかったことですか?

その……もし良ければ、ここから出してほしいんですけど……。

とにかく今は、何か食べないと」

まだ考えがまとまってないけど、ひとまずそっちが優先だ。

こうしている間にも狂った生命代謝は進行していて、「その瞬間」はじりじりとぼくの足元に忍び寄りつつある。

……しかし、彼女の答えは、予想だにしないものだった。

「…………それは、できません」

「えっ、どうして?

……できないって、どういうことですか?」

「……もう、できないんです。

先程、制御プログラムに改変を加えました。

私がここにいる限り、私にもこの空間を開くことはできません」

「でも、そんなことしたら…………」

悪寒のするような未来を想定し、慌てて首を振ってかき消そうとする。

「……違いますよね?

……そんなわけ、無いですよね?」

目を逸らし、表情を曇らせるばかりで、彼女は何も否定してくれない。

「…………人間という存在は、大きく肉体と魂とに分けることができます。

肉体が活動不能になると魂は分離し、我々の下に還ります。

魂が無ければ高等生物として成立できませんから、魂を管理することで、我々は間接的にその世界の人間を管理しているんです」

その口調は怖いくらいよそよそしい。

「……一方で我々や、あなたのようなそれに準ずる存在は、肉体と魂、そしてエネルギーの3つの要素が一体となって成立しています。

それらは強く結びついていて、決して切り離すことができません。

この場合のエネルギーというものは、一般的な科学では証明できないかなり抽象的な概念で、そのままの状態で完全に保存したり、人間にも知られた『エネルギー』に変換して利用したりできます。

……そして神府職員には、原則として半永久的なエネルギーが与えられていて……私もまた、その例外ではありません」

「……そんな…………」

彼女は短く深呼吸し、顔を上げてぼくに目を合わせた。

「……私があなたをお呼びしたのは、他でもない、あなたに私を取り込ませるためです」



……恐ろしく長い沈黙。

彼女の眼差しは、その言葉に少しの偽りも無いことを物語っている。

それでも、なんとかしてその確信を揉み消そうとする身勝手な自分がいる。

「こんなことしなくたって……他に何か、何か方法は無いんですか?」

「わかりません……。

ただ唯一わかるのは、このままでは状況が悪くなる一方だということです。

そのことはあなたが一番よく知っているはずです」

「……でも、だったらどうしてわからないんですか?

ぼくはこんなの望んじゃいないって」

「…………!」

「……確かに、ぼくの毎日はいずれ……多分近いうちに……破綻したでしょう。

今まで以上に苦労したでしょうし、もしかしたらまた他人を傷つけたかもしれない。

それはぼくにだってわかっています」

いつまでも同じ暮らしはしていられないことなんて、とうの昔に気づいている。

「……でもそんなの、ぼくにはどうだっていいんですよ。

……あなたさえいてくれれば」

「梶原さん……」

その面影はいつの間にかベルさんのものと完全に重なり、見分けがつかなくなっている。

「苦しい思いをして、そのまんま死んで、もう何もかもどうでもいいやって思っていたぼくに、あなたが2度目の命をくれたんです。

あなたがぼくに、生きる楽しさを……生きていればいいこともたくさんあるんだってことを、教えてくれたんです。

だからぼくは、ぼくや周りがどうなろうと、あなたさえ護れればそれでいいんですよ」

自己中?幼稚?短絡的?

好きなだけ罵るがいいさ。

ぼくは彼女を護れればいいんだ……ただそれだけなんだ。

「なのに…………」

……なのにもう、手遅れなんて。



さらに長い沈黙。

急に頭の中が真っ白になり、その空白に受け入れがたい現実がじわりじわりと入り込んでくる。

「……うわああぁあ……ああああぁ……」

顔を伏せ、言葉にならない声を発しながら、彼女の両肩を掴んで乱暴に揺さぶる。

あらゆる感情が嵐のように渦巻き、ほとんど制御を失って目からは涙が溢れ出している。

腕を退けられ、優しく、そっと抱きすくめられる。

全身から力が抜け、同時に感情が爆発して、彼女の腕の中で子どものように泣き叫ぶ。

……でも、泣いているだけでもエネルギーは消耗していく。

飢餓が本格的にぼくの理性を攻撃し始め、予兆に背筋がぶるっと震える。

「……嫌だ……そんなの、嫌だ……」

分体を左肩に噛みつかせ、残ったエネルギーを一気に吸い尽くす。

何の足しにもならない。

彼女の身体から離れ、部屋の隅まで後退る。

彼女に背を向けて壁を全力で殴りつける。

ビクともしない。

何度も何度も殴りつける。

皮膚が剥がれて色の濃い血が滴り落ちる。

右手を硬質化させて壁を引っ掻こうとする。

何の効果も無い。

再び飢餓が襲いかかる。

身体の震えが止まらなくなってその場にへたり込む。

「…………そろそろ、限界みたいですね」

振り返るとすぐそこに彼女が立っている。

……嫌だ……嫌だ…………。

「……この格好では、食べにくいでしょうからね……」

彼女が上着のボタンに手をかけ、1つずつ、ゆっくりと外していく。

「……私がこうしようと決断した理由には、私自身の思いもあるんです」

その手つきにいつかのような迷いはない。

「私は、あなたの苦しんでいる姿をもう見たくないんです。

あなたにはずっと笑っていてほしいんです。

……たとえその隣に、私がいられなくても」

脱いだものがきれいに畳まれて、順に積み上げてられていく。

「大丈夫です。

あなたならきっとなんとかできますよ」

そのしなやかで豊かな裸体が露わになる。

「……だって、私が好きになった人なんですから」

ぼくににこっと笑いかける。

少し引きつって見えるのは、恥じらいからか恐怖からか。

「あ……あ…………」

何か話したいのに言葉がうまく出てこない。

彼女が髪留めを外す。

絹のような長い髪がばさっと広がる。


「……梶原さん、今までありがとうございました。

私、あなたに出会えて本当に良かったです」


そう言って彼女は、髪留めの先端を左の手首に突き刺した。


傷口から滲み出る、真っ赤な生き血を目にした瞬間……


……ぼくの理性と意志は、身体から切り離された。


ぼくの抵抗を無視して口が大きく開き、力に負けて顎の関節が外れる。

口の中からさらに大きな口が、その中からさらに大きな口が形成され、彼女の頭を包み込んでいく。

……嫌だ。

嫌だ、嫌だ……嫌だ…………!

「……ひっ!……あ……ひああああ……!」


……ぐちゃっ


死の間際に漏れ出た微かな悲鳴をかき消すように、ぼくの身体は彼女のか細い首に鋭い牙を突き立てた。

その熱い血液が口の中に迸る。

多くの肉食獣がそうするように、噛みついたまま首を振って歯を深く食い込ませていく。

牙をねじ込みながら乱暴に引っ張っているうちに、彼女の頭は胴体からもぎ取られた。

首の断端からは支えるものを失った頸椎が寂しげに覗いていた。

上を向き、口の中の小さな頭をぼりぼりと咀嚼する。

頭蓋が砕け、中から魚の肝のような脳漿が溢れてそのまま喉を通っていく。

頭を飲み込んだぼくの身体が、今度はまだ体温の残る彼女の身体に取り掛かる。

玉のように豊かに膨らみ、形の整った白い乳房に爪を立て、引き裂いて皮膚を削り取る。

そのまま雑に皮を剥ぎ、露わになったピンク色の肉にかぶりつく。

肋骨に当たっても構わず噛み砕き、生ぬるい肉を喉に流し込む。

……ぼくの身体は淡々と、彼女の身体を解体しては飲み込んでいった。

細くなめらかな手足は引きちぎられ、てらてらと光る内臓は掻き出され、誰のものにもならなかった狭い子宮は抉られて、ぼくの腹に収まった。

彼女を骨まで貪ると、ぼくの身体は硬い床を舐め始めた。

油絵のような血溜まりや、噛みつかれる瞬間に彼女の漏らした黄色い尿を、一滴も逃すまいといった様子で舐めとっていった。

捕食が終わり、最後に残ったのは、床に染み付いた赤黒いペイントだけだった。


最愛の人を食べる間、ぼくは何も考えていなかった。

彼女の首に噛みついた後は、自分の身体の為すがままに、我を忘れて喰っていた。

……でも1つだけ、はっきりと感じたことがあった。

彼女の身体は美味しかった。

その血も肉も、骨も脳漿も内臓も、漏れた尿まで美味しかった。

美味しかったのだ。

それこそ舌がとろけそうなほどに。

そしてその舌を噛みちぎりたくなるほどに。

ぼくの身体は、かけがえのない女性の味を、大脳皮質に深々と刻んだのだった。



ぼくが彼女を喰い尽くすと、ぼくらを囲っていた部屋は瞬く間に消え去り、ぼくは元の寝室に戻っていた。

でもそこに彼女の姿は無かった。


そのとき、ぼくの中の何かが……決して失ってはいけなかったような何かが、音を立てて崩れ去った。

「…………あはは……あは、あはは……あはははははは……あはははは……あははは……はは……は…………あはははははははははははははは…………」

何も食べずに、どれだけ長く笑っていても、ぼくが飢えに襲われることはもう2度と無かった。

そしてその日、ぼくはぼくでなくなった。

頭の中で、聴き慣れない機械音声が、しきりに何かを喚いていた。

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