第28幕
何日間か、何週間か。
自分の生き死にさえもよくわからないような状態で、とにかく長い時間が過ぎた。
だんだんと、少なくとも表面上は、正常な思考が戻ってきている。
その証拠に、頭の中でずっと鳴っていた機械音声が、なんとなくだけど聞き取れるようになった。
"We've recovered from a little serious error.
To boot the systems,please say 'start' aloud"
概ねこんなことを延々と繰り返している。
聞いていて不安になってくるような合成感のある声だったけど、その分発音は明瞭で、何度も聞くうちに英語難民のぼくにも内容が理解できた。
問題はこれにどう対処するかだ。
そのシステムとやらの正体も知らないから、次に何が待つのかまるで見当もつかない。
……まあいいや。
どうにでもなっちゃえ。
「スタート」
"Accepted the command.
Welcome, Ms.Katrina"
その言葉と同時に、空虚からタブレット端末のようなものが出現する。
物理法則に従って落ちようとするそれを慌てて受け止める。
機械音声の言ったことと目の前の超常現象から、ぼくは咄嗟に状況を理解した。
……あの人のものだ。
記憶が定かじゃないけど、確か彼女は、自身らは肉体と魂とエネルギーとが融合した存在だと言っていた。
肉体を喰い、エネルギーを取り込んだ上で、魂だけが排除されてどこかに消えていくとは思えない。
おそらく、彼女と完全に同化したぼくを、システムとかいうやつが彼女そのものだと錯覚しているのだろう。
……2度と会えやしないのに、彼女に一番近い存在になったというわけか。
そう思うと滑稽で、それ以上にやるせなくて、何だか変に笑えてくる。
そして、ここまで彼女が計算していたのかはわからないけど、どうやら今のぼくは神様の1人という扱いらしい。
……馬鹿みたいな話だ。
大事なものの1つも護れないのに、何が神様だってんだ。
針のように冷たく鋭い自己嫌悪を募らせながら、手元にある画面に視線を落とす。
そこにはキーボードが表示されていた。
ただし前世で見慣れたそれとはずいぶん様子が違う。
アルファベットは馴染みのクワーティ配列ではなく、母音が手前に置かれ、子音の並びにこれといった規則性は見られない。
さらにファンクションキーやスペースキーは付いておらず、各アルファベットキー以外にあるのはエンターキーと、見知らぬ"Cancel"キーだけ。
これが神様仕様のキーボードか……。
……感心してはみたものの、キーボードを眺めているだけではもちろん何も起こらない。
ちょっとした好奇心に従ってエンターキーを叩く。
すると視界の隅に、背景に半分重なるようにいくつかのウィンドウが出現した。
首を回すとウィンドウも一緒に付いてきて視界の中で一定の位置を保ち、また手を伸ばしても触れられない。
試したことはないけど、VRとかはこんな感じなんだろうか。
1つのウィンドウに注目すると、そこがやや強調して表示される。
なるほどな。
視界全体が画面の役割をして、視線がカーソル代わりになるのか。
でもってこのエンターキーでクリック、と。
慣れれば結構使いやすいツールなのかもしれない。
……表示はほとんど読めないけど。
今更だけど、英語、ちゃんと勉強しとけば良かったな……。
どうにか第6界の言語か、できれば日本語に変換できないだろうか。
カーソルを検索バーのようなところに持っていってクリック。
1文字ずつ探しながら"changethelanguage"と入力する。
いくつかの候補がその下にずらっと並び、その1番上に"change the base language of your system"とあるのを見つける。
開くと"first"から"fifteenth"までの候補がいくつかを飛ばして現れる。
それぞれの世界の通し番号かな?
前世で生きてたのは確か……第5界、だったはず。
"fifth"を選択する。
Englishに中文に……あったあった、日本語。
早速選択して実行、っと。
瞬く間に画面内のテキストが全て日本語に変換される。
同時にキーボードも日本語仕様の50音入力に変わる。
神様が管理対象の領域の言語に適応するためのものだろうか、とにかく誠にありがたい機能である。
初めの画面に戻す。
検索バー以外のウィンドウに「専用区画」の文字を見つける。
専用区画……?
つまりは彼女の部屋……なのだろうか。
カーソルを合わせると、「入室」「保安」「物品管理」「区画管理」などのコマンドが展開される。
……やはりそうらしい。
「入室」に視線を向ける。
向けたまま、ふと思いを巡らせる。
……どうしよう。
もうどこにもいないあの人の、かつての本来の居場所。
常識的に考えれば入っていいはずがない。
…………。
……はあ。
ほんの少しでも彼女の痕跡を探したいという欲求と、拭いきれない卑しい探究心に負け、ぼくは「実行」のキーに指を重ねた。
すると突然、何もない空間に大きな裂け目が現れた。
人1人が通れるぐらいにまで広がる。
覗いてみると、どうやらこの主なき家とは異なる場所へと繋がっているらしかった。
足を上げ、ほんの少し迷った後、ぼくは狭い裂け目をくぐった。
その部屋からは、微かに彼女の匂いがした。
寒色で統一されたインテリア。
室内はきちんと整理され、机の上に飾られたスノードームと、デフォルメされた黒い猫のぬいぐるみの他に、趣味的なものは見当たらない。
当然といえば当然だけど、誰もいない部屋はしんと静まり返っている。
机の後ろを起点として部屋の2辺を本棚が占領し、参考書を中心に大量の本が所狭しと詰め込まれている。
……ただ唯一、"sixth world"と書かれた一角を除いて。
机にうっすらと積もった埃を払い、彼女の使っていたであろう、青い椅子に腰掛ける。
何の前触れもなく記憶がぶり返し、急に呼吸が苦しくなって、身体の芯からどっと何かが込み上げてくる。
それを危うく飲み込み、力の入らない右手で大きな引き出しを開ける。
入っていたのは数々の文房具と、USBメモリのようなもの。
……その中に、ぼくは、見つけてしまった。
"Records of the investigation about Satoru Kazihara"
……梶原 聡についての調査記録。
彼女が死に際しても決して口に出そうとしなかった、ぼくの能力の秘密。
この「記録」の存在を知った今、部屋になんか入らなければ、机になんか触れなければ良かったという後悔はもう意味をなさない。
手の中の真実を確かめるかどうか、自分1人で決めなければならない。
……彼女としては、知ってほしくなかったんだろう。
きっとそれほどまでに酷い事実が待っているんだろう。
できればぼくも知りたくない。
このままこのUSBを片付けて、何も見なかったことにしてしまいたい。
……でもここまで来たなら、見なければいけないような気がする。
ここまで多くの罪を重ねて、ここで逃げてはいけない気がする。
……だから、ぼくは…………。
タブレット側の穴を見つけ、USBを接続する。
出現したウィンドウをクリックすると、眼前に巨大なパネルが投影された。
部屋を埋め尽くすようなそれの隅々にまで、びっしりと文字や図が書き込まれている。
もちろん全部英語で。
……仕方ない。
1つずつ読んでいくしかないか。
そう決意した瞬間、例の機械音声が再度ぼくに話しかけた。
「設定された基本言語と異なる文面が表示されています。
無料の自動翻訳ソフトを利用し、周囲の言語を基本言語に統一しますか?」
自動翻訳ソフト……。
そんな便利なものだってあったのに、あの人は…………。
……駄目だな。
感傷的になりすぎてる。
手の甲で両目を拭き、「はい」を選択する。
敷き詰められた文字が一気に日本語に変換されていく。
……よし、やるか。
ふっと大きく息を吐いて、ぼくは齧り付くように、自分の「記録」を読み始めた。
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