第23幕
「313号室」
そう書かれた扉の前で、ぼくはしばらくの間立ち尽くしていた。
何を話そうか。
どう謝ろうか。
何の名案も浮かばないまま、時間だけはやけに速く過ぎていった。
意を決してぼくはその扉を叩いた。
「ベルさん……?ぼくです、梶原です」
「……どうぞ。鍵なら開いていますから」
「失礼します……」
音を立てないようにレバーを捻る。
扉を押すと、そこには彼女が佇んでいた。
ベールのようになめらかな服を纏い、試すような眼差しでじっとこちらを見つめていた。
「お呼び立てしてすみません。
ひとまず奥へ……」
「は、はい……」
すれ違うと、その白銀の髪からはほんのりと石鹸の匂いがした。
彼女は部屋の鍵を閉めて再びぼくと向かい合った。
気まずい沈黙が延々と流れ、その姿をずっと見ていることにぼくが耐えられなくなってきたころ、彼女が重い口を開いた。
「カジハラさん……。
私に隠し事、してたんですね……」
……一体何年ぶりだろうか。
こんな冷や汗をかくなんて。
「ごっ、ごめんなさい……。
そんな嘘なんてつくつもりは……。
いや、そうじゃない。
ぼくはずっと逃げてたんです。
ぼくの素性を知ったらみんなはどう思うだろうって……嫌われたら、捨てられたらどうしようって。
ぼくは怖くて怖くて、自分の都合でひた隠しにしてたんです。
ぼくがみんなを傷つけるかもしれないってわかってるのに……。
ごめんなさい……あなたにまで嘘を、ぼくはずっと……。
……んっ!?」
彼女は人差し指でぼくの唇を塞いだ。
「言ったはずです。
私は、あなたを信じています」
一言一言、言い聞かせるように言葉をかけられる。
ぼくが黙ってしまうと、彼女はそっと指を離し、その先をちょっと舐めて照れくさそうに微笑んだ。
ぼくは思わず自分の口元に触れた。
破裂しそうなほど動悸が高鳴る。
「あなたは私を守ってくれました。
私を守って、ずっとそばにいてくれました。
それでいいんです。
それだけでいいんです。
秘密なんてあなたのほんのひとカケラに過ぎません。
ただ……」
彼女の表情に暗い影がさす。
「……ただ、もう少しだけ、私のことを信じてほしかったなって思うんです。
あなたが全てを打ち明けられるような人間でありたかったなって……。
私、すごく寂しいんです」
「ベルさん……」
「……ねえ、カジハラさん」
「……はい?」
「私のこと、まだ好きですか?」
「はい」
「……それで、もし良ければ……。
私も、それに値する人間になれるように頑張りますから……私のこと、少しでも、信じてくれませんか?」
「はい。もちろんです」
「本当に?」
「はい。もう隠し事なんてしませんから」
「そうですか…………。
ありがとう、ございます……」
いまいち受け入れられていないような、複雑そうな顔をしている。
……無理もないわな。
「……それはそうと……実はここからが本題なんですけど、あなたに1つお願いがあってですね」
「何でしょう?」
「今夜、私と一緒に寝てくれませんか?」
……は?
「え……べっ……べっ、ベルさん!?
そっ、そそっ、それってもしかして……ぼくと、その、エッ……」
「ち、違います!
カジハラさん、私をそんな……そんないやらしい目で、ずっと見てたんですかっ!?」
若干緩んでいた胸元をきゅっと締め直し、たじろぎながら睨んでくる。
いや、それは誤解だって。
誤解じゃない面も確かにあるけど、少なくともこの反応はぼくだけのせいじゃないって。
「そんな……エッ……エッチ……だなんて、そんなつもりは……。
私はただ、あなたと2人っきりでお話ししたこと、あまり無かったなって……。
私が信じきれてもらえてなかったのは、そのせいでもあるのかなって……。
……それと、単純になんだかちょっと寂しいから……」
目を逸らした彼女の、耳の先までが赤く染まっていく。
「……だからたくさん話して、あなたのことを知って……その、もっと仲良くなりたいなって思ったんです。
だから今夜は、一緒にいてほしいんです」
「そ、そうですか……」
……なんだろう。
すごく自分が恥ずかしい。
「……どうですか?
もちろん、あなたが良ければですけど……」
「ぼくは構わないですよ……?」
むしろ願ってもない幸運である。
「じゃあ、とりあえず風呂……入ってきますんで」
「……おっ、お風呂!?」
……ん?
そこは反応するところか?
もしかしてこの人、意外とそういうの……。
……いや、考えたら負けだな。
とにかくきれいに落とさなきゃ。
全身にうっすらとこびりついた、小さき魔王の生き血の臭いを。
「カジハラさん、待ちましたよ?
……ほら、入ってください」
先に床に就いていた彼女が、右手で布団を引っ張り上げて場所を空ける。
「……本当にいいんですか?」
ぼくの理性だっていつまでも働くわけではないんだが。
現に今もあんな衝動やこんな衝動がぼくの思考を圧迫している。
これを完璧に抑制していられる自信は無い。
「……信じて、ますからね?」
……余計に何かをそそられるようなことを言わないでほしい。
「ほら……早くしないと湯冷めしちゃいますよ?」
「……じ、じゃあ……失礼します……」
ベッドの縁に腰掛け、片足ずつ彼女の空けた空間に入っていく。
羽毛はすでに彼女の体温を反射し、ほどよいぬくもりを放っていた。
「えへへ……あったかいですか?」
ぼくの肩にまで布団をかけてぽんぽんと叩いてくる。
「はい、すごく……」
布団の温かさ以上に全身が火照って、むしろ暑いぐらいだ。
「初めてですね……。
こんなに、近づくの……」
1人用のベッドを無理に共有しているので、確かに、かなり近い。
ところどころ触れ合ってさえいる。
吐息が混ざり合うような感覚がして気持ちが落ち着かない。
その一方で、長旅で疲れたのだろうか、彼女の瞼はもう重く垂れている。
「……ねえ、右足、触ってもいいですか?」
「は、はい……」
布団の奥に潜り込んで、ぼくの足の切断されていた部分を、優しく確かめるように揉む。
呼吸とゴソゴソという衣擦れの音だけが耳に届く。
「すごい……本当にきれいに生えてる……。
これ、もう痛くないんですか?」
「ええ、まあ」
「……それなら、よかったです」
彼女が屈託なくにこっと笑う。
その笑顔に吸い込まれそうな気がして、天井のほうにさっと目を逸らす。
その木目に焦点を当てたまま、何を話そうかとぼんやり考える。
……全く面白いアイデアが浮かばない。
自分のコミュニケーション能力が恨めしくなってくる。
それでも、もしかしたらどうにかなるんじゃないかと思って、何の計画も無く彼女に話しかける決意を固める。
「……あの、ベルさん……?」
それに応える声はなかった。
再び向かい合うと、彼女はすでに深い夢の奥に沈んでいた。
「……たくさん話すって、言ったじゃないですか……」
そう呟いたぼくの口元は、気づけば自然と緩んでいた。
小さな少女が健やかな寝息をたてている。
何を警戒することも無く、穏やかに目を閉じて眠っている。
このまま全てが止まって、ずっとこの空間に閉じ込められていたいような気がしてくる。
……ぼくは幸せなんだろうか。
確かにいま、この瞬間は、これ以上無いほど「幸せ」だ。
でもこの幸せがいつまでも続きはしないことをぼくは知っている。
それには何の根拠も無いし、その確証はどこにも無い。
でもいつか、ぼくのこの儚い幸せは終わりを迎えるんだと、誰かが、何かが絶え間なくぼくに囁いている。
それが脳裏をこだまして、不意に耐えがたい寂しさに襲われる。
同時に恐ろしい罪悪感にかられる。
自分は本当にここにいていいのか?
自分がこんなに「幸せ」を享受していていいのか?
ぼくは化け物だ。
人間だって殺した。
もっと幸せになれたはずの人たちを、だ。
それなのにぼくは、魔王を倒すのに力を使えたからといい気になって、呑気に大好きな人と眠ろうとしている……。
負の感情が加速度的に増幅して、いても立ってもいられなくなる。
ぼくはベッドを抜け出して、自分の部屋の隅にうずくまり、魔物の肉を皮も剥がずに貪り喰った。
これしきのことが何かの償いになるとは思えなかったけど、今すぐにでもこうしなければならない気がした。
1時間ほどして戻ると、彼女はさっきと変わらずに、無防備に寝息をたてていた。
ランプに照らされたその身体に、ぼくは深々と布団をかけた。
心なしか、彼女が微笑んだような気がした。
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