第22幕

張り詰めていた空気が落ち着きを失って震えだし、寒気が虫のように背中を這い回るのを感じた。

身体の節々を軋ませながら、魔王は大きく息を吸い込んだ。

「ギャアアアアアアァァ…………」

その耳をつんざく咆哮は、迫る死に慄く者の断末魔の叫びのようであり、また新たな誕生の喜びに打ち震える者の力強い産声のようでもあった。

口元に光球が出現し、みんなの逃げる方へと細く眩しい熱線が放たれる。

突然の出来事にぼくの反応が遅れる。

熱線は瞬く間に伸びていき……護衛の分体によって受け止められた。

硬質化していても魔王の熱線を無効化するのには遠く及ばないらしく、数秒の間みんなを熱線から護り通した後、分体はじわじわと朽ちていった。

わずかに通り抜けた熱線を勇者が剣で弾く。

重い門を蹴破って、みんなは魔王の射線上から離脱することに成功した。

……分体…………。

……まあ、これこそ本望だな。

あとは勇者に任せよう。

振り返ると、魔王はいつの間にかぼくの目の前にまで近づいていた。

顔面を掴まれ、凄まじい力で押し倒される。

ぼくの頭が床にめり込む。

そのまま繰り返し、ガツン、ガツンと床に叩きつけられる。

後頭部が割れてその中身が漏れ出ていく。

魔王が今度はぼくの鎖骨のくぼみに指を突き立て、貫いて皮膚をぐっと掴む。

無理矢理引っ張ってぼくの胸の皮をべりべりと剥いでいく。

肋骨の内側に腕を突っ込んで心臓を握り潰す。

返り血を浴びて汚れた顔で、魔王はぼくの身体に喰らいついた。

飛び散った肉片から身体を再構築する。

獲物を失った魔王の目が再びぼくを捉える。

「フシュー……フシュー……」

牙と殺意を剥き出しにして貫くようにこちらを睨む。

飛びかかってきた魔王を受け流し、肘で首の後ろを打つ。

足を払って身体を倒し、そのまま首を踏みつける。

「グルルルル……グァッ、グアアッ……!」

魔王は言葉さえも失い、ただ吠えたてながらもがいている。

意思の疎通など図れそうもない。

これが制御を失った、ぼくの「同類」の1人の姿……。

どこからかやるせない、虚しい感情が湧き起こってくる。

それをぶつけるかのように、一気に体重をかけて踏み潰す。

魔王は泡を吹いた直後、両足を振り上げてぼくの身体をがしっと挟んだ。

足を倒してぼくを逆さまに床に突き刺し、反動で魔王が起き上がる。

体勢を戻そうとするぼくの首に右手をかけ、そのまま壁に押しつける。

すぐさま絞められるかと思いきや、魔王はぼくを拘束したままその手に力を入れてこなかった。


…………気のせいだろうか。

魔王の紅い瞳の縁に、ほんの少し、輝くものが見えたような気がした。

彼女にもう理性なんて無いはずだ。

彼女の脳内にはもう、ぼくを殺して喰うという以外の目的も意志も無いはずだ。

それなのに……そのはずなのに、ぼくの混乱を無視して魔王の頬に一筋の軌跡が描かれていく。

「…………ヤ、ダ……イヤ……ダ……」

かすれた声で、途切れ途切れに言葉を絞り出している。

「まだ……まだ正気が残ってるのか……?」

しかし、ぼくの言葉が彼女に届くことは無かった。

ぼくに聞こえるほど大きな鼓動と共に、その瞳が一層紅く、そして暗く輝く。

その腕の血管が枝のように浮き出てくる。

ギリギリのタイミングで首を硬質化させる。

両側から莫大な力を加えられた魔王の指の骨が砕ける。

躊躇いながらも彼女の下腹部を蹴る。

ぐらついた彼女の鳩尾に、右腕で思い切り一撃を叩き込む。

ぼくの腕はその胸を貫通して……そのまま引き抜けなくなった。

彼女が身体をぼくの腕が刺さったまま再生しているせいで、ぼくの動きが止められてしまったのだ。

最後の分体を纏わせている都合上、腕を切断するわけにもいかない。

魔王が口を開き、動けないぼくに熱線を放とうとする。

左手でその頭を掴んで光球を自分と違う方向に捻じ向ける。

耳鳴りのような音と共に熱線が放たれる。

それをぼくに向けようとする魔王と、それを避けようとするぼくとのせめぎ合いで、熱線がでたらめな方向を薙ぎ払う。

あちこちから爆風が届き、その熱でじりじりと皮膚が焼けていく。

熱線を撒き散らしながら魔王が開いた両腕でぼくを攻撃する。

引っ掻いて腹を裂き、肋骨を剥ぎ取り、臓器を掻き出して……。

両腕が塞がっているぼくは、抵抗することもできずに熱線が止むのを待ってただ耐え続ける。

「もう少し……もう少しで……!」

ぼくの身体がぐちゃぐちゃに壊され、生命の維持さえ難しくなってきたころ、魔王の熱線は少しずつ細くなり、そして静かに消えていった。

同時に暴れていた両腕はぐったりと垂れ、身体に空いた穴も力なく緩まった。

右腕を引き抜くと、彼女は身体の修復もせずにぼくに寄りかかってきた。

その身体はぼくの狭い胸にすっぽりと収まってしまった。

あの魔王がこんなにも小さかったのかと、ぼくは少しだけ驚いた。



ぼくは彼女の身体を瓦礫の山の頂上にそっと横たえた。

飢えた身体が自らをも蝕んでいるらしく、彼女はみるみる痩せていった。

目の紅い輝きも少しずつ弱まり、ついには点滅し始めていた。

「ガ……ア…………ガ……」

助けを求めるようにぼくの方に右手を伸ばす。

いたたまれない思いをしても、ぼくにはどうすることもできない。

彼女の指は小枝のように細くなり、塵となって崩れてしまった。

彼女の身体はどんどん崩れていった。

彼女は散りゆく花のように儚く消えていき、最後には紫色の小さな結晶だけが残って、それも砕けて無くなった。

ぼくは黙ったまま、身体に残った彼女の爪痕を修復した。

その瞬間、ぼくの鼓動は跳ね上がり、全身の体毛が逆立って、視界が赤く染まり始めた。

暴走の予感を察知し、ぼくは異空収納の中の魔物の死骸を引きずり出して、夢中になって浴びるように食べた。

ぼくの発作が落ち着くと、辺りは再び死んだように静かになった。


……ぼくの「同類」が1人いなくなった。

多くを殺し、最期には自分を失って、苦しみながら朽ちていった。

ぼくにはそれが、自分の遠くない未来を見ているように思えてならなかった。

「…………ねえ……ぼくはこれから、どうすればいい?」

漏れ出た呟きに答える者はおらず、ぼくの言葉は誰もいない空っぽの城をこだました。

ぼくは立ち上がって踵を返した。

城を出るまでの間、ぼくは一度も後ろを振り返らなかった。



みんなは城からずっと歩いた廃墟の陰に身を寄せていた。

「カジ君か……良かった。

無事だったんだね……」

応急処置で巻かれた包帯が痛々しい。

「ああ、おかげさまでね」

「……魔王は?」

「死んだよ。ぼくが確認した……。

ぼくが次の魔王ってわけだな。

従える相手はいないけど」

「そうか……」

「2人は?」

「無事だよ。奥の方で休んでる」

「良かった。ありがとう」

「……話すつもりなのかい?

……その、君のこと」

「うん。あんな姿見られちゃったし、いつかは言わなきゃってずっと思ってたから。

……実は君にも隠してたことがあるんだ。

一緒に聞いててくれ」

そう言ってぼくは、勇者と並んで廃墟の奥へと進んだ。

そこにはフィスと……その後ろに隠れているベルさんの姿があった。

ぼくは2人から少し離れたところにゆっくりと腰掛けた。

「……まず最初に、みんなには謝んなきゃいけない。

本当にごめん。

これまでずっと、ぼくはみんなに嘘をついていたんだ」

そしてぼくは、ぼく自身のことを、何も包み隠さず……自分が何者なのかさえわからないということも、飢餓状態のことも、両親や他の人間を殺してしまったことも全部、話し始めた。

ベルさんはフィスの背中から顔も出さず、かといって逃げ出すこともなく、じっとぼくの話を聞いていた。

ぼくが話し終えた後、口を開く者は誰一人としていなかった。

気まずい雰囲気の中で、時間だけが無機質に過ぎていく。

「……本当にごめん。

みんなにどう思われるだろうって、怖くて怖くて……ずっと言い出せなかったんだ」

言い訳などできるはずもなく、ぼくにはただ謝ることしかできなかった。

「……いいのよ、そんなこと。

だってカジハラくん、何も悪いことしてないじゃないの。

そりゃあ、ヒトを殺しちゃったのは辛い思い出だろうし、罪の意識を持つのもわかるわ。

でもカジハラくんはずっと、あたしたちのために力を使おうってがんばってたのよね?

実際、あなたはこうしてあたしたちを助けてくれて、そして守ってくれた……。

あたしたちにはそれだけで十分よ」

「そうさ。

大切なのは君がどう行動するかだ。

そう言ったろ?」

2人のフォローが嬉しくて、そしてそれ以上に心が痛い。

「………………」

ベルさんは相変わらずフィスにくっついて黙り込んでいる。

ぼくは自分のついた嘘の重さが、ひしひしと自分にのしかかるのを感じた。


……息もできないような重い空気を拭えないまま、ぼくたち4人は帰路に着いた。

先頭を勇者とフィスが並んで歩き、その後ろにベルさんがついて、さらに大きく距離をとってぼくと分体が続いている。

言葉を交わすこともなく、ミューデに滅ぼされた魔族の領土を、ヒトの世界に向けて歩き続ける。

ぼくもまた、声をかけることもできずに、下を向いたままとぼとぼと歩みを進めていく。

……と、ベルさんが歩くペースを急に落として、ぼくのすぐ前にまで近づいてきた。

危うくぶつかりそうになり、慌てて顔を上げる。

彼女は振り向かずに、黙ったまま、左手だけをそっと後ろに差し出した。

…………これって……。

その手にぼくの右手を重ねる。

すると彼女は、ぼくの指にそのしなやかな指を組ませてぎゅっと握り返してきた。

そのままぐいぐいと勇者たちのすぐ後ろまで引っ張られる。

その間、彼女は一言も発しなかったし、ぼくも何も話さなかった。

ただ繋がれた右手だけが、冷たい風の中で強い温もりを放っていた。

リチネード国境のすぐ手前で、ようやく彼女はぼくの手を離した。

その手がぼくの汗で汚れてはいないかと少し心配になった。



宿屋のロビーで解散した後、彼女は背中越しにぼそりと呟いた。

目眩のするような人混みの中で、その言葉だけは不思議とはっきり聞こえた。

「カジハラさん……今夜、私の部屋に来てください」

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