第n幕

私をラニフと名付けたのは、神府の偉い爺さんらしい。

私たちは爺さんの指示で生み出された爺さんの道具で、その命令に従うことこそが私たちの存在意義なのだと、耳が痛くなるほど教え込まれた。

爺さんの目的に応じて、私たちはそれぞれに特化した教育を受けた。

前世代型の重兵たちや、先に旅立ったミューデ姉さんの受けていたのは、もっぱら戦闘訓練だった。

毎日毎日倒れるように帰ってきた姉さんの姿が、その過酷さを物語っていた。

……私たち準神生物のほとんどが戦闘要員だったから、その点で私は特殊な部類に入るのだろう。

私が教え込まれたのは、甘い言葉と淫らな技の数々だった。

訓練は、初めのうちはその時間が近づくと吐き気を催すほど嫌だった。

自分を毎晩めちゃめちゃにされるのが怖かったし、なんでこんなことをしなければ、またされなければいけないのかと、毎晩姉さんに泣きついた。

でもそれも初めのうちだけ。

慣れというのは恐ろしいもので、20日もすれば何の恐怖も痛みも感じなくなってしまっていた。

怖くて仕方がなかった男たちは、やがて軽蔑の対象になった。

日ごろどんなに威張っていても、甘ったるいセリフを耳元で囁き、「それ」を優しく握ってしまえばどんな男も無力になる。

とろんと無防備でいやらしい顔になり、私だけのものになるのだ。

お化けみたいに思っていた「それ」も、その正体はただの汚い弱点だった。

かくして、私にとっての「男」とは、簡単に弄べる面白くもないおもちゃになった。

そしてそれこそが、爺さんたちの求めた私の在り方だった。

男の弱みに付け入り、骨抜きにして無力化することが私の役目。

だから、戦闘に特化したみんなと違って、私のカラダは「そそる」フォルムに設計されているのだという。

……こんなものただ邪魔でしかないのに。

一応、姉さんたちと同じく半永久分裂は与えられているけれど、戦う必要が無いから攻撃転用はできない。

その代わり、分裂に必要なエネルギーは無尽蔵になっている。

要するにほとんど不死身なのだ。

……不死身の娼婦なんか作って一体何がしたいんだろう?

ずっと疑問に思っていた。

お偉いさんの夜のお世話をさせるため?

終わってから5秒もあれば元通りになる私の無価値な処女を、何度も何度も破るため?

それとももっとえげつないプレイをさせたいのかしら?

結局答えはどれでもなかった。

というかそもそも答えが無かった。

最初は明確な目的もなく、ただ作っておけば何かに使えるだろうという程度に思われていたらしい。

……あいつら私を何だと思って……そっか、ただの道具か。

でもある日、そんな私にもようやく仕事が割り当てられた。

第11界への配属が決まったのだ。

ターゲットは……詳しい経緯は忘れたけれど、いろいろあって制御不能になった、第5世代型実験機の宿主。

名前はサトル。

恋人の女神様を殺したショックでその精神を病んでいる。

仕事内容は言わずもがな。

虐殺の手を緩めさせ、次の1手を打つまでの時間を稼げとの仰せだ。

爺さんたちでさえ制御できないのだから、さぞかしおっかない奴なんだろうと勝手に想像していたけれど、実際に写真を見てみるとそんなことはなかった。

むしろ一見すると弱そうな感じ。

身長は私よりも低く、全体的にひょろっとした体つきで、手足がやや長い。

どこか自信無さげな表情も相まって、とても1世界の人間を滅ぼさんとする怪物であるようには思えなかった。

それでも周りの大人たちは総じて彼に怯えていた。

私の担当官も、くれぐれも殺されないように気をつけろよとしつこく言ってきた。

……何をどう気をつければいいのかまでは教えてくれなかったけど。

そんなわけで、私の中での彼へのイメージは霧のようにもやっとしていた。

その本性の知れなさが多少怖くはあった。

でも、その時点で私に選択肢が無いのはわかっていたし、ここでの生活にも辟易していたから、私は二つ返事で仕事を受けた。

顔も知らない爺さんの承認を得て、私は初めて外の世界に放たれた。



適切な場所に落とされたから、彼を見つけるのにさして苦労はしなかった。

その辺り一帯は酷い有り様だった。

鼻のもげそうな悪臭が漂い、かつて人間だったものが乱雑に転がっていた。

その惨状の隅の方で、彼は小さく膝を抱えていた。

彼の前には2つの死体があった。

金髪の可愛らしい女の子と、彼女を庇うように倒れた大きな白い翼のある青年だ。

青年は、女の子を庇った姿勢のまま心臓を貫かれたのか、苦痛に顔を歪めて死んでいた。

女の子の方は仰向けに口を開いていた。

死ぬ前に何か言い残したことがあるようにも見えた。

そんな亡骸の前に座っていながら、彼の目線はそれら自体には向けられていなかった。

彼の意識はそこには無かった。

その目は彼の前の死体ではなく、彼の記憶の中にある遠い昔の事件を見つめているようだった。

足音を立てて近づいても、彼は私の存在に全く気がつかなかった。

腰を屈め、瞳を覗き込んでも無反応だった。

それどころか私の方がはっと息を呑んでしまった。

彼の瞳は赤かった。

赤といっても宝石のようなきれいな赤ではなく、喩えるなら凝固した血液のような、濁った黒っぽい赤だ。

瞳の周りも血走っていて、まるで元の眼球が抉り取られ、代わりに血が流し込まれて固まっているかのように見えた。

貧弱そうな体にその目はどう考えても不釣り合いで、私はそこから、彼の化け物としての片鱗をほんの少し知った気がした。

適当な言葉で話しかけてみると、私の声に反応して、やっと彼の瞳が私を捉えた。

私の存在に気づいた彼は、ひどく怯えた様子で、お化けでも見たかのように後退りした。

そしてすぐさま私を殺そうとした。

頭を吹き飛ばしたり、両手両足を切り落としたり、体ごと縦に叩き割ったりと、方法はどれも残虐で即効性の高いものだった。

慌てて体を修復しながら敵意の無いことを示そうとしても、彼は聞く耳を持たずに、ひたすら苛烈な攻撃を続けた。

言葉が通じないようだと悟った私は、傷を治すと同時に彼に駆け寄り、その小柄な体を強引に抱き寄せた。

何か作戦があったわけではない。

どうしようもないと思ったから、やけくそで抱擁してみただけだ。

彼は私の胸の中で面食らったようにもがき、あたふたと手足をばたつかせた後、信じられないほど強い力で私を突き飛ばした。

激しく動揺した様子で、口元に手を当てながら目を泳がせる彼に構わず、私は彼を再び強く抱き寄せた。

そしてまた強く突き飛ばされて、また抱き寄せて……。

そんなことを何度もしつこく繰り返しているうちに、彼はしまいに抵抗をやめ、ぐったりと体の力を抜いてしまった。

心が落ち着いたというよりは、驚いて何もできなくなったと表すべきなんだろうけど、とにかく今すぐに私を殺そうという気は失せたようだった。

彼の体を静かに離すと、彼は何が起こっているのかわからないといった風に、ぽかんと口を開いていた。

彼の魂と体のベースは17歳らしいけど、それよりは幾分か幼く見えた。

外は寒いからと言って変形していない方の小さな左手を引っ張り、私は運良くそのままの形で残っていた街外れの狭い小屋に彼を連れ込んだ。

私の手を振り払うでもなく、明らかに不審な私の素性を尋ねるでもなく、彼はふらふらと私に付いてきた。

急すぎる展開に困惑する様子も見られなかった。

相当疑り深い性格だと聞いていただけに、そのあまりにも無抵抗な様に私は少し拍子抜けした。

私が掃除やベッドメイクをしている間、彼は天井の隅の方をじっと見つめていた。

緊張した雰囲気も無く、女性と2人きりでベッドのある部屋にいることの意味など、まるで考えていないようだった。

ただぼーっと1点を見つめて時間が過ぎるのを待っていた。

ちょっと気味が悪いけど、とにかくここまで持ってきてしまえば、あとは私の専門分野だ。

一通り支度を終えた後、部屋を薄暗くして、ちらと肩を見せながら誘うようにくいくいと手招きした。

「ほら、おいで……」

私の言葉にすんなりと従い、彼はゆっくりと歩いてきて……。

そのままぼふんとベッドに横たわった。

わけもわからず振り返ると、彼はもう目を瞑って小さく寝息を立てていた。

これほどまでにスルーされるとは思っていなかったから、私は何をしていいかわからなくなった。

私にはそんなに魅力が無いのかと、多少腹が立った。

今すぐにでも彼の頭を私でいっぱいにしてやりたくなった。

……でも眠られてしまっては、その日の「お仕事」は諦めざるを得ない。

とはいえただで寝かせるのは悔しいから、私もベッドに乗っかって、膝枕の上に彼の頭を乗せた。

その寝顔は決して穏やかではなく、むしろ苦悶するように歪んでいた。

そして何かに怯えるように、背中を丸めて小刻みに震えていた。

しばらくそれを眺めていると、どこからか、今までに無い不思議な感情が湧き出てきた。

仕事とは何も関係ないのに、彼にちょっとでも安らかに眠ってほしくなった。

でも私は、それを助けてあげられる術を知らなかったから、結局は彼の頭を、自分の体温を伝えるようにそっと撫でてやることぐらいしかできなかった。

意外にもそれは効果があったようで、彼の体の震えは、時間とともに少しずつおさまっていった。

代わりに彼は眠ったまま泣き始めた。

声を出したりしゃくり上げたりはせずに、ただ勢いの無い細い涙を流していた。

……この少年が神をも恐れさせる怪物なのだと、私はにわかに信じられなかった。

昼間に何度も殺されかけたことも、彼の作った惨たらしい外の風景も、この少年とは全く無関係なものに思えてならなかった。

それゆえに、彼の背中から生えた赤黒い単翼が、ことさら痛々しく切ないものに感じられた。



翌朝、ほんの少しうとうとしていた間に、彼は私の前から姿を消した。

小屋中を探しても、また外に出てみても見当たらず、彼の痕跡は死体の数々を除いて何一つ残っていなかった。

……逃げられたか。

まずい。

もしこのまま見つけられなかったら、あの爺さんらはきっと……。

でもそんな心配は不要だった。

彼はその日の夕方に帰ってきた。

全身に返り血を浴びていて、その目はらんらんと不気味に輝いていた。

何人殺してきたのかは見当もつかなかったけど、少なくとも1人や2人でないことは明らかだった。

両腕を広げると、彼は私の胸に倒れるように飛び込んできた。

そのまま目を瞑った彼は、やっぱり前夜と同じただの男の子だった。

私は前の日よりも強く彼を抱きしめた。


……彼はどうやら迷っているようだった。

殺し続けなければならないという使命感と、私の腕の中で眠る心地よさとの間で揺れ動いているように見えた。

朝からどこかへ殺戮に向かい、夕方になると帰ってきて私と一緒に寝るという生活は、およそ10日間続いた。

その間、彼の出かける時間は日を追うごとに短くなり、ついには殺戮をやめてしまった。

自分で決めたことすら貫けないのかと蔑む人が多いんだろうけど、彼はもう疲れてしまっていたのだろうと私は思う。

何もかもに疲れ、とにかくそれを癒したがっていた。

彼と同じ準神生物でいくつかの類似した特徴を持つ私を、爺さんや他の神からの差し金なのではないかと問い詰めもせずに受け入れた時点で、彼がまともな状態でなかったことは疑いようがない。

疲れ果て、全てを投げ出したいと思っていたときに、都合よく現れた私という存在は、彼にとって丁度いい捌け口だったんだろう。

……本当は私じゃなくても、誰でも良かったんだろう。

計画通りに殺戮が止まり、彼との生活が安定してくると、私はそんなことを考えるようになった。

彼は私に身を預けながらも、決して私の目を見ようとしなかった。

話をしようともしなかったし、私から話しかけてみても返ってくるのは曖昧な返事ばかりだった。

私に頭を撫でられているときでさえ、考えているのはいつも誰か他の人のことだった。

……その正体が誰であるかは、考えるまでもなかった。

私はそんな彼の態度に不満を覚えた。

一緒にいるのは私なのに、私だけのものにならない彼が腹立たしかった。

いつも彼の中にいる、あの美しい女神が心底妬ましくなった。

……本来なら、そんなことはどうだっていいはずだった。

彼を止めるのが私の役目なのだから、彼にどう思われようと仕事自体に支障は無かった。

私自身、今まではビッチだ何だと罵られても全く気にしていなかった。

それなのに、彼に「優しくしてくれるなんだか都合のいい女」だと思われることだけは、私にはどうしても許せなかった。

仕事の成否に関係なく、私は彼を自分のものにしたくなった。


……人の心を掴む方法を、私はセックス以外に知らなかった。

だから時にさりげなく、時に露骨に、何度も彼に「お誘い」をかけた。

多少は恥ずかしいこともした。

でも彼は何の反応も示さなかった。

我慢しているという素振りも一切無かった。

私は寝るときに抱きしめて、頭を撫でてくれさえすればいいのだとでも言いだしそうな雰囲気だった。

私はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。



……出会ってからおよそ20日後、私はとうとう痺れを切らして彼と関係を持った。

ほとんど私が逆レイプするような形だった。

彼は多少は抵抗したけれど、諦めるように私を受け入れた。

彼が童貞だという情報は正しかったようで、私にされるがまま、物足りないほど素直に抱かれ、歓び、絶頂した。

……でも彼は、私とキスをしている間も、私と繋がっている間も、一度たりとも私の目を見てくれなかった。

いつものように、ずっとあいつのことを考えているようだった。

あの手この手で、どんなに気持ちよくしてあげても、よりいっそう虚しさが増しただけだった。

全く無関心な彼の上で、裸になって淫らに腰を振る自分の姿が、どこまでも汚らしいもの思えてならなかった。

毎晩のように襲い、また時々彼から攻めさせてみても、私の心の空白が満たされることは決して無かった。

私にできることを全て使っても、とうとう彼を手に入れることはできなかったのだ。



出会ってからおよそ40日後、私に次の指令が届いた。

目的は彼の暗殺だ。

彼自身と第5世代型実験機の本体とを強制的に分離する、急造品の薬物が送られてきた。

その包みには小型の注射器と3発分の薬、そして長く鋭いアイスピックのような凶器が入っていた。

指示の内容は単純だった。

彼に隙を作らせ、できるだけ太い静脈に1発分の薬を打ち込む。

薬の副作用である凄まじい苦痛で彼が死ななかった場合は、私がこの凶器で直接手を下す。

彼の隙を見つけることなどそのときの私には朝飯前だったから、単純ながら最も成功率が高い、理想的な作戦だったと言えよう。

……もっとも、私の心情を考えなければ、の話だけど。


その夜、セックスを終えて服を着た後、彼はいつものように私に身を委ね、腕枕されて眠りについた。

彼は行為中よりもずっと気持ちよさそうな顔をしていた。

そんな彼の頬にキスをして、私は空いている方の手で引き出しから注射器を取り出し、彼の二の腕の静脈を探した。

……彼はとうとう、一度も私のものにならなかった。

私だけのものにならないのなら、あなたなんて要らない。

そんな一時の感情に任せて、私は彼に薬を打ち込んだ。

一瞬、突然異物を打たれた驚きで、彼は私の方を見た。

皮肉なことに、このとき初めて、彼は自ら私と目を合わせたのだった。

その後すぐに、彼は苦痛に悶え始めた。

あまりに激しく暴れるので、私は思わずベッドから離れてしまった。

このまま死ぬのかどうか予想もつかなかったから、とりあえず凶器を手に取って右手で構えた。

彼は芋虫のようにのたうちながら、何やら意味の無いことを叫んでいた。

筋肉が目に見えてわかるほど大幅に膨張と収縮を繰り返し、翼はだんだんと黒く腐食して朽ちていった。

私はそれを直視していられなかった。

そして、それこそが自分の使命であったということも忘れて、自分の突発的な怒りが彼をここまで苦しめているのだと思い込み、自分の行動を激しく後悔した。

……30分近く苦しみ続けた後、彼はふらつきながらベッドから立ち上がり、その拳を握ったり開いたりした。

自分の状態を確かめようとしたのだろうか、左手の小指を右の手のひらで逆向きに押さえつけ、そのまま勢いよくへし折った。

前屈みになって声も出さずに痛がり、それが引いてくると、彼は涙目のまま私を睨んだ。

抉られそうなほど真っ直ぐな眼差しは、彼が完全に「正気」を取り戻したことを示していた。

抗えない強烈な「痛み」が彼の理性を呼び起こし、ずっと封じ込めていた私への疑念を掘り起こして1つ1つ繋ぎ合わせているようだった。

彼は私に詰め寄り、右手だけで私の首を掴んで持ち上げた。

細い腕から繰り出されているとは思えない、とんでもない力だった。

彼にもうそれだけの力は無いとわかっていながらも、もしかしたらこのまま殺されるのではないかという原始的な恐怖を覚えた。

……むしろそうしてほしいような気さえしていた。

でも彼はすぐに思い直して私を離した。

1歩後ろに下がって、彼は呪文のように話し始めた。

「……違うんだよね。

君はぼくを裏切ってなんかいない。

最初からあのじじいの指示に従ってただけ、そうだろ?」

「それは、その……」

私はどう答えていいかわからなかった。

一方で彼は初めから答えなど求めていないようだった。

「あいつの考えそうなことだ。

人の弱みにつけ込んで……。

……結局のところ、ぼくが勝手に騙されてただけなんだ。

ぼくの味方なんかもうどこ探してもいないんだってことぐらい、ずっと前から分かってたはずなのに……。

あっけないこった」

落ち着き払って話す姿が悲痛だった。

いつものように抱きしめて、そのまま静かに寝かせてあげたかった。

でも右手に凶器を持ったままではそれすらも叶わなかった。

「ねえ、帰ったらあいつに伝えといてよ。

『お前が勝ったんじゃない、ぼくが負けたんだ』って」

「…………」

「……いや、待てよ。

あいつが生きてるってことは、ぼくが殺した人たちの魂は……。

もしかしたら、第6界も……」

彼はベッドに腰掛け、片手で目を覆った。

「……はは……何やってたんだろ、俺……」

顔を上げ、私の手の中の冷たい凶器にちらと目を遣った。

「……もういいよ。

ぼくを殺すことまでが君の役目なんだろ?

心配しないで。

抵抗する気なんか無いからさ……。

さあ、早くやんなよ」

胸が張り裂けるように痛かった。

こんなもの投げ捨ててしまいたかった。

全部無かったことにして、また私の体温で彼を温めてあげたかった。

でも私のそんな身勝手な願いが叶えられることは無かった。

「どうしたの?なんで殺さないの?

ぼくのことなんか、どうなってもいいんじゃないの?

……ああ、そっか。

自分の手を汚すまでもないってことか。

こんなやつ、殺す価値もないもんね。

そうだよね……」

「……ち、違うの!」

「確かにそうさ。

ぼくにはもう何の力も無い。

このままほっといたってそのうちのたれ死ぬだろう。

だけど……」

疲れたように立ち上がり、再び私に詰め寄ってきた。

「それだけは、ぼくが絶対許さないから」

彼は私の右手を両手で包んで握りしめ、切っ先を自分の喉元に向けた。

「……さよなら」

引きつった笑みを浮かべ、そのまま彼は一息に、凶器を首に突き立てた。

強い力に負けて、それはずぶずぶと彼の肉の少ない首を引き裂いていった。

人の肉を抉る感覚が、重くまとわりつくような感覚が、その柄を通して私の右手に伝わって、そして脳裏に刻まれた。

彼が幾度となく経験したであろう、人を殺すという感覚を、私は初めて知らされた。

「…………あはは……痛い、や……」

それが彼の最期の言葉だった。

少量の血を吐き、瞳孔をかっと見開いて、彼はだらんと腕を下ろした。

びっくりするほど小さな体が力なく私にもたれかかってきた。

私は彼の亡骸を、サンプルとして神府に提出した。



……以上が、第5世代型機1次実証被験体、通称カジハラ サトルについて、私の知った全てである。

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