第6幕
この世界に生を受けて、一体どれぐらいの月日が経ったのだろうか。
木の板に過ぎた日数を刻むのも、1年ほどでやめてしまった。
例の参考書を全て制覇してからというもの、ぼくの暮らしは恐ろしく惰性的なものになっていた。
森中に巣食う怪物たちを、襲っては喰らい、喰らっては襲うだけの日々。
つまらなかった学校よりも更に単調な毎日。
変化が無いという点では、入院生活よりも酷い暮らしだったのかもしれない。
だけどそれも今日までだ。
今日ぼくは、文字通り人間界への大きな1歩を踏み出す。
そう、長い放浪生活の果て、ぼくはとうとう人間の居住区を発見したのだ。
今朝もいつものように獲物を喰らい、あてもなく辺りを散歩していた。
すると唐突に森が途切れ、背の低い草原の先、1キロメートルほど離れたところにやや大規模な街が現れたのである。
……今の心境?
そりゃもう嬉しいの一言っすよ。
まともな食事に落ち着く寝床、そして新しい人間関係……。
いろいろと妄想も膨らむ。
もちろん不安はあるけど、足踏みをしていても状況は永久に進展しないし、それ以上に自分の好奇心が抑えられない。
ここで引き返すという選択肢は無いだろう。
しかしながら、ぼくと人間の暮らしとの間にはやはり高い壁がある。
比喩的な意味もあるけど、主に物理的な意味での壁だ。
真下に立って見上げると視界に収まらないような巨大な壁が、眼前にそそり立っていた。
……当然といえば当然か。
ここの生き物たちの恐ろしさは嫌というほど知っている。
もはや雑魚扱いのムカデでさえ、生身の人間がまともに闘って勝てる相手のようにはなかなか思えない。
……ぼくを「生身の人間」としてカウントするのは流石に無理があるので、この表現は何ら間違っていない。
それはそうとして……壁、かあ。
さてどうしたものか。
その厚みはわからないけど、分体やら強化筋肉やらを上手く活用すれば壊せないこともないだろう。
まあ、でもそれはいくら何でもやめとくべきだな。
一瞬で外敵と認識されて除け者にされるのがオチだ。
同じ理由で、壁を這って登るのも却下。
というわけで……
行き倒れてみました。
ぼくは今、草原の真ん中でうつ伏せに倒れている。
ピクリとも動かずに、ただただ誰かが通りかかるのを待っている。
街を目指してやってきた心優しい人に拾ってもらおうという算段だ。
……でもそもそも人が来ない。
2、3時間は倒れているのに、人っ子一人通りやしない。
拾われるかどうか以前に、人が来ないんだからたまらない。
今日は諦めて森に帰ろうかと思っていたそのとき……やっぱり信じる者は救われるんだろうか……人のものと思わしき足音が近づいてきた。
「……君、旅の者かい?」
あらかじめ断っておくけど、ここでは第6界の言語をわかりやすいように日本語に翻訳している。
ここに至るまでのぼくの弛まぬ努力の成果であることを強調しておきたい。
……さて、声質から考えて、ぼくを発見したのは若い冒険者とでもいったところだろうか。
「うっ……うう……」
死体と間違われるとかえって危ないので、アピールも兼ねて呻き声をあげてみる。
「生きてはいるみたいだね……ほら、歩けるかい?」
何とか立ち上がろうとする素振りを見せる。
「仕方ないなあ……よっこいせっと」
軽々と片腕で持ち上げられる。
ぼくの身体が小柄な方だというのは自覚してるけど、それでもここまで楽に担ぐとは、この人はそこそこの実力者と見ていいのではなかろうか。
「す、すみません……」
「いいのいいの。俺自身他の人に助けられたことがある手前、困ったときはお互い様さ」
ぼくを担いだ男は10分ほどで壁の門の前に到着した。
「おっ、スイちゃんじゃん!ただいまー」
「お名前とご用件をどうぞ」
「もう、相変わらず冷たいなあ……。
冒険者ナンバー352のファウス。
クエスト報告に来たよ」
「……そのお方は?」
「行き倒れ……かな?
いざってときは俺が責任持って始末するから心配しないで」
「了解。長旅お疲れ様でした。
ただ今開門いたします」
……そんな口約束だけでいいのか?
それだけこのファウスという人は信頼されてるってことなのかな。
ぼくが下ろされたのは、少し狭い居酒屋の椅子の上だった。
ぼくの持っていた豪快な冒険者のイメージとは違う、静かで雰囲気ある店だ。
よく冷えた水を勧められる。
「ごめんね。酒の供給が全然追いついてないみたいで」
「いえ……ありがとうございます」
まだ会話には不安があるので最低限のお礼だけを伝え、水をぐいっと飲み干す。
ひんやりとした心地よい刺激が全身にくまなく行き渡る。
「ふう……」
「落ち着いたかい?
料理も頼んであるからちょっと待っててね」
「そんな……お気遣いなく」
「遠慮しないで。
1回助けたよしみ、飯ぐらい奢らせてよ」
「では、お言葉に甘えて……」
いい人だなあ。
前世を含めても初対面の人にこんなに優しくされたことってあっただろうか。
ファウスさんがぼくの向かい側に座って頬杖をつく。
「……しっかし、いやな世の中になったもんだよねえ。
君も悪い借金取りかなんかから逃げて来たんだろ?」
「え?……え、ええ。まあ」
「だよねえ。俺んとこに来る依頼もどんどんハードになってくしさ……。
魔王さんが代替わりしてからというもの、魔物は暴れるわ、こっちの社会でも不信が広がるわ……ロクなことがないよね、ホント。
それに次の勇者はまだ幼いって聞くし……この先一体どうなっちゃうんだか」
疲れた表情を浮かべながらも、その端正な顔はとても血色がいい。
肉付きも健康的で、すごく美味しそう。
……美味しそう?
「……どうしたんだい?顔色が悪いよ?」
まずい。
これはまずい。
椅子を蹴倒して店から駆け出す。
「ちょっと!待ちなよ!」
道に出ると当然ながら多くの人が行き交っている。
その1人1人が極上の獲物にしか見えない。
それは駄目だと思っても、この衝動は治まるどころか加速度的に増幅していく。
食べたくて、食べたくて、空腹が頭を支配していって……
ぼくの理性と意志は、ぼくの身体から切り離された。
視界が真っ赤に染まる。
口が大きく裂け、両方の顎が外れて素早く伸びていく。
そのまま近くにいた女性を包み込み、膝の辺りで切断する。
口に含んだ部分を強力な酸で溶かし、一息でずるっと飲み込む。
……短い沈黙の後、一帯は激しいパニックに陥った。
悲鳴をあげる人、逃げ惑う人、腰を抜かして動けなくなる人……。
ぼくの身体は、そんな人たちを槍状に変質させた両腕でてきぱきと仕留め、口の中へと放り込んでいく。
誰かの身体を貫く度に、どすっ、どすっと重い感触が腕を通して伝わってくる。
それは無慈悲に、まだ血の通った生温かい肉に腕を突き立てる感触。
それは無慈悲に、まだ生きられるはずだった誰かの命を奪う感触。
1人、また1人と腹に収めて、ぼくの身体が6人目に取り掛かろうと狙いをつけたそのとき、背中に熱い感覚が迸った。
ファウスさんだ。
その剣はぼくの背中を完全に捉え、縦に深く斬り裂いている。
普通の人間、いや普通の生き物であれば、間違いなく致命傷になるだろう。
……そう、普通の生き物であれば。
「……何っ!?」
大きな傷口がそのままおぞましい第2の口へと変貌し、屈強な冒険者に襲い掛かる。
予想だにしなかった反撃になす術もなく、青年はぼくの背中に噛み砕かれ、そして無残に飲み込まれた。
6人の人間を屠った後、やっと身体の主導権はぼくの理性に返された。
急に全身に力が入らなくなり、その場にへたへたと座りこむ。
しばらくして騒ぎを聞きつけた警官らしき男たちが様子を見に来る。
ぼくは反射的に飛び起き、人のいない通りを走りだした。
できるだけ早くここから立ち去らなければならないという、その一心で。
壁の外の分体を全て呼び寄せ、両肩の先に繋げる。
それらをブースター代わりに、身体のエネルギーを直接噴射して高く飛び上がる。
出力を上げるほど、ずっと目指してきた人間の営みが遠く霞んでいく。
とにかく遠く、遠く離れたくて、エネルギーが尽きて木の上に勢いなく落ちるまで、ただ一心に飛び続けた。
森に落ちるとすぐに、辺り一帯の生き物を手当たり次第に襲って喰った。
エネルギーの枯渇による暴走が止んでも、日が沈んでも食べ続けた。
ついには自分の周りから、生命の気配が無くなった。
……もう何もしたくない。
もう何も考えたくない。
人の世界に適応なんてできるはずがない。
それは暴走を食い止められなかったから、というだけではない。
思い出したくもないけれど、ぼくは人間を美味しいと感じてしまった。
暴走する自分を止めようとしながらも、人間の肉の味を、頭のどこかで受け入れていた。
今もその甘美な風味が口の中に残っている。
そんな自分が恐ろしくて、それなのに人の世界に馴染めるなんて簡単に考えていたことが情けなくて、殺してしまった人たちに心から申し訳なくて……。
うずくまって身体を1つの塊に変え、呼吸と拍動を少しずつ減らしていく。
脳に意識を保つのに必要な酸素が行き渡らなくなり、だんだんと頭がぼうっとしてくる。
このまま冬眠のような状態に突入すれば、しばらくは人を襲ったりせずに済む……のだろうか。
わからない。
というかもうそんなこともどうでもいい。
とにかく今は、もう何も……何も考えたくないんだ。
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