第18幕

ぼくは静かに身体を起こして、後ろの壁にもたれかかった。

ぼくに背中を向けたまま、彼女はまるで他人事のように話し始めた。

「……カジハラさんと出逢うまでの私について、まだちゃんとお話しできていませんでしたね」

確かに彼女は、自分の過去について語ることがほとんど無かった。

「……私は幼いころ、運良く貴族の家に生まれたこともあって、何不自由ない生活をしていました。

とても立派な学校に通い、良いお友達にも恵まれて……いずれはどこかの家にお嫁に行って、そこで幸せに暮らすんだろうなって、そう思っていました」

幼い頃の彼女の姿を想像してみる。

そのイメージは今の彼女のそれとあまり変わらない。

……もちろんいい意味で。

「……私には、幼いころからベトライという名の従者がいました。

彼はいつも私のそばにいて、身の回りのお世話をするだけでなく、貴族としての立ち振る舞い方などさまざまなことを私に教えてくれました。

彼は飛び抜けて優秀という訳ではありませんでしたが、誠実を絵に描いたような人で、私が必要としたときには真っ先に手を差し伸べてくれました。

裕福な家系と優しい両親、そしてベトライのおかげで、私は1人の人間として穏やかに成長していきました」

……さぞかし温かい教育を受けていたんだろうな。

育ちの良さがそれを証明している。

「……でも、そんな日常は突如として終わりを迎えました。

ある日の夕食の席で、赤ワインを飲んだ直後に、お父様が……お父様が倒れたんです。

もちろんすぐさま治療を試みましたが、その甲斐もなく……」

「それってもしかして……」

「……はい。

調査の結果、ワインからは致死性の毒が見つかりました」

「そんな……」

「……しかも、そのときお父様の暗殺を疑われたのは、あろうことかベトライその人だったんです。

確かにその日の食事を用意したのは彼でしたし、私の家との一族を通した付き合いも長かったので、最初に疑われるのは自然なことでした。

しかし、彼への疑いは長い間晴らされませんでした。

……私は必死で彼を庇いました。

私にとっては、彼がそんなことをするはずはなくて、そんなことは決してありえなかったからです。

お母様も同じお考えで、当時激しい権力争いをしていた、とある家の者の仕業であろうという結論に至りました。

……結局、有力な証拠も見つからなかったため、お父様を殺した犯人はうやむやのままになってしまいました」

ぼくはごくりと唾を飲んだ。

彼女は続けた。

「……その後しばらくは親子共々悲しみに暮れていましたが、徐々に立ち直り、再び平穏な暮らしを取り戻していきました。

お母様はかつてお父様が就いていた役職の後を継ぎ、家としても少しずつ力を再興し始めました。

今度こそは幸せになれると……そう思い始めていたときのことでした」

「…………」

「……その日の午後、学校から帰ると、ベトライが家から出てくるところでした。

彼が外出するのは珍しいことだったので声をかけると、料理番の体調が優れないので代わりに買い出しに行くとのことでした。

そして、私宛てに届け物があったから確認しておくようにと言い残し、彼はどこかへ……『その家』の方へ、行ってしまいました。

扉を開けてただいまを言っても返事はありませんでした。

私はお母様がお昼寝でもされているのだろうと思い、そのまま家に入りました。

玄関に置いてあった小包を手に取って、いつものように廊下を進みました」

彼女は少し間をとって鼻をすすった。

「……初めに居間に向かいました。

お母様はいつも、そこでお昼寝をされるからです。

ドアを開け、部屋を見渡すと、そこには……そこには…………」

それまで不自然なほど冷静に話していたベルさんが、突然言葉を詰まらせた。

ぼくははっと話の続きを悟り、その結末に背筋を凍りつかせた。

もうこれ以上聞きたくなかった。

……でもそれを止めることもできなかった。

「そこには…………お母様が……血を流して倒れていました。

そして、私の手の中の小包には、血のついたナイフが入っていました……」

「そんなことって……」

「私も信じられず……いや、信じたくもありませんでした。

……ただ1つわかったのは、このままでは私が犯人に仕立て上げられてしまうということでした。

そういう連中の行動は驚くべきほど速いですから、すぐにでも追手が来ると、そう確信しました。

……もっとも、それを教えてくれたのもまたベトライでしたが……」

一言話すごとに、彼女の背中が小さくなっていくような気がした。

「……そのとき家にいた何人かの使用人や護衛とともに、私は逃げ出しました。

資産もほとんど持たず、お友達にも別れを告げないまま……。

今でもレニ国では、私は両親を殺した悪魔の子として話の種になっていることでしょう」

……彼女にどう声をかけていいか、ぼくにはわからなかった。

「……そのときから、私は他人が信じられなくなりました。

遠く離れていくかつてのお友達にも、私に付いてきてくれた誠実な使用人たちにさえ、何か他の下賤な魂胆があるんじゃないかって、1人残らず疑うようになったんです。

……そして、ヘイズ国を目指して逃げ続ける中、強力な龍に襲われたときに、あなたに助けられたんです」

「…………」

「……守って頂いておいて本当に失礼なのですが、私はあなたをも疑っていました。

こんな地位もお金も、何もない女を助けるだなんて、そのときの私には考えられなかったからです」

「……でも、あなたはぼくを家に迎え入れてくれましたよね?

あれはどうして?」

「私にもわかりません。

もしかしたら……あわよくばあなたに殺してほしかったのかもしれません。

何をする気もなく、かといって死ぬ勇気も無い人間でしたから……」

「そんな……」

そこまで思い詰めていたとは……。

「でもあなたは、私を利用したり、傷つけたりはしなくて……それどころか私を喜ばせようとしてくれました。

そしてあのとき……街を強力な魔物が襲撃して、あなたが帰って来なかったあのときに、私、ものすごく心配になったんです。

いつの間にか、あなたは私にとって失いたくない人になっていたんです。

失いたくなくて、もう少し長く一緒にいたくて、そしてあなたにもっと幸せになってほしくて……それで私は、あなたと一緒に旅をしようと決めたんです」

「ベルさん……」

「……それでいて、私は心のどこかで、ずっとあなたを疑っていました。

信じたいのに、どうしても信じきることかできなくて……。

心の整理がつかないまま、あなたの前でいつも笑っていたんです。

本当にごめんなさい」

いいんですよ、という言葉が喉までこみ上げてきて、そのままどこかへ消えていく。

「……でもそんな私を、あなたは迷うことなく守ってくれました。

文字通り、その身を挺して……。

そしてあなたの本心も……。

……初めはびっくりして、どうしていいかわからなくなってしまいました。

でもそのとき思ったんです。

この人は本気なんだ。

本気で私を守ろうとしているんだって。

だから私もそれに応えなきゃって。

私もいい加減、自分の気持ちをちゃんと固めなきゃって。

だから……だから……!」

彼女がばっとこちらを振り返る。

両腕を背中と首に回されて、そのまま強く抱きすくめられる。

呼吸ができなくなるほど近くで、真っ直ぐに両目を見つめられる。

その蒼い瞳の奥の、ずっと深いところまで覗けてしまいそうな気がしてくる。

「私もあなたが好き。

私は、あなたを信じます」

「……んぐっ!?」

ぼくの唇に、切ないほど柔らかいものがぐっと押し当てられた。

……その瞬間、まるで世界中の時が止まったような、不思議な感覚に包まれた。

彼女の肌の匂いが、今までにないぐらい近くはっきりと感じられた。

その微かな鼻息さえも、頬にかかってくすぐったかった。

ぼくはどうすることもできずに、ただそっと彼女の身体を抱きかえした。

その小さな鼓動は儚くて、そして他の何よりも温かかった。

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