第二章:プライベート・アイズ/09

 青山の裏通りにある、人目に付きにくい辺りにあるコインパーキングにNSX‐Rを停めた瑛士は、連れて来た玲奈とともに車を降り。そして監視目標であると同時に、唯一の手掛かりでもある若手実業家・霧島啓一が所有するマンション最上階のペントハウス――――を、見下ろせる位置にあるビルの屋上へと昇っていた。

「……動き、ないな」

「そうだね、マスター」

 二人がペントハウスの監視場所に選んだビルは、割と背の高いオフィスビル。この時間帯になると人気ひとけが殆ど無くなるようなビルだ。

 良い具合にペントハウスを見渡せる場所をと、瑛士がこの数日、事前の下見を繰り返し……その末に、優れたスナイパーとしての視点で見つけ出した場所。それが、このオフィスビルの屋上だった。

 そんなビルの屋上で、玲奈はリューポルド社製のスポッティング・スコープを。瑛士は前に愛用していた古いカール・ツァイス社製の狙撃スコープをそれぞれ覗き込み、上から見下ろす形で霧島啓一のペントハウスの様子を窺っていた。

 だが……監視を始めてかれこれ三〇分。ペントハウスで目立った動きは見られない。

 まあ、例のホームパーティが始まるまで多少の時間はある。敢えて少し早めの時間に監視場所へと陣取っていただけに、暫く動きがないことは想定内だったが……しかし瑛士はともかくとして、隣で膝立ちになってスポッティング・スコープを覗き込む玲奈の方は、段々と退屈し始めているようだった。

 仕方のないことだ。響子のツテで元米海兵隊スカウト・スナイパーの人間などから狙撃手としての手ほどきを受け、そして自身も狙撃慣れしている……即ち、待つことに慣れている瑛士とは異なり、彼女はあくまでもオールラウンダーの戦士でしかないのだ。例え彼女の視力が両眼共に四・五と人間離れしていたとしても、長時間ジッと標的を待つことに慣れている瑛士と差が出てしまうのは仕方ない。

 ――――狙撃とは、即ち待つことだ。

 勿論、一概にそうとも言えない部分はある。例えばSWATのような警察の特殊部隊、中距離で犯人を狙撃する立場なら、大した時間を待つこともない。無論、これも時々の状況によりけりだが。

 しかし――――多くの場合、スナイパーは標的が現れるまでただジッと待ち続けることを強いられる。

 長いときで三日とか、一週間とか。伏せったまま、ライフルを構えスコープを覗き込んだまま、ただただジッと待ち続けることを求められる。片時も神経を緩めることなく、標的がスコープの中に姿を見せる瞬間を、その引鉄を絞る一瞬を、ただ待ち続けること。それが、スナイパーという人間の在り方だ。

 狙撃場所の位置取りや、必要に応じた弾やライフルの選択に、綿密な環境観測と弾道計算。何もかもを理詰めで考えた上で……その上で、待つ。

 だからスナイパーというものは、本質的に地味な存在だ。

 故に――――究極に地味であるが故に、耐えに耐えて撃ち放つ一発は何よりも重く、そして最大級の効果を発揮する。

 たった一発の銃弾が、世界の全てを大きく変える可能性すら孕んでいるのだ。であるが故に、スナイパーという存在は地味で陰険で、そして……その引鉄と、それを引く覚悟は何よりも重い。

 ――――そんな存在、スナイパーである瑛士が待つことに慣れているのは当然で。そうでない玲奈がこの地味にも程がある監視に退屈し始めるのも、ある意味で仕方のないことだった。

「っつっても、そろそろのはずなんだが……」

 一旦スコープから眼を離し、左手首に巻いた愛用のロレックス・サブマリーナの腕時計にチラリと視線を落としながら、瑛士がひとりごちる。

 時刻は午後七時五〇分を少し過ぎたところ。ペントハウスには段々と来客の姿も見え始めているし、あの家のホストである霧島だって、そろそろ姿を現しても良い頃合いなのだが……。

「……! マスター」

「ちゃあんと見えてるぜ。――――間違いない、奴だ。遂に現れやがったな」

 そう思っていると、噂をすれば何とやら。二人はスコープ越しに眺める視界の中で、遂に例の若手実業家……霧島啓一の姿を捉えていた。

 高そうなオーダーメイドのスーツを身に纏い、シャンパングラス片手に窓際に立つ男の姿がペントハウスの中にある。割に若い顔立ち、そして染色した金髪は……あの霧島啓一に相違なかった。

 ジッとスポッティング・スコープ越しに眼下のペントハウスを見つめる玲奈の横で、瑛士はニヤリとほくそ笑み。古い狙撃スコープを覗き込みながら、漸く現れてくれた霧島の動向を観察する。

「……別に、何にも見つからねえな」

「うん。『インディゴ・ワン』の関係者らしき姿も、僕には見えない」

 だが…………長いこと霧島と彼のペントハウスを眺めていても、怪しい点は何ひとつ見受けられなかった。

 今日のホームパーティには結構な人数を集めたらしく、遠くから窓越しに眺めるペントハウスの中は結構賑わっている。招待された客たちも割と顔の知れた奴が多く、招待客の中には財界の著名人だとか、今をときめくファッションモデルの美人さんだとかが居た。他には数名だが、参議院の議員先生の姿も見受けられる。

 しかし玲奈の言う通り、例のテロ・グループ『インディゴ・ワン』の関係者や、連中に繋がりそうなものは何ひとつ見えてこないままだった。

 監視を始めてから二時間弱。ホームパーティが始まったのはざっくり一時間前で、何だかんだと二一時を過ぎてしまっている。

「この分じゃあ、収穫ゼロの空振りで終わっちまうかもな……」

 尚もビルの上から見下ろす形で、眼下のペントハウスと……賑やかなホームパーティの様子を眺めつつ。段々と覚え始めた空腹に腹を鳴らしていた瑛士が独り言を呟く。

「…………!」

 そうした時、すぐ隣でスポッティング・スコープを覗き込んでいた玲奈の雰囲気が、何の前触れもなく張り詰めたものに変わった。

 それを聡く察知した瑛士がチラリと彼女の方に横目を向けると、玲奈はペントハウスの方に向けたスポッティング・スコープを覗き込んだままだったが……しかし、無表情の横顔は僅かに緊張感を漂わせている。

 彼女の雰囲気の変化も、そして表情の変化も。全て普通の人間なら分からぬほど些細なものだ。

 しかし、瑛士はそれをすぐに悟った。だから彼は玲奈と同じようにスコープを覗き込んだ格好のまま、彼女へ静かに囁きかける。

「……何人だ?」

 と、全て分かっていると言いたげな語気で。

「詳しくは、分からない。けれど、五人以上は近づいてきている」

 すると玲奈は、やはり同じようにスポッティング・スコープを覗き込んだままの格好で彼に囁き返す。

 ――――この場に近づく、何者かの気配。

 玲奈はそれを察知していたのだ。動物的と言えるほどの鋭い神経で、この場に近づく者の気配を捉え。そして、それを瑛士に伝えようとしていたのだ。

 彼女は視力以外にも、こうした気配察知の能力も人並み外れて優れている。およそ人間らしさと呼べるものを全てなげうち、戦闘のみに特化した、生きる殺戮機械キリング・マシーン……それが、特異な生い立ちの元に生まれた、斑鳩玲奈という少女の本質だった。

「待ち伏せか? どうして俺たちが此処に来ることを読めていた……?」

「分からない。けれど、明らかな敵意を感じる。間違いなく、この気配は敵」

「だろうな。連中にとって、俺たちは招かれざる客ってワケだ……。何にしても、厄介なコトになっちまったな」

「マスター、どうするの?」

「どうするもこうするもねえ、ンなもん最初から決まってるぜ。コトこうなっちまった以上、もう荒事は避けられない。仮に俺たちの側にその気がなかったとして、あちらさんがタダじゃ帰してくれねえだろうからな」

「だったら……強行突破?」

 囁く玲奈の問いかけに、瑛士はニヤリとしながら「当然」と、同じく細い声音で頷き返す。

「……さあてと、あちらさんに先手を打たれちまう前に、俺たちの方から仕掛けちまおうぜ」

「マスター、名案。あの様子だと、僕たちが反撃してくるとは思っていない。まだ自分たちに気が付いていないと思っている。逆に奇襲を仕掛けるのなら、今が好機」

「よし……やるぞ、玲奈」

「命令受諾。……了解、マスターの命令とあらば」

 二人で頷き合い、瑛士と玲奈は実に自然な動作でスコープを仕舞い。そして――――。

「さあて、お楽しみの時間だ!」

「――――交戦エンゲージ

 瑛士は1911、玲奈はマニューリン。二人は唐突に背後を振り向くと、振り向きざまに腰の拳銃を抜き放ち。忍び足で背後に迫っていた刺客たちを、あまりに突然に撃ち抜いた。

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