断章 昔日

第1話 揺籃

 物心ついたときにはもう、その灰白色の薄暗い孤児院で息をしていた。

 王都にあるものなどよりもずっと粗末な、寒風吹き荒れる痩せた北部に似合いの、うらぶれた家だった。

 アダマスの惑乱において末の王子だったバルトロと第二王子の軍が激突したその土地は、戦火がんだあともその熾火を引きずり、兵として駆り出された人々も滅亡した領主の家の家族も南へと逃れたごく僅かな生き残りも、二度とその土を踏むことはなかった。

 土地も社会も人もすべてが荒れ果てて、動くに動けぬ老人と放り出された子どもとが、文字通りただ息をしていた。教会管理下にあった孤児院もそれは例外ではなく、年に数回、人買いが来る頃に“家族”が夜のうちに忽然と姿を消していることもままあった。


 孤児院では、血濡れた眸を持ち、“家族”のなかでもいっとう幼かった彼は、しばしば折檻され、修道女たちからもどういうわけだか嫌悪された。

 程なく、それは母の形見だという湾刀のせいだと分かった。湾刀はこのローデンシアでは用いられぬ武器で、修道女たちは彼に外つ国の血が流れていることを危惧していた。もっとも、彼の容姿は眸の色こそ際立っていたが、それ以外はローデンシア人らしい容姿をしていたので、孤児院を追われることはなかった。

 この地で正真正銘生を受けたはずのイシュハの血が混じった別の少年は、異域いいき干渉罪の疑義を避けるためにか、真冬に灰白色の家から閉め出されたというのに。


 彼は眸の色の不気味さも幸いしてか、人買いに買われることも免れた。そんな、永遠に光の射さない曇天のなかを進む、綱渡りのような生だった。

 そんな環境で七つを数えるときまでを過ごしたと、後年イニーツィオは不具者の宰相の側近であった老人に述懐する。


 イニーツィオの人生の曇天が晴れたと初めて思えたのは、その七つのときだった。

 王都カリタから迎えが来た。“家族”たちはざわめいた。撫でつけられた髪に白いものが混じり始めた、梟のピンを外套の首元に留めたその碧玉の眸の男は、彼を「殿下」と呼ばい、その場に跪いた。


 金剛宮での暮らしははじめ、順風満帆なものではなかった。もっとも、あの美しい城での暮らしが順風満帆であったときなどあるはずもなかったが。

 イニーツィオの父を名乗る男には、妻がいた。それも一国の王の妃だった。彼女は彼の実の母ではなかった。母はアダマスの惑乱の折に彼を生み、産褥熱で死んだのだという。

 イニーツィオが手にしていた湾刀を目にして、息子との再会にも眉一つ動かさなかったその冷厳なる父は、束の間時をとどめた。その様子を、王妃がじっと見つめていたのを今でもよく覚えている。


 王妃は不具者の宰相の四番目の姉だった。

 アダマスの惑乱以前――王がまだただの先代国王の末子でしかなかったころに契りを結んだ夫婦で、二人の間にはイニーツィオより十ほど年上の息子が一人いた。

 若干十七歳にしてその王太子は、眉目秀麗、金剛騎士団団長の覚えもめでたい剣術の使い手で、知に冴え、今や蜘蛛の巣の張った禁書室の書物を熱心に読みふけり、王を輔けるためにあらゆる政務をこなしていた。非の打ちどころのない、まさに光り輝くような、エジカの恩寵を一身に受けた王子だった。


 だから、イニーツィオはなぜ自分が今さら王宮に連れてこられたのか分からなかった。

 不具者の宰相に尋ねたら、「俺は俺の家族と頗る仲が悪くてな」と皮肉げに笑った。


「俺を恨んでもいいぞ、小僧。この命をくれてやる相手は決まっているが、お前になら殺されてやってもかまわない」


 いつも尊大な男が、イニーツィオを見つめる眸に良心の呵責じみた色を滲ませたのは、あのときが最初で最後だったと記憶している。

 七つの子どもだったイニーツィオには、なぜ宰相が家族と仲が悪いことが彼を王宮に連れてくることにつながるのかさっぱりわからなかったが、やがて盤石だったリチェルカーレ家の権勢に翳りが見え始めたので、宰相の判断はおそらくはその一点で正しかったのだろう。

 イニーツィオが王宮で暮らし始めてから、王妃は次第に、しかし着実に狂っていった。


 異母兄あにとはじめてまともに言葉を交わしたのは、王宮で暮らし始めてから三月ほど経ったころだった。地吹雪の弔歌が聴こえるばかりの、人が人を食い物にするのが当たり前の北の最果てで育ったイニーツィオにはにわかに信じられないことに、兄は心根もうつくしかった。

 王妃はイニーツィオに菖蒲あやめのごとく微笑みながら、女官やリチェルカーレ派の貴族官僚たちを使って彼を貶めるのに夢中だったので、当然その息子からも毛嫌いされていると思っていた。

 ナザリオは、イニーツィオの北部訛りのハラ語を嘲笑いもせずに、異母弟おとうとを抱き上げた。

 穢らわしいと誰もが眉を顰め、父ですら彼を抱いたことがなかったのに、ナザリオはあっさりとイニーツィオと世界の間に横たわる透明な膜を破った。


「うるさい羽根虫の音が聞こえないとっておきの場所を、お前に教えてやろう。二人きりの秘密だぞ。いいな?」


 ナザリオは冗談めかして言って、回廊を歩いた。

 彼が歩くと皆が頭を下げるので、イニーツィオに浴びせられる侮蔑交じりの視線はまるで見えなくなった。イニーツィオは、ナザリオの肩口から、大人たちのつむじを呆然と眺めていた。

 教会の派遣してきた歌姫に何度《詩篇クロニカ》を詠んでもらおうとしても《詩篇》の断片ひとつ聴いたことがなかった彼は、エジカの存在を疑っていたが、そのときはじめて神の存在を信じた。

 神様がいるならきっと、異母兄みたいな顔をしている。そう思った。


 それからイニーツィオは異母兄がいるときもいないときも、彼が教えてくれた禁書室に通うようになった。はじめはハラ語の絵本を読んだ。なぜなら、イニーツィオは当初、ハラ語の識字も危ういほどだったので。

 学ぶ楽しさも学ぶ義務も、異母兄が教えてくれた。民の贄たれとは、ナザリオの言葉だった。王と国のために民があるのではない。民なき王と国は、虚ろな器だと静かに異母兄は繰り返した。

 ナザリオは、王妃を母に持ちながらも、リチェルカーレ派とは距離を置き、宰相と側近にくっついて回って、宰相に鬱陶しがられていた。異母兄の聡明さと不器用な優しさに焦がれた。


 そのうち表のことで首が回らなくなっている不具者と側近が、思い出したように第二王子の教育を始めた。様々な家庭教師が出入りしたが、とりわけイニーツィオを夢中にさせたのは、ごくたまにある梟の徽章をもつ男の授業だった。高齢のくせに会うたび隈を濃くしていっていたが、その弁舌に翳りが差すことはなかった。

 そうしているうちに、今度は実の父親のことが気になるようになった。父王はいつも忙しなく、いつだって評議会の行われる会議室で声を荒げているか、執務室で不具者に散々文句を言いながら書類の山と睨めっこしていた。父王の筋骨隆々とした逞しい身体は、執務室の精緻な細工のされた細身の椅子には、ひどくおさまりが悪そうだった。

 玉座の間にはひっきりなしに貴族や商人が押し寄せていたし、《第六言語機関》やカントゥス家や《教会》が我が物顔で王宮に乗り込んでくることもあった。


 王が私室に帰ってくるのはいつも深夜で、夜会や執務のために戻らない日もままあった。父王と言葉を交わしたのは、ほとんど形式的なものばかりで、不具者や側近に対するような軽口が叩かれたこともなかった。

 父王は自分を愛していないし、これから愛する気もないのだとすぐに気がついた。“家族”に幻想を抱けるような幼年期を過ごしていたわけではなかったが、それは少しイニーツィオを落胆させた。なぜならイニーツィオが慕うようになったナザリオや宰相や側近は、王をとても愛していたので。自分だけ、仲間外れになったような気分だった。


 ただ一度、父王がイニーツィオに声を掛けてきたことがある。八歳の生誕日のことだった。王族は生誕日になると、玉座の間にカントゥスの歌姫を招いて《詩篇》を詠んでもらうしきたりがあった。

 異母兄は彼の生誕日に華々しい活躍について詠んでもらっていたので、イニーツィオもそれを期待した。だが例によって、孤児院で過ごしていたころと変わらず、碌な《詩篇》が詠まれなかった。

 肩を落としてしょぼしょぼいじけて歩くイニーツィオを父王が呼び止めた。


「おい坊主」


 イニーツィオは父王が自分の子どもの名前も覚えていないのだと思って、えんえん泣いた。宰相の側近が大きな溜息を吐いて顔を手で覆い、不具者が「おい俺のクソ親父とガチンコ勝負ができるクソっぷりだぞ」と恐れ多くも王をクソ呼ばわりした。

 いつものように王妃が弟の不作法に柳眉を寄せたが、ナザリオが苦笑しながら母親を宥めた。


「俺に言わせりゃ、それは祝福されているってことだ。お前はなんにでもなれる。……せいぜい悩めよ」


 片頬を上げて、王が言った。ひどく不格好な、奇妙な表情だった。

 不具者が息を止めて王を仰ぎ、一つしかない拳をきつく握りしめた。

 父王の言葉の意味は、そのときのイニーツィオにはまるでわからなかった。

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