第3話 懐剣

 黒字病の治療は、重症者とローデンシア人の医師が優先された。イシュハの人々の感情と病の進行度を考えれば医師は後回しにされるべきだったが、ローデンシア語話者である医師たちの病の影響がルスキニアら医療従事者に出始めたためだった。

 逐一アルとサダクビアが患者たちにあらゆる治療の手順とその内容について懇切丁寧に説いて聞かせたので、混乱には至っていない。

 イシュハの民のうち、病に感染していない人々も治療を手伝ってくれていた。


 辺りはすっかり薄暗くなり、篝火なしに治療を行うのは厳しい状況になってきた。

 重症者を含む治療を終えた三分の一ほどのイシュハの民は、クラヴィスが手配した房舎馬車に乗せて、安全な地域に避難してもらっている。しかし全員を運ぶには馬車が足りなかったため、まだ三分の二ほどの住民は町に取り残されていた。

 油が撒かれていて火が使えないのが手痛い。夏であれば町の外に出てもらい治療を続行することも考えたが、今の時期では患者の体力がもたない。

 日が暮れると、ルスキニアは比較的症状が軽く、若く壮健な患者を町の外に出し、篝火の元で治療を続行させた。


 町の外のナザリオの騎士たちは縛につき、王太子命令でクラヴィスの騎士たちに連行されていった。ナザリオはというと、なぜかすべて終わるまでイルレゴラーレに残ると言い出した。

 すでに彼は剣を取り上げられ、縄をかけられなにをすることもできない。クラヴィスが彼の残留を認めた。

 とはいえ、町のなかにイシュハの民と一緒に置いておくことはできないので、町の外で守衛に睨み上げられながら野ざらしになっている。

 救援活動に合流したクラヴィスが時折様子を見に行っているようだった。


 町のなかはいったん、明日また日が昇るか、馬車が帰ってくるまで、しばしの休息をとることとなった。

 専門的な医療従事者ではない騎士たちの疲労の色も濃い。これ以上活動を続けるのは土台無理な話だった。

 アルはイシュハの人々の状態をひとりひとり聞き終えると、うんと伸びをした。

 民家から出たところを疲れのせいか、それとも視界が悪いからか、ふらついたところを、横から伸びてきた腕に支えられる。ジュストだ。

 彼は今日一日、アルの頼んだ雑務や体力仕事をすべて請け負ってくれていた。


「ありがとう」


 はにかんで言えば、酢を飲んだような顔をしてから「べつに」と素っ気ない声で言われる。

 秘書局にいたころは、なにを考えているのか筒抜けなくらい分かりやすい人物だったが、再会してからの彼はどうもよくわからない。


「ジュスト」


 今日一日ですっかり慣れた呼称を舌に乗せる。彼はにこりともしないが、アルが呼ぶとかならずこちらを向いて耳を傾けてくれる。


「少し、話しませんか。疲れていなければ、ですけど」

「……お前のほうこそ、寝なくていいのか。通訳の数が足りない。どうせすぐに叩き起こされることになるぞ」


 ジュストに気遣うようなことを言われると、なんだかどうしていいか分からなくなる。馬から落ちて頭を強打したとか、ヘンなキノコでも拾って食べたんじゃないだろうか。

 とはいえ、彼が今は本心からそう言ってくれていることは分かっていたので、茶化すようなことはできなかった。


「寝た方がいいのは分かってるんですけど。ちょっとまだ、寝られそうになくて」


 そう苦笑すれば、ジュストはふんと鼻を鳴らして、アルの手を恭しく引いた。

 ぞわりとして飛び上がれば、胡乱げな視線を向けられる。


「……なんだ? やっぱりそれは女装なのか?」


 どうやらジュストは夜道を付き添ってエスコートしてくれるつもりだったらしい。さすがは根っからの貴公子だ。


「じょ、女装じゃない――ていうか、そうだ! そういえばわたし女なんです!」


 アルの今さらすぎる告白が、宵の口に差しかかったイルレゴラーレの町にわんわんと木霊した。

 ジュストは「なに言ってんだこいつ」という顔をした。


「見れば分かる。事情はだいたい室長閣下から聞いている」

「グリエルモ様が……? ぶ、無事で――?」

「まさか知らなかったのか? 無事だ。僕はあの人に助けられた。ピンピンしている」


 アルはその場に崩れ落ちた。


「お、おい」


 ジュストの腕が追いかけてきたが、それに構っている余裕はない。

 道のど真ん中でしゃがんで膝に顔を埋めて、アルは声を殺して泣いた。あとからあとからぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 アルのやるべきことはこちら側にあると分かっていたが、グリエルモのことはずっと心に引っかかっていた。ひょっとすると、アルはグリエルモを見捨てたのではないかと。

 クラヴィスの言葉を信じていたし、グリエルモ自身を信じていたが、それでも不安は付きまとった。


 ジュストの掌がぎこちなくアルの背を滑る。


「クラヴィス公も悪いお人だな。教えてやればよかったのに。いや、生きているのが当たり前すぎて、頭から抜けてたのか……?」


 ジュストはよくわからないことをぶつぶつ言って、そろりと顔を上げたアルにあるかなきかの笑みを浮かべた。


「ひどい顔だな、僕の光」

「ぼ、ひ?」


 想像だにしなかった呼称に、涙も引っ込んだ。

 遅れて頬に熱が集まる。たぶん、今日怪我をしたところの痛みがぶり返したとかではない。

 そういえば、ランベルティ家の騎士には、仕える主君を特別な呼び名で呼ぶしきたりがあるとかないとか聞いたことがある。

 でも僕のなんちゃらだなんて、恥ずかしすぎてその辺に穴を掘って埋まりたくなる。


「照れるな! やりづらいだろ! 僕だってこのしきたり、小さい頃にドン引きしたんだからな!」


 宵闇のなかでも、ジュストの顔が耳まで赤く染まっているのがわかった。


「……もうランベルティは僕だけだからな。まあ、僕は名を継げないし、そんなの父も母も兄たちも望んでいないだろうが、あの家があったことを僕だけは憶えておきたい」


 その言葉にアルは目を見開いて、視線を地面に落とした。

 クラヴィスからの鷲便で、ランベルティの血族たちが次々に処刑されていったことは知っていた。


「……ごめんなさい。わたし、グリエルモ様の無事だけを喜んだりして」

「そういうものだろ。僕はあの家族を本当に愛していたのかもわからない。お前には想像もつかないくらい、最低な一家だったよ。ただ、まだ棄てられずにいるだけだ」


 アルは思わずジュストの手に手を重ねた。

 ジュストはその手を見下ろして目を瞠ったかと思うと、アルを軽く睨むように見た。

 出過ぎた真似をしたかと思って手を引っ込めれば、宵闇に融けるような吐息が落ちる。「お前は……」とこぼれ落ちた言葉の続きはいくら待っても耳にすることができなかった。

 嫌がられてはいないようだが、彼の真意がわからない。

 いや、それ以上にわからないことがある。


「そういえば、なんで急にわたしの騎士になるとか……あ、やっぱりグリエルモ様になにかあくどいこと言われたとか……?」


 ジュストは一瞬停止して目を泳がせた。

 やはりそうか。グリエルモは身内には甘いが、一度敵だと見做すと徹底的にやり込めるところがある。アルには常に優しいので、しばしばその事実を忘れるが。


「きっかけはそうだが、べつにあのひとに脅されたからといって、劒を捧げたりはしない」


 脅されたんだ、とアルは思ったが、口には出さなかった。

 彼の眸はいつになく真摯な光を宿していた。少し躊躇うように唇を噛んだかと思えば、それを振り払うようにまっすぐに見つめられる。


「――僕はお前にすくわれた」

「……え、でもわたし、ジュストのこと……」


 異域いいき干渉罪の疑義でミロ・コッツィに包囲されたとき、結局アルは金剛騎士団に彼を譲り渡すしかなかった。


「お前にはどうせわからない」

「な――わたし、そういう言い方――」

「わからなくていいんだ」


 そう言って、ジュストはなにかをこらえるような、どこか下手くそな笑みを浮かべた。

 それきり、アルは二の句が継げなくなる。


「お前は……僕じゃ厭か?」


 刹那、怯えにも似た影がその美しい藍の眸に差し込む。

 アルはほのかに笑った。


「少し前のあなたのことは、正直……大がつくほど嫌いでしたけど、今は――」


 そう言って、ジュストを仰ぐ。


「信頼しています。正直、びっくりしました。あなたがあんまりにもちがうから。……でもそれにはあなたが辛い思いをしたことも影響しているんでしょうから、今のあなたのぜんぶを肯定するのはちがうかもしれませんが。あなたは元々、本一冊盗むのを、躊躇うような人だった」


 アルのいらえに、ジュストは唇をきゅっと噛みしめて目を伏せた。

 それから、正面に立ったかと思うとその場に跪く。驚いて彼を立たせようとしたアルに「そのままで」と囁いた。


「お前が剣に依らずに道を拓こうとしているのは知っている。だが、お前は王太子殿下に乞われた。これからお前が行くのは、茨の道だ」

「……まだ王笏に乞われるかどうかは」

「冗談だろ?」


 ジュストは軽く笑った。

 アルとて考えなかったわけではない。というか、アル以外の誰かをイニーツィオが王笏に任じたりしたら、いじけてひと月もふた月も膝を抱えてしまう気がする。もっとも、あのひとに相応しいのが自分かというと、自信がないのだが。

 今日も結局、サダクビアの説得なしにはイシュハの人々を助けることはできなかった。王太子の言梯師としての能力には些かどころか多分に問題がある。

 グリエルモやクラヴィスだったら、アルのようにはならなかったにちがいない。


「ともかく、お前が守りたいものを守るためにも、僕みたいのが必要になる。さすがのお前も、凶手を放たれても口先だけでなんとかなるだなんて言わないな?」


 ジュストの問いにアルは頷くほかなかった。

 歴史上、敵勢力に目障りだと見做された言梯師が凶刃に倒れてきたのは珍しい話ではない。アルもそんな輩にやすやすと命をくれてやるつもりはなかった。


「はじめに言ったな。お前の望まぬものは切らない。お前に相応しい剣を研ごう」


 昼に言われたときにはわからなかったが、今ならジュストがアルの矜持や信じているものをひっくるめて理解して、そう言ってくれているのがわかった。


「わ、わたし……ジュストにそこまで言ってもらえるような働きをしていません。あなたに見合うものをあげられるか……」

「もうもらった」

「え?」


 ぽかんと口を開けると、ジュストは苦く笑った。


「わかれよ。お前は、僕を跪かせるに足る人間だ」


 そう言って、ジュストはアルに手を差し出す。

 恐る恐るその手を取れば、ジュストは手の甲に触れるか触れないかの口づけを落とした。

 上目遣いに見上げられ、頬に朱が走る。それを見とめて、ジュストは少し胸がすいたというような顔をした。


「僕の剣を受けるか?」

「…………はい」


 こたえれば、藍と黒に染まりゆく闇の影に隠れて、菫青石の眸が濡れた輝きを放った気がした。


「……ああそういえば、イシュハの娘がさっきお前を探していた」

「サダクビアが? なんだろう」

「彼女と話せば、きっと嫌でもわかる」


 なにに、というアルの問いに、ジュストは肩を竦めてみせた。

 アルは星明りを頼りに油のにおいの立ち込めた町を歩く。

 やがて、アルは踏み荒らされた花壇の一角にそのにおいたつように美しく、玻璃のように怜悧な異邦の娘を見つけた。

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