第4話 友誼
サダクビアはアルの足音に気づくと目を上げた。その手は、手持ち無沙汰に花びらの残骸を弄んでいる。
「〈さむくないの?〉」
「〈べつに。うるさいのは好きじゃないの〉」
たしかに今のこの町では屋内にいてひとりになる時間はないだろう。それに昼間、彼女はイシュハの他の人間から乱暴を受けたというようなことを言っていた。
家の中で肩を寄せ合う今の状況は、真綿で彼女の首を絞める行為にも等しいにちがいなかった。
とはいえ、彼女はどちらかというと薄着なので若干心配だ。クラヴィスか誰かから女性ものの外套を貰ったらしいが、それでも寒々しく見える。
アルが首巻きを差し出せば、サダクビアは「〈良い子ちゃんの押し売りはもうたくさん〉」と手を振る。
「〈すぐにどこかの家に入るわよ。一晩こんなところで明かすわけないじゃない。あたしがこんなところでぴーぴー泣いてるタマだと思った?〉」
サダクビアは鼻で嗤ったが、隣に腰掛けたアルに文句こそは言わなかった。
たしかにサダクビアはこんなところでひとり悲嘆に暮れているくらいなら、相手の男を徹底的に捻りつぶしにいきそうだった。
今の状況ではどう考えても彼女のほうがここの皆の信用を得ている。彼女はそういうところを抜け目なく利用できるしたたかな娘だった。
もっとも、そうする価値もないと思っているから野放しにしているのだろうが。
「〈ジュストから、わたしを探していたって聞いたの。なにかあった?〉」
アルの問いに、サダクビアはちょっと目を瞠って、それから視線を逸らした。
言いにくいことなのかもしれない。
アルも彼女に話があったので、特に無理強いはせずに口を開いた。
「〈昼間は、ありがとう。サダクビアがいなかったらどうなっていたか。……あなたのおかげ〉」
アルの言葉に、サダクビアは訝しげに眉根を寄せた。
「〈べつに〉」
サダクビアは組んだ足の上に頬杖をついて呟く。
「〈わたしね、言梯師になりたくて。……あ、言梯師って知ってる?〉」
「〈それくらい知ってるわよ。あたしの国にも昔はいたし、この国の言葉が喋れる人間だって少しは残ってた〉」
「〈そう……そのひとたちと話してみたいな。あ、それでね、これがわたしの言梯師としての初めての大きな仕事だったの〉」
サダクビアは顰め面をしながらも、アルの話に耳を傾けてくれる。
「〈でも全然だめで。わたしのせいで、助けられる人たちも助けられなかったらって思ったら、すごく怖かった〉」
だから、とアルは続ける。
「〈とても感謝してる。来てくれてありがとう。……わたしはもうちょっと頑張らなきゃ〉」
あのとき、アルは言葉を見失った。なにも言えなかった。
なにを言っても、イシュハの人々の心には届かない気がした。
言梯師失格だ。今のアルは言葉しか持たないのに、言葉を諦めた。
サダクビアはどこか苛立ったようにアルを見つめた。
「〈あのとき、あんたが口八丁で皆を説得していたら、それこそ暴動でも起きていたわよ。あのときあんたは、ただ謝ることしかできなかった。それが紛れもなくあんたの本心だったんでしょ。それはたしかにちゃんと伝わったわ〉」
思ってもみなかった言葉に、アルは呆気にとられた。
「〈いい? あたしはあたしを踏みにじった奴らがなにか高尚なことを言って説き伏せようとしたって、絶対にそいつらの言うことなんか聞いてやらない。たとえそいつらの言っていることに分があったとしてもね〉」
そう言って、サダクビアは少し長く息を吐き出した。
「〈今回だってそうよ。賢しらにご高説を垂れてきたり罪そのものをなかったことにしてくるような鳥頭の奴より、あんたのがずっとまし〉」
アルのやり方は拙かったが、間違いではなかったと、たぶんそうサダクビアは言ってくれていた。
「〈それに、どうせあんたみたいな頭のなかお花畑みたいな女に、あたしたちの気持ちなんて分かるはずもないんだから。あんたも前に言ってたでしょ〉」
「〈お、お花畑じゃない……〉」
アルの控えめな抗議にサダクビアは肩を竦めた。
「〈お花畑よ。あんたが大きらい。綺麗ごとばっかり言うその澄ました顔も、本気でその綺麗ごとを信じちゃってるところも、あたしを見下しているところも〉」
「〈見下してなんか――!〉」
「〈でも同情した。あんたたちに拾われた最初の宿で、あんた、あたしがどんなに厭な態度を取っても怒らなかったわね。かわいそうな異国の売女には、なにを言っても仕方ないとでも思った?〉」
アルは押し黙った。
それは図星だった。さすがに売女とまでは思わなかったけれど。
「〈でもそれ、元々は失礼すぎたサダクビアが悪いんじゃ〉」
苦しまぎれに膨れて言えば、サダクビアは「〈そうかもね〉」と微かに笑った。
「〈あんたのばかな綺麗ごとがいつ捻じ曲がるか見物だと思ったわ。だけど、あんたはばかを貫きとおした〉」
そう言って、サダクビアは胸元の砂漠の薔薇に触れた。
まるでなにかの儀式のように、彼女は折に触れてそのしぐさをする。
ローデンシアでも、生誕の《詩篇》の刻まれた首飾りを提げて、教会で祈りを捧げる者も多いが、それによく似ている気がした。
「〈だから、あたしはここにきたのよ〉」
「〈ば、ばかすぎて心配になって?〉」
アルの問いにサダクビアは蠱惑的な笑みを浮かべて小首を傾げた。
「〈さあね。言梯師様がそう思ったんなら、そうなんじゃない?〉」
「〈えっ、なにそれ。言いかけたことは言ってよ、もう。すっきりしないなあ〉」
アルがぶつぶつ言えば、サダクビアは口元に手を当ててくすくす笑った。
「〈誇りなさいよ。あんたの手柄よ。他の誰に乞われようと、あたしはこんなとこ来なかった〉」
アルが目を丸くすると、サダクビアはちょっと不愉快そうに「〈なによ〉」と唸って目を逸らした。
怒らせないようにそっとその顔を覗き込むと、彼女は観念したように微笑う。
「〈あんたはそのまま、そういうばかな言梯師になればいいのよ。あんたみたいなばか、どうせ周りが放っておけずに助けにくるんだから〉」
アルとしては、やはりひとりでも戦える言梯師になりたい。イニーツィオに安心して仕事を任せてもらえるような。
でもサダクビアの言うとおり、アルのやり方もまた言梯師の強さなのかもしれない。
人と人を結んで、人に助けられて。
今回、アルがグリエルモやジュストやクラヴィス、ルスキニアやサダクビアらに助けられなければここまで決して来ることなどできなかったように。
アルがこれからなっていくのは、そんな言梯師なのかもしれなかった。
アルはサダクビアをまじまじと見つめた。
アルのことを嫌いと嘯きながら、サダクビアがくれたのは、夜空に浮かぶ星の
「〈……サダクビア。わたしと友達になってくれる?〉」
自然と言葉が滑り落ちた。
サダクビアは呆気にとられた様子でアルを見た。
「〈あんた正気?〉」
「〈正気も正気。……だめ?〉」
サダクビアは酢を飲んだような顔をして絶句している。
それから俯きがちに、「あんたってほんとばかね」と囁いた。
でもアルはもう、彼女の口にするその罵り言葉が、ただの罵り言葉じゃないことを知っている。
「〈サダクビア――ってイシュハ語でどういう意味?〉」
「〈星の名よ。秋に見える、星の名前。今も見えてるんじゃない? どれだか知らないけど〉」
そう言って、サダクビアは空を仰ぐ。
今宵は雲が架かっていて満天の星空とはいかなかったが、ぽつりぽつりと闇夜を照らす星屑が上空に散っていた。
「〈きれいな響きだよね。よく似合ってる。今度イオにどの星か教えてもらおうよ〉」
そう言えばまた、サダクビアの眦がきゅっと吊り上がる。ちょっとだけ睨まれかけたが、彼女は少し長い溜め息を吐くと、「〈そうね〉」と投げやりな返事をした。
「〈あの王子といえば、あんた男の趣味悪いわね〉」
アルは顎を落とした。
「〈わ、わたし、イオにそういう気はないよ!〉」
「〈でもどういう感情でも、あの男に本気でしょ?〉」
それはまあ、否定できないので押し黙る。
「〈……ま、なんかあったら泣き言くらいは聞いてあげるわ〉」
苦笑まじりの声に驚いて顔を上げれば、サダクビアは「〈友達なんでしょ?〉」と首を傾げた。
自分から言いだしたことだが、サダクビアからまさかそんな言葉が返ってくるとは思わず、アルは頬に手をやった。
熱い。たぶんちょっと赤面している。
それがうつったのか、サダクビアの花顔にもほのかに赤みが差していた。
「〈あんたってほんっと、めんどくさい女ね!〉」
サダクビアはそう吐き捨てて、立ち上がる。
「〈あー、もう中に入るわ。さむいし。あんたはムカつくし。あたし、村長の家の向かいの家に行くから、あんたも後できなさいよ〉」
「〈え? わたしも一緒に……〉」
「〈あんたの王子様、まだ墓地にいるわよ。行ってきたら?〉」
サダクビアはそう言って、北の方を指ししめす。
ずっとイニーツィオの姿が見えないと思っていたが、まだ墓地にいたのか。彼は、治療が間に合わずに亡くなったイシュハの人々を埋葬する役を買って出ていた。
本来ならば、イシュハの地に還すべきではあったが、彼の地はローデンシアとちがい熱帯にあるため遺体の腐敗が早い。出来るかぎり早く埋葬し、生前の姿を保ったまま魂を原初の海に還してやるのが、イシュハの人々が望む葬送なのだとサダクビアが言っていた。
だから、死者をこの町の墓地に埋葬することにしたのだ。
イニーツィオと一緒に作業をしていたイシュハの男たちが戻ってきていたから、てっきりもう帰ってきていると思っていたのに。
「〈……ありがとう〉」
「〈気をつけなさいよ〉」
アルは頷くと、お尻についた砂をはらって、立ち上がる。
もうほとんど闇のなかに沈んだ町を歩くのは少し恐ろしかったが、そんな場所にイニーツィオひとりを残しておくほうがずっと怖かった。
再会してからの彼は、今にも掻き消えてしまいそうな儚さは影をひそめて、前を向いているように見えた。
ナザリオと昼に話をしてアルの元に戻ってきたイニーツィオは、なにも言わなかった。ただ患者たちの治療を手伝うだけで、その顔には笑みすら浮かんでいた。
だからこそ、彼の話を聞くべきだと思った。
あのひとが、嘘を吐くのが上手だからではない。
あのひとが、誰より優しくて、誰かを傷つけることをなによりおそれるひとだから。
アルは外套の裾を翻し、夜の町を駆けた。
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