第5話 心の在処

 ざく、ざく、と硬い土を穿つ音が響いている。イルレゴラーレの町の墓地は、中心部から少し離れた雑木林の向こうにあった。

 音のするその先に、アルの探し求めるひとはいた。

 さすがにここまでは油は撒かれておらず、篝火に照らされて、少し乱れた闇色の髪が幾通りにも色を変えている。彼のうつくしい柘榴石の眸は、前髪に隠されて窺い知れない。

 イニーツィオの周りには沢山の盛り土がしてあって、そのいずれにも木の板や石にイシュハ文字で故人の名前が刻まれていた。

 背後には、布に包まれた遺体がまだ一人分あった。

 アルは黙って傍にあった鍬を手に取り、彼の向かいから土を掘り起こしはじめる。


 梢がさやさやと揺れる音と、地面を掘り返す音。それからアルとイニーツィオの息づかい。そして土のにおいだけがその場を漂っている。

 人ひとり分の土を掘り返すと、イニーツィオが遺体をひとりで抱えようとする。その遺体の足部分に手を添えて、ふたりで土のなかにおさめた。

 身体は思ったよりも小さく、軽かった。布の中身は見ていないが、おそらく子どもの遺体だった。

 微かに薔薇の香油のにおいがした。葬儀の際に使われたものだろう。葬儀は、イシュハの人々の手によって、できるかぎり彼らの送り方に近いものが行われた。


 イニーツィオは遺体の肩のあたりにそっと触れて、静かに目を閉じる。

 少し躊躇うように、ローデンシア語で死者を悼む聖句が述べられた。言葉や文化がちがえど、その心にちがいはない。そう思うからアルも、イニーツィオに倣った。

 黙りこくったまま、その場に凍りついたように膝をついているイニーツィオの手に触れる。

 彼の手は、氷のように冷たかった。

 アルはもう片方の手でその手を握り込む。それでは飽きたらず、胸元まで彼の手を引き上げると、そっと息を吐いて温めた。赤くなった手指が痛々しく、何度かその行為を繰り返す。細く立ちのぼった吐息は、イニーツィオのものと融けあって、やがて虚空に霧散した。


「土を掛けますから、下がっていてください」


 そう促せば、頭を振ってイニーツィオも鍬を持った。遺体に丁寧に土を掛けていく。土を固めると、アルは墓碑をその上に挿した。

 墓碑に刻まれた文字は、イシュハ語で泉を意味する名だった。

 イシュハ語の名前は、星や水に関係するものが多いと聞く。

 ふたたび聖句を口にしてようやく、イニーツィオの強張った身体からふっと力が抜ける。

 相当参っている様子だ。死者の数が思ったよりも多かったこともあるし、ナザリオのこともあるのかもしれない。

 これは一刻も早く、村の中心部に戻った方がよさそうだった。


 地面に転がっている鍬や鋤を手早く集める。

 屈んだ身体を起こしたところで、後ろから腕が伸びてきた。イニーツィオだ。

 少し控えめに彼の腕の重みが肩に掛かる。


「……こまったひとですね」


 鎖骨の前で組まれた腕に手を添えて、アルは囁く。

 その身体が怯えたように身じろぎして離れようとしたので、アルは彼の片方の腕を掴む。宥めるように土のにおいのするこわばった前腕のあたりを撫ぜた。


「またそんな顔をしているのに、どうしてひとりきりになったりしたの」


 ささめくように問う。

 イニーツィオはアルの後ろにいて、彼の顔なんて全然見えなかったけれど、柘榴石の眸を縁取るゆるやかな曲線を描いた睫毛が今、雨滴を弾いたように濡れているだろうことは想像がついた。

 イニーツィオは、頽れるようにアルの肩口に顔を埋める。

 くぐもった声が耳元で響いた。


「――俺たちが来てからだけでも、二十人以上が死んだ」

「……ええ」

「来る前の人たちを入れたらきっと、五十人は下らない」

「そうですね」


 イシュハの人々のほかにも、数名の医者とナザリオの兵らの遺体もあったと聞いている。


「――おれのせいだ」


 引き絞られるようにして空気に触れた言葉は擦れ、ひそやかな小夜風にさえ頼りなく揺れていた。

 イニーツィオがナザリオの企みを知ったのは、このイルレゴラーレの町に連れてこられる途中に逃げ出した、ルスキニアとリゲルから話を聞いたことがきっかけだろう。そしてルスキニアにリゲルを任せて、イシュハ語話者を探しにクラヴィスの居城であるドクトゥス砦を訪ねた。クラヴィスには間違っても事件を勘づかれないように、砦では自堕落な王子を演じて。


異母兄あにを止められると思ってた。まさか異母兄が本当にそんなことをするはずないって。最初にルスキニアが、異母兄が治療を諦めてイシュハ人を殺すつもりだって教えてくれたときも、勘違いだって言って取り合わなかった。グリエルモの殺害未遂に異母兄上が手を貸したのは、君があの本を持っているのを見て知った。それで言梯師選を巡る陰謀とイシュハ難民のイルレゴラーレへの収容、ふたつの事件はつながっていると確信した。全部異母兄上が仕組んだことだって。それでも俺は、俺が死ねば異母兄上は元通りになるって馬鹿みたいに信じ込もうとした」

「わたしもルモーレでナザリオ殿下の矛盾に目を瞑りました。……自分の見たいものだけを見ようとした」


 イニーツィオは頭を振った。

 アルの手を離して、後退りする。


「俺は、異母兄上のためにそうしたんじゃない。昼間も言ったでしょ。俺は、異母兄上のためだとでも言って胸を衝けば、異母兄上から感謝されて、あわよくばまた死んであいしてもらえると思ってた。異母兄上のためでもイシュハの人たちのためでもなんでもない。ただ俺は俺のために――!」


 その言葉の続きは、篝火がぱちぱちと爆ぜる音にさえ掻き消されて、声にはならない。しかしアルには声なき慟哭が聞こえたような気がした。

 アルはイニーツィオを振り返る。彼の視線は、先ほど二人で埋葬した墓をじっと捉えていた。

 この墓の山が築かれたのは、すべてが人災ゆえではないだろう。でもたしかに、ナザリオもイニーツィオもアルも、そしてこの国の在り方も墓を増やすのに加担した。

 イニーツィオひとりに罪があるとは決して思わない。

 だけどそれを庇うことも慰めることも、アルにはできない。彼が王太子であるかぎり。


「でも、イオはナザリオ殿下を糾弾した。そうですね?」


 アルにはそれが、イニーツィオの答えだと思う。

 この人は、彼ができうるかぎりのイシュハの人々をその手ですくいとり、そしてもっとも愛する異母兄の凶行を寸でのところで止めた。

 しかしイニーツィオは乱暴な空笑いをした。


「……玉座は明け渡せないと告げた。――どの口で」


 まるで自分自身を呪うような響きだった。


「俺が父上の後を継ぐことが相応しくないことなんて、俺が一番よくっている。……なのに」


 イニーツィオはアルを見ない。しかしその視線はアルの手指のあたりを彷徨っている。


「……君と居るのは怖かった。とっくに覚悟を決めていたつもりだったのに、君に逢ってからしょっちゅう死にたくなくなるし、異母兄上に君を渡したくないって、俺の隣にいてほしいって、そう思った。でもこの感情すら俺のものなのか分からない。エジカにそう思わされているだけなんじゃ、とも思った。そうすれば俺が、《詩篇》どおりに王位を得るから」

「……わたしは、いらない?」


 アルの問いにイニーツィオは顔を上げた。

 少し強く、睨みつけられる。


「わたしがイオを支えたいと願う気持ちも偽りですか? あなたにぜんぶあげたいと思ったのも」


 アルは頭を振った。

 そっと心臓の上に手を置く。


「わたしはそうは思いません。わたしの心は、わたしだけのもの」


 そう言って、アルはイニーツィオにわらってみせた。


「あなたの心を育てたのはきっと、グリエルモ様やクラヴィス公や、ナザリオ殿下や国王陛下――イオの大切なひとたちなんだと思います。それも全部偽りだと言って切り捨てますか?」


 イニーツィオは泣き出しそうな顔をした。

 そうは思わないと彼の全身が叫んでいた。


「あなたがわたしに信頼をくれたのも、たったひとりの命に立ち竦むのも、あなたがあなただから」

「でも、それは俺が弱いだけだ。誰かひとり喪うのも耐えられないような人間に、……王なんて」

「……簡単にひとを喪って、それを背負えてしまえるようなひとだったら、こんなにあなたを望んだりはしなかった」


 アルはイニーツィオの方へと足を進めた。

 彼は逃げない。身体が触れ合うほどの距離で、イニーツィオは立ち尽くしている。

 アルはイニーツィオの手を取りかけて、その手を引っ込めた。


「あなたがどうしても王になりたくないと仰るならば、逃れる手段を考えます。世界の涯でもどこへでも、送り届けてみせます。……でも、もしそうでない気持ちがあるのなら」


 アルはまっすぐにイニーツィオを見つめた。


「あなたの道行きに、わたしを加えてください」


 イニーツィオはぼうっとアルを見つめ返した。

 その顔が静かに仰向く。もうほとんど雲に覆われて星も月も見えない夜昊にしかし、彼はなにか確かなものを見いだしたようだった。


「……シリウス王の御代に、憬れていたんだ」

「はい」

「ルーナ=プレナを傍に置いてからの、彼の治世に」


 覇王と謳われた、血に塗れた初代国王は、ルーナ=プレナとともに、やがて荒廃しきった土地に新しく畑を均すように地道な政を行うようになる。

 イニーツィオもまた、エジカに覇王とさだめられた王だった。誰よりもその言葉が似合わぬのを、アルはよく識っているのに。


「異母兄上が、そんな王になって、それを俺は傍で支えるんだって信じてた」


 その夢は、おそらく叶うことはない。

 《詩篇》はこうも人を縛るのに、明日の景色はまるで見えない。信じていたものは簡単に崩れ去って、しょっちゅう道の真ん中で途方に暮れる。どう生きるのが正しいのか、自問自答は尽きなくて、両の足はすぐに使いものにならなくなる。

 でも。

 灰になりそうになる身体の裡で、心の奥底で、まだしぶとく燃えている焔がある。


 イニーツィオはそっと耳環に触れた。


「玉座に座る。君を、連れてゆく」


 その思いつめた顔は、まるでアルを地獄に連れてゆくとでも言っているかのようだった。

 アルは苦く微笑って、今度こそ彼に手を伸ばした。

 それでも指先を震わせて躊躇っているイニーツィオに焦れたように、アルは大きく一歩を踏み込む。

 両の手で、いくつか泥の散った彼の頬を包む。


 このひとは、たったひとりの命の前に立ち竦む。

 あなたはそれを弱さと呼ぶ。でもわたしにとっては、そのつよさこそが――。


「わたしの、王」


 あなたとともに、この道をゆく。

 イニーツィオは顔をくしゃくしゃにして、唇を噛みしめる。そのまま、ほとんど縺れあうようにアルをきつく抱き寄せた。

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