第6話 明日へ
藍の天に、横一線に走った橙の光が滲んでいる。夜明けだ。
何度か寝てみようとはしたものの、目を瞑ってはすぐに些細な物音に飛び起きた。もはや生きていたところで意味もないのに、まったく身体は生に貪欲なものだと思う。
肌寒さと倦怠感で意識がぼんやりとしている。もしかすると、熱が出ているかもしれない。肩の傷は大したことはなかったが、太腿の方は身体を動かすとどっと血が溢れだした。凭れた背中の位置を直すのにも難儀する。
何度か夜の間に野犬か狼かの金色の眸が、獲物がくたばるのを待ってじっと闇のなかで光っているのが見えた。
奴らに食い荒らされる最期もそれはそれで悪くはないかもしれないと思ったが、いつの間にか獣たちの姿は消えている。上空を猛禽類が旋回していたが、その鋭い嘴も、ナザリオの肉を裂くことはなかった。
戒められた腕を見下ろし、その傍に置かれた汚れた毛布と、水差しに目をやる。
クラヴィスが置いていったものだ。ナザリオの周りには、その存在を主張するようにいくつかの轍ができていた。
ちょうど車輪の回る音がした。
ナザリオは舌打ちしたいのを堪えて、瞼を下ろした。
にも拘わらず、なにか硬いものに顎を引き上げられる。
渋々目を開けば、その辺に落ちていた木の枝がクラヴィスの手に握られていた。
「麗しのご尊顔が台無しだな」
乱れて血糊のこびりついた髪はあちこちを向いていて、顔にも泥が乾いてはりついていた。アダマスの末裔たれと振る舞っていたときは身だしなみひとつにも気を張っていたが、もはやそんなことにかかずらおうとも思わない。
ふたたび瞼を引き下ろしたが、性懲りもなく顔をつつかれる。枝の先の繊維が刺さるのが不快で、ナザリオはクラヴィスを睨み上げた。
「失せろ」
「指図されると、そうしたくなくなる性分なんでね」
クラヴィスは片頬を上げて嘯いた。
「なあ、教えてくれよ。なんでこんなことをした?」
いっそ柔らかでさえあるその問いの響きに、ナザリオは激昂した。
「お前や父上と同じだ。エジカの思惑通りに悲劇を起こして、
荒げた声に、クラヴィスは車椅子の肘掛けにひとつきりしかない肘をついて、嘲るように笑った。
「ちがうな。お前のは、全然ちがう」
断言して、クラヴィスはその糸繰草の色をした眸を細めて、小首を傾げた。
「イシュハの連中を救いたいだけなら、どうして王都の言梯師選も掻き回した? リチェルカーレの目障りな敵潰しに力を貸してやった? 母上の家族に気に入られれば、死んだいとしの母上によしよししてもらえるとでも思ったか?」
ナザリオは目を見開いた。
絶句したナザリオにもかまわず、クラヴィスは歌うように続ける。
「グリエルモのこともそうだ。お前、前に奴を王笏に乞うたそうだな。でも奴は断った。お前がイニーツィオを殺して玉座につこうとしているのを聞いてな。憧れのジジイにそっぽ向かれて、いい歳こいて逆ギレか?」
「――黙れ」
罅割れた声などでは、クラヴィスの淀みなく回る舌は止められない。
「なあ、お前のそれはぜーんぶ、自分かわいさのためだよな? そうだよなあ。見下していたハラ語すらろくに喋れなかった、よちよちぴよぴよしていたガキに全て奪われたんだ。そりゃあ、はらわたも煮えくり返る」
だがな、とクラヴィスは続けた。
「お前は分かっていたはずだ。異母弟が本当はローデンシア語を喋れることも、アホの子じゃないことも、女を抱けない振りして間違っても王位争いの火種をつくらないようにしていることも、ぜーんぶな。でもお前はそれを否定せずにいた。馬鹿なぽっと出の庶子に王位を奪われた、かわいそうな悲劇の人物気どりしていた方がずっと気は楽だったからだ。お前はずっと被害者面し続けた。異母弟が死んで王位を譲ろうとしていたことにだって気づいていた。だけど、奴に哀れまれるみたいで矜持が赦さなかったんだよなぁ?」
「……だまれ」
もはやその言葉に意味なんてないと分かっていたが、それ以外になにひとつ言葉が見つからなかった。
「“民の贄たれ”。ジイさんがお前に教えた言葉だったな、ナザリオ。だがお前はジイさんを殺そうとし、大義のためとイシュハ人は焼き殺そうとし、お前を慕っていた異母弟のこともお前に異を唱えた小娘のことも手にかけようとした。……救いようがないよ、お前」
クラヴィスの言葉が刃物のように皮膚の内側を切り裂く。
この不具者の宰相がバルトロの寵を得たのは、エジカ・クロニカに抗ったそれゆえではない。エジカ・クロニカが絡もうと、絡むまいと、いつだって王土中を見渡して、ひとりでも多くをその手に掬い上げようとした。
上手くいかないことの方がずっと多かったけれど、その愚直さに父がすくわれていたのを識っている。
「エジカ・クロニカに一番支配されているのはお前だよ、ナザリオ」
嘲笑うのに失敗した、みたいな奇妙な表情でクラヴィスが告げる。
「――なあ、ナザリオ。いつから自分を見失った?」
今までとちがった調子で、静かに声が落ちる。
「お前の目指していたお前は、そんなにおぞましい生き物だったか?」
その問いに、ナザリオは返す言葉を持たなかった。
空が白み、辺りがまた少しほの明るくなる。しばらくだんまりを続けていたら、クラヴィスが弾かれたように顔を上げる気配がした。
「――まさか、」
いつになく切羽詰まった声に、ろくに使いものにならなくなっていた五感が覚醒した。
「……
明けの昊に、炎を帯びた矢の雨が流星のように降っていた。見当違いの方向に放たれたそれがナザリオらの上空に迫る。気づいたときには、クラヴィスの身体を引き倒していた。
「――おまえ、」
クラヴィスの呆けたような声が聞こえて、身体の上に乗っかった、子どもほどの頭身しかないそのひとをぺいと地面の上に放る。
ぼっと音を立てて、車椅子の木製の部分が燃えだす。間一髪だった。
怪我をしていないほうの足で車椅子を蹴倒す。
「俺の渾身の作品が! これ作るのにどれだけ金積んだと思ってんだ!?」
地団駄を踏む代わりに地面をバシバシ叩きながら、クラヴィスが憤慨する。
しかしナザリオはそんなことに構っていられなかった。
振り返ったイルレゴラーレの町は、朝靄のなかで赤々と燃えていた。嫌な臭いを漂わせて、もくもくと黒煙が藍の天を染めている。
「念のため聞くが、お前じゃないな?」
「……ああ。私の手の者にも、命じていない」
指先が震えた。
元はみずから行おうとしていたこととは百も承知だ。人々を集め、油を撒かせたのもナザリオの所業だった。
でも。
「……このままこの町が助かっちゃ困る連中の仕業だな」
クラヴィスが吐き捨てるように言って、火箭の射手がいたであろう東の方角を睥睨する。
立ち上がって、東の方へ足を踏み出しかけると、その手を掴まれ引き戻された。
「馬鹿、行くな。行ったところで今のお前じゃ無駄死にだ。どうせ犯人役に仕立てられたお前の配下の死体がひとつ、今日中にどこかに転がることになる。これ以上死体を増やすな」
クラヴィスの言うとおりだった。
握りしめた拳から血が滴る。肩の傷が開いたのかと思ったが、気づかぬ間に爪で掌を抉っていたらしかった。
“
己の行いが、《詩篇》の成就の呼び水となったことは疑いなかった。
イルレゴラーレの町からは、叫び声や誰かが必死になにかを呼び掛けているような声が聞こえていた。
壁を伝ってふらふらと歩きだせば、また腕を強く引かれた。
「いいから待ってろ。お前がアダマスの誇りを渡した男はそんなにやわじゃない。あの娘もな」
「あの出来損ないには――」
無理だ、という言葉は言葉にならなかった。
本当はそんなことは、とっくに理解していた。
何度冷たくあしらっても、いつだって心を差し出してきた異母弟が、見た目通りの軟弱な男ではないことなんてよく識っている。
ナザリオは、錯乱した母に一度自分の子ではないと言われて凍りついた。グリエルモに拒絶されてからは、二度と彼に近づかなかった。アルに会いに行くにも、グリエルモの不在の時を狙った。自分がどれほど臆病者かは分かっている。
あれほど酷く当たっておきながら、昨日は異母弟にもついに見放されたと思って怯えた。
異母弟を憎んでいたはずなのに、無条件に寄せられる情に甘えていたのは己のほうだった。
滑稽すぎて笑いが込み上げてくる。
昨日、イニーツィオははっきりとナザリオを断罪した。まだ異母兄上などと嘯きながら。
その眸は、ナザリオが独善のために棄てたものをまだ手放していないのだと、なぜお前はそれを手放したのだと強く強く批難していた。
どちらが王位に相応しいかなど、火を見るよりも明らかだった。
「それにお前が行ったところで、現場を混乱させるだけだぞ。最悪殺しに来たとでも思われるのがオチだ。お前はそういうことをした」
だからお前にできることはなにもないと、クラヴィスの冷徹な眸が告げていた。
たしかになにもかもクラヴィスの言うとおりで、ナザリオは押し黙る。
力なく大地に膝をつくと、手のひらになにか硬くて小さなものが落ちてきた。
それを引き寄せて瞠目する。
九年も前に棄てた、イニーツィオと揃いの金剛石の耳環だった。
「お前が十九のときの落とし物だ。俺が預かってた。どうするかは自分で決めろ」
視界が融けおちかけて、唇を強く引き結んだ。
泣く資格はない。本当は呼吸をしている資格すら。
クラヴィスの情の深さに甘えることも以ての外だとよく分かっている。イニーツィオと同じ証を持つなど、正気ならできない。
なのに。
握りしめたそれを、どうしたって手放すことができなかった。あまりにも身勝手すぎて、吐き気すら覚える。
「ナザリオ」
呼ばわれ、ゆるゆるとクラヴィスに視線を合わせた。
怜悧な、深淵を見通すかのような紫の眼差し。
まだ十代だった頃はこの眸に映してもらいたくて、金魚の糞のように後をくっついて回っては鬱陶しがられていた。
見限られて当然のことをし続けたのに、クラヴィスはナザリオを見つめることをやめない。
「どんな罪も、たとえ相手に赦されようとも、そいつは一生抱えてなけりゃならない。いいか、一生、死んでもだ。――だがな」
そう言って、クラヴィスはあるかなきかの笑みを浮かべる。
「人間、やり直すことだってできる。なあ、ナザリオ。本当だよ」
バルトロ国王に生き写しの、と数々の吟遊詩人から讃えられた黒瞳から、ついにはぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
* * *
火の手はイルレゴラーレの町の北部を除く全域に回り、木造の借家のことごとくを焼き尽くした。元々この町に住んでいた住人たちの家財道具一式も思い出もなにもかもを飲み込み、炎は町を灰に変えたが、しかし火事による死者はただのひとりも出なかった。
元々病の進行度に応じてイシュハの人々をそれぞれの家に割り振り、誰がどこにいるのか把握していたのもあったし、アルの通訳がなくとも、ローデンシア人とイシュハ人のそれぞれが意思疎通をある程度はできるようになっていたこともある。
動けない患者や煙に巻かれた人々のことはイニーツィオとジュストが助けだした。
イルレゴラーレが炎上してからのアルたちの動きに、ただのひとつも瑕疵はなかった。
ただ皆が、全員が無事に町を脱出することを願って行動した。
それでも火傷や打撲、裂傷を負った者はいて、ルスキニアら医師たちが適切な処置をした。
アルたちは、まだ黒煙を上げている町を背後に黒字病患者たちの治療を施していた。
鷲便で、間もなく房舎馬車がイルレゴラーレの町に辿りつくとの報が届いたという。念のため、すでに別の街に避難しているイシュハの民を守るために警備が強化され、その対応で房舎馬車の出発は遅れることになった。
最後の黒字病患者の処置を終え、ルスキニアが会心の笑みを見せる。ローデンシア人の医師たちはまだ、薬草や包帯を抱えて右往左往していた。
太陽はもうほとんど中天に昇っていた。
ジュストは病人たちの運搬係を主に務めていたせいか、曠野に寝そべっている。ちょっと他では見られない姿だ。サダクビアはアルの横で欠伸を噛み殺して、うつらうつらしている。クラヴィスはというと、車椅子の新しい設計図を引いていた。さらに高機能化すると息巻いている。
イニーツィオは先ほどまで皆から隠れるようにして、曠野に生えた大樹の陰をこそこそ訪っていた。
火事騒ぎがひと段落すると、ナザリオが倒れたのだ。出血多量と傷が化膿しているということで、ルスキニアが皮肉と愚痴を言いまくりながらも処置を施し、容態は安定したらしい。しかし目を覚まさないというので、イニーツィオが時折様子を見に行っていた。
たった今帰ってきたイニーツィオの顔は優れているとは言えなかったが、アルを見つけるとすぐにその表情が柔らかくなった。
「殿下は?」
この場所には、ナザリオによって傷つけられた者が多すぎる。
声を潜めて問えば、イニーツィオはアルの前にしゃがんで「まだ目を覚まさないけど大丈夫」と囁いた。
イニーツィオはそれから、燻った炎と煙を上げているイルレゴラーレの町を仰いだ。
「結局、《禁詩篇》の言うとおりになっちゃったな」
その言葉に、アルは拳を握りしめた。
これが、バルトロやクラヴィス、グリエルモ、そしてナザリオやイニーツィオがこれまで対峙し続けてきた呪いの正体だ。
アルは事前に聞いていてそれなりに覚悟は決めていたはずなのに、いざ目の当たりにすると愕然と立ちすくんでしまう。
まるで人の意志など、無意味だとでもいうかのように。
大河のなかに小石をひとつやふたつ置いたところで、その奔流を押しとどめることなどできやしない。そう嘲笑われているかのようだった。
これからイニーツィオとアルが足を踏み入れるのは、そのような呪いの中心だ。
「――だが考えうるかぎり、一番マシな結果だ。よくやった。ぴよぴよしたひよこなりにな」
クラヴィスの声が割って入る。驚いて見上げれば、ジュストに作らせた即席の机と椅子で寛ぎながら、彼は口元をほのかに綻ばせていた。
「――なあ、これがただの敗北だと思うか?」
アルは小さく頭を振った。
たしかにエジカの《詩篇》どおりの結果にはなった。でも。
たとえ拙くても、掬い上げられるものは全部、貪欲に掬い上げた。
後悔がまったくないわけではない。ここに至るまでに沢山の罪と死に塗れた。
でもそれでも。
燦々と降りそそぐ陽射しのもとで、イシュハ人の子どもたちがおにごっこをしてはしゃぎ回っている。すぐ横では、ローデンシアの医師が呆れたようなイシュハ人の女となんとか意思疎通を図ろうと両手を大袈裟に動かしているところだった。
この光景もすべて、エジカの思惑通りだったというのだろうか。
細い糸を手繰るようにして至ったこのときが、どうして無意味だと言えるだろうか。
アルは小首を傾げて、イニーツィオにそっと語りかける。
「ねえイオ。わたし、前に言いましたね。言葉は人と人を結ぶものだって。絶対なるものが人をすくわないとき、人をすくうのはまた人なのだとわたしは思います」
イニーツィオは、アルを眩しそうに見やった。
「だから、わたしは言葉でもってあなたを支える。なにもおそれることはありませんよ」
それが精いっぱいの虚勢だったことなんて、イニーツィオにはお見通しだったろう。けれど彼はアルの手に手を重ねて微笑んだ。
「うん。君とともに、この道をゆく」
やがて大地を揺らす馬蹄の音が聞こえてくる。
曠野に、ひと際大きな歓声が轟いた。
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