間章 王星墜つ

王と元宰相

 しんしんと雪が降っていた。

 七年ぶりに無い脚、、、を踏み入れた王宮は、冷たくかつての宰相を迎え入れた。厚い闇に鎖された夜の宮は物言わず、ただ霜天の息吹を纏って、クラヴィスの手指を凍えさせる。

 白亜の宮殿の回廊を照らす篝火は、頼りなく揺れていた。いくつもの影がちらちらと視界を過ぎる様は、さながら招かれざるまろうどを拒絶しているかのようだった。

 回廊を折れた先に、見知った矮躯の老人が背筋をぴんと伸ばして佇んでいる。文は数えきれないほど交わしていたとはいえ、彼に逢うのも久方ぶりだ。

 随分とやつれたように見える。しかしその理知に冴えた碧玉の双眸は、往年と寸分たがわない。どころか、ますます深く研ぎ澄まされた光を宿しているようにすら思えた。


「おかえりなさい、我が主」


 淡く笑んだ眸の奥に、揶揄うような悪戯めいた色が兆す。

 クラヴィスがそう呼ばわれるのをむずかっているのをって、わざわざ口に出すのだから性質が悪い。歳月はこの老爺の性格の悪さを正しはしなかったらしい。


「お前の寄越したこれ、きいきいぎいぎい言ってかなわんぞ」


 そう言って、新調した車椅子を指差せば、グリエルモは露骨に顔を顰めた。


「仕方ないでしょう、急ごしらえなんですから。落ち着いたらご自分でおつくりなさい。……よく、無事にお戻りで」

「お前もな。まあ、心配してなかったが」

「心配くらいはしてくださってもよろしいのに」


 涼やかな流し目をくれて、グリエルモは口の端を吊り上げる。

 若い頃も今と変わらず本の虫で、陰気に書庫に籠もっていたくせに、やたらと周りに黄色い声を上げるご令嬢がたが群がっていたと聞く。

 それはこういうところだろうなとクラヴィスは思ったが、非常にイラっとくるので口には出さない。

 グリエルモはクラヴィスの背後に回ると、車椅子を押して歩きはじめる。


「さっき地下牢の様子も見てきたが、そう劣悪な環境でもない。……ま、あれなら頭も冷えるだろ」

「腐った看守たちは、端からクビを切らせましたからね。あとは本人次第です」


 第二王子ナザリオはというと、イシュハ人とローデンシアの医師を私刑に処そうとした罪で、牢屋に放り込まれた。

 慣例どおりであれば、ナザリオだけでなく、今回の事件に関わった人物は全員、異域いいき干渉罪で処刑されなければならない。

 だが、イシュハ人と二、三口を利いただけの人物なども含めれば、あまりにも関与した人間が多すぎた。少なくとも南部の人口の五分の一程度を処刑して回らなければならないため、いったん保留になっている。

 王太子イニーツィオが、評議会に異域干渉罪の廃止を掛け合ったのだ。

 もっとも、の大罪はイシュハ滅亡が契機となり制定された罪であるため、即廃止にはならないだろう。とはいえ、つ国の書物を所持していただけで即処刑という、現行の頭の腐ったような制度は革められるはずだ。


 公には存在を認められていなかったイシュハの人々は今、一時的にキァーヴェ村などの親イシュハの地域に身を寄せていた。ルスキニアら医師が予後の観察をしている。今のところは全員が快方に向かっているらしい。

 サダクビアら今回の事件に大きく関わった数名のイシュハ人は、裁判の証言者として王都を訪れていた。彼らの世話役はアルが務めている。

 外つ国の人々との関わりかたも、転換期にきていた。


 今回の事件は、ナザリオが《詩篇クロニカ》を覆そうとしたという一点は公表されずに報告されている。ナザリオは少なくとも死刑は免れるはずだった。

 王太子がアホすぎるという評判はなかなか払拭できるものでもなく、イニーツィオ即位後に王位継承権第一位となるナザリオを担ごうとする勢力も蠢いている。加えて、イシュハの人々を思えば吐き気を覚える話だが、国を守ろうとした立役者としてナザリオを擁護する勢力も台頭してきていた。

 もっとも、刑期を終えたナザリオがそういう連中に与することはおそらくない。少なくとも、クラヴィスはそう信じている。


「《教会》は、やはり尻尾は出しませんでしたねえ」


 イルレゴラーレの町に火箭ひやを放った下手人は、翌日にルモーレの街で死体となって見つかった。

 ナザリオの私兵のひとりだった。

 王都に連行される途中で忽然と姿を消したことから捜査線上に浮かびあがったが、イルレゴラーレに残っていた火箭に彫られていた印と遺体の近くに落ちていた矢に彫られた印が一致していたことが決め手となり、実行犯として片づけられた。

 もっともそれが真実かどうかは疑わしく、クラヴィスやグリエルモなどは《教会》の関与を疑っていた。

 今のクラヴィスとグリエルモには権力のけの字もないので、追撃することは叶いそうにない。


「あの子もなんとか金剛宮への出戻りを認められて、よかったです」


 しれっととぼけてそんなことを言う顔に、クラヴィスは胡桃をぶん投げてやりたい衝動に駆られる。

 グリエルモの異域干渉罪の罪状の取り下げとともに、金鏡きんきょう官吏アル・スブ=ロサへの捜索の手もいったん止んだ。

 しかしイニーツィオが捕縛したナザリオとともにアルを伴って金剛宮に帰還すると、城内は騒然とした。

 愚者を絵に描いたようだった王太子が、なぜか無駄にやる気を見せてカルディア・リチェルカーレに決まっていた言梯師げんていし候補をアル・スブ=ロサに挿げ替えたこともあるし、彼女の顔が失踪した禁書室勤めの金鏡官吏にそっくり――というか、実は同一人物だったということもある。

 当然のように、アルはこれまで性別を偽って金剛宮に務めていた罪を問われることになった。

 しかしそこで助け舟を出したのは、またもやグリエルモだった。

 又聞きでしかないが、アルを排除しようとする高官たちとグリエルモの間にこんなやりとりがあったと聞いている。


『金鏡官吏制度は、そもそも今や男子のみにひらかれた制度だ。それを性を偽るなどとは陛下への裏切りだ!』

『……たしかに、大学の入学規定には男子に限るとあります。ですが、アルは大学を卒業した学士ではありません。あくまで私が個人的に指導を行い、そして金鏡官吏の試験を合格した。試験の規定には、男子に限るとの文言は一言も書かれていませんでした。私が目を皿のようにして読みまくったので、間違いありません。なんでしたら、当時の文書をご確認ください』

『――詭弁だ!』

『ええ、そう言う者もおりましょう。ですが法は法。守らねばなりません』

『だいたい、また女なぞこの神聖なる金剛宮に招きいれてなんとする! この国を廃滅はいめつの国のごとく滅ぼしたいのか!』

『アルは今回の騒動を治めた立役者のひとりです。――南部が混乱していたとき、あなたはなにを?』


 南部に黒字病こくしびょうが流行し始めているという噂を聞いてから、屋敷の扉を固く閉ざしてろくに金剛宮にも顔を出さずにいた高官たちは沈黙した。


『私もかつて失政を行いましたが、それでも“男は”などと一括りに断じられはしません。それが女性になると、なぜいちいち“女は”と言われるのでしょう。妙だとは思いませんか?』


 その問いにも、理の通る答えを返した者はひとりとしていなかった。

 ついでに次期国王たる王太子がアルでなければ嫌だと駄々を捏ねたので、貴族たちも渋々折れざるを得なかった。

 言梯師自体は、今のローデンシアではさほど重要な職ではない。ここ最近は王の言梯師たる王笏と宰相の座が兼任されることが多かったが、必ずしもそうである必要はなかった。

 宰相をカルディア・リチェルカーレに任じるとする議決に、イニーツィオは異を唱えなかった。もちろんアルを金剛宮に引き入れるためのイニーツィオの妥協案だったが、高官たちは彼がそれほど頭が回るとは露ほどにも思っていなかったので、王太子のおねだりを聞いてやることにした。次期国王をここで懐柔しておくほうがなにかと得と踏んだのである。

 グリエルモはすでに天井を突いていたアルの好感度をさらに爆上げさせて、泣いて抱きつかれて、あげく「あなたをかならず守るとお約束したでしょう」などとゲロをもよおしそうな台詞を吐きやがったとかで、お株を奪われたイニーツィオとジュストにすごく微妙な顔をされていた――らしい。

 クラヴィスはというと、リチェルカーレ家が金剛宮に帰還するどさくさに紛れて、王宮への出入りを赦された。

 そんなこんなで、金剛宮は間もなく代替わりとなる王を担いで、新しく動き出していた。

 王の居室の寝台で、もはや息を引き取るのを待つばかりのバルトロの元を訪う人の足は、遠ざかるばかりだという。


 果玄かげんの月もあと数日で終わる。新年を目前に控えた王都はどこか浮かれた空気すら漂わせていた。

 だがこの王の居室へと続く回廊は、まるであの七年前の昏い冬の底をたゆたうように凍えて寒い。

 やがて、見知った居室の扉が見えてくる。

 扉の前まで辿りつくと、グリエルモがそろりとクラヴィスから距離を取って、壁に凭れた。


「お前は――?」

「王と王笏の逢瀬をお邪魔するほど、無粋ではありませんよ」


 冗談めかして微笑ったグリエルモに、クラヴィスは呆れた溜め息を吐く。


「逢瀬って、ジイさんな」

「……それに私はもうお別れを済ませました。あなたが王都にも入れずにぐだぐだしていらっしゃる間にね。かならずあなたをお守りすると申し上げました」


 臆面もなく放たれた言葉に、頬がカッと熱くなる。


「あっちにもこっちにもそういうこっぱずかしい約束、ばら撒きやがって。この、尻軽クソジジイ!」

「……人聞きの悪い。長生きの秘訣ですよ」


 グリエルモはくすくすと笑いながら、車輪を回しはじめたクラヴィスの背に声を掛けた。


「いつかみたいに、また泣いて帰ってきてもネタにはいたしませんから、安心してください」

「してんじゃねえか! 今!」


 クラヴィスはグリエルモに向かって吠えたてる。

 それから深く深呼吸をすると、甘やかな死臭で噎せ返るような王の居室に車輪を進めた。




 その人は、白い寝具に埋もれるように浅い呼吸を繰り返していた。

 長剣どころか斧や槍を振り回しているのが似合いの、往年の鍛え抜かれた鋼鉄の身体は見る影もなく、果実が腐り落ちるような甘いにおいが充満していた。

 七年だ。七年もの間、傍を離れた。

 王の状態は良いときも悪いときもグリエルモを通して聞いていた。だから、覚悟していた。そのはずだった。

 なのに無い脚が竦んで、凍りついたようにその場を動けない。

 今日にも明日にも、クラヴィスがこの男のために生きて死ぬと決めたひとの星が墜ちる。そういうさだめだと、何度も言い聞かせてきた。それがこの様だ。

 引っ掻くように、車輪の表面を何度か指先が滑り落ちる。

 そのとき、寝台の上の白が微かに揺れた。

 驚いて目を見開けば、濁った黒瞳こくとうにかち合う。


「……待ちくたびれたぞ」


 ほとんど吐息のような、しゃがれた声が落ちる。

 かつては、王が一声掛ければ、人の波が海を割るように分かたれた。そんな大地を轟かすような覇気はもうどこにも感じられない。

 けれど、その声に突き動かされるように、クラヴィスは王の傍へと侍った。


「申し訳、ありません」


 やっとのことでそんな赦しを乞う言葉を吐きだせば、バルトロは呆れたように眉根を寄せた。


「殊勝なお前は気色が悪い」

「んなこと言われたって――」


 弾かれたように言い返してから、腑に落ちたように口の端を上げる。

 随分久しぶりだったが、まるで最後に別れたのが昨日のことのように感じられた。


「私はあんたに恨み言を言いに来たんですよ」

「ほう? 放っておかれた俺のほうが、恨み節を喚きたてるのに相応しいと思うがな」

「……クソボケ王が。私のことだってほっぽっといたくせに、よくもぬけぬけと抜かしよるもんですよ。……あの日、カリタの神罰の廉で処刑されるはずだった私をあんたは助けた。もう利用価値もない“怪物公”を。そのせいで、あんたは数少ない味方を喪うことになりましたね。あれは悪手も悪手でしたよ。その直前まで国一番の頭脳を手中におさめていた王の名が泣く」


 処刑を覚悟した前夜、バルトロはなにも知らないクラヴィスに休暇だと抜かしてみせた。

 そして翌日、クラヴィスはクソ忌々しい家族に引き渡され、クソボロい廃墟城に幽閉されることになった。

 そんなふうに守られたくなどなかった。この王の荷物になるくらいなら、喜んで命を差し出したのに。


「今さら、何年も前のことをぐだぐだと」


 バルトロは、執務室で書類の山を目にしたときと同じような顔でクラヴィスを見た。


「まあたしかに、あんたみたいなおばかさんに言っても詮無いことでした。謹んでお詫びいたしますよ。おかげで面白いものも見れましたしね」


 言って、クラヴィスは微かに笑った。


「あんたによく似たバカ息子たちには会いましたか?」

「……特にバカなほうにはな。さすがにデカいほうには会いに行けんわ。ひよこのほうは一丁前に、言梯師を連れてきよった」

「……笑える娘でしたでしょう」


 王は微笑するに留めたが、その心のうちは手に取るように分かった。


「バカ息子どもが面倒を掛けたようだな」

「まああんたの子育てが大失敗の大惨事だったわけですから、予想できたことです。……なんです? そりゃ私だって悪かったですけど、あんただって元凶なんですから恨み言は言わせてもらいますよ。私は亡き王妃陛下――姉上のことは虫唾が走るほど嫌いでしたが、あの人はあんたを愛していた」

「俺を浮気男のように言うな。惑乱の折は、一時的にエウジェニア王妃とは離縁してたんだから、首の皮一枚繋がっておるわ」


 などと言いつつ一応罪悪感はあるのか、視線は泳いでいる。

 この男が、この男なりに姉とイニーツィオの母を愛したのは知っているが、あの世で一発ぶん殴られるべきではあった。クラヴィス自身もあの世に行ったときは、姉とまだ見ぬイニーツィオの母には一発ぶん殴られても仕方ないとは思っていたが。


「……今日ここに来たのは、本当は赦しを乞うためです」


 クラヴィスの改まった声に、どこか面白そうに黒瞳が瞬く。


「あんたの志は、どうやらあんたのひよこどもに受け継がれた」

「……もはや、俺の志ではないがな」


 王の乾ききった声が落ちる。

 カリタの神罰を契機に、ついにはこの王はエジカ・クロニカに抗うことをやめた。中身のない王という器そのものになった。

 この嵐そのものであったような王をそう至らしめたのは、貴族連中や《教会》や《第六言語機関》やカントゥス家やそういったこの世界のあらゆるものでもあったが、なにより罪深いのはクラヴィス自身だった。

 王笏でありながら、言梯師でありながら彼にこの昏い冬の夜の向こう側を見せてやることができなかった。

 自身の無力さに嗚咽を上げて大地を叩きつけたことは、一度や二度ではない。

 この王に相応しい人間になりたいとただ願っていた。

 七年の時を経てもまだ、それは遠い。


「いつか、あんたに言いましたね。仕える主はあんただけと」


 その言葉を王が覚えているかはわからない。

 それがこの王にとって、どれほど意味のある言葉だったのかも。


「あんたのために生きて死ぬつもりでした。もしもあんたが私より先に逝くなら、それを見届けてこの糞くらえな世界とおさらばしてやろうと」


 ですが、と震える唇で囁く。

 するとバルトロは眉を跳ね上げた。


「――なんだ、ようやく死にたがりをやめたのか」


 王のくたびれた、呆れたような声に驚いて目を上げる。


「イニーツィオに降るか」

「……ええ。ぴよぴよしすぎて、一瞬で踏みつぶされそうですからね。あの小娘も。私のクソ親父が相手では分が悪すぎる」


 バルトロは鼻を鳴らした。

 カルディア・リチェルカーレが真の意味で王に跪いたことは、バルトロの治世下で一度としてなかった。


「……まあ、いい。好きにしろ」


 その声に、安堵したような落胆したような複雑な思いが過ぎる。

 バルトロはそれを見透かしたように、クラヴィスを見上げた。


「なんだ? 妬いてほしいのか?」

「ばっ、ちがっ、そっ」


 口をぱくぱくさせて、意味のない音の羅列をかろうじて吐き出すしかないクラヴィスが、かつて名うての言梯師だったと思う者は誰もいるまい。

 いつだってクラヴィスは、この王に救われ、生かされ、殺されてもきた。


「まあ、現世うつしよのお前はくれてやる。だがもしあちらの世があるのなら、また俺の元に跪けよ」

「当然のことみたいに言わんでください。私があんたよりもっとイイ主を見つけてきたらどうするんですか」

「んなもん連れてきよったら、そいつを血祭りにあげてやるわ」


 一瞬、砂塵の舞い上がる、鉄錆のにおいのする戦場いくさばの情景が目の前に浮かび上がった。

 クラヴィスは戦を厭い憎んですらいたが、彼が軍馬で大地を駆ける様を眺めるのは嫌いではなかった。彼とともに在れば、世界の涯まで駆け抜けていくことさえできる気がした。この、無い脚の持ち主たる身体でさえ。

 しかしこの小言嫌いの覇王は、クラヴィスの言葉を容れる耳も持っていた。

 なにもかもが正反対で、ぶつかり合うこともしょっちゅうだったが、そのようにして噛み合わない両輪を回していく時間を、クラヴィスはたぶん心から愛していた。


「はー、ヤダヤダ。あんたのその野蛮さには飽き飽きしてるんですよ。……仕方ないので、一番にあんたのとこに行ってやります」


 明後日の方向を向いてもごもご言えば、王が喉を鳴らす気配がした。


「……いい土産話を持って行きますよ、きっと。クソったれみたいな世の中ですが、まだ――まだ、足掻く価値はある」

「――無駄なことを」


 そう放言しながらもしかし、片頬を上げた王の眸はわずかに、かつてクラヴィスが焦がれ続けた金剛石にも似たひかりを纏っていた。



 ――その日、朝まだきの空に、ひとつの時代を築いた王の星が墜ちた。

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