終章 さだめの王と名もなき王笏
さだめの王と名もなき王笏
年は改まり、
果玄の月が終わるころ、《
金剛宮は新年を迎えた今も、喪に服している。
イニーツィオ・アダマスの即位式の日取りは、ふた月後に決まった。
王都のあらゆる階級の宿が、予約でいっぱいらしい。王土中から人々が押し寄せるというが、果たしてどれほどの人がイニーツィオの戴冠をその目にすることができるのかははなはだ疑問だ。
三日後には、西部総督カルディア・リチェルカーレの一行が王都に入るという。
カリタの神罰の際に西部に連れ帰った麾下の貴族を従えての、まるで真の王はここにありと宣言するかのような盛大な王都帰還になるらしい。
クラヴィスは、カルディア公が王都に入る日に、市門前を馬糞置き場にすると息巻いている。止めないと本当にやりそうだ。
アルは黒い精緻な刺繍をあしらった喪服の裾を捌きながら、ルーナ=プレナの眠る墓地に続く糸杉の森を歩いていた。
手には青の
先行するジュストは、油断なく辺りを見渡していた。
つい先日、アルは凶手に襲われかけたばかりだった。凶行を阻まれた下手人はその場で首を掻き切り、どこの手の者かはいまだわかっていない。
イニーツィオは普段の穏やかな様子が嘘のように激怒し、あの日からジュストは片時も傍を離れず、グリエルモはアルを気遣う言葉をかけたかと思えば静かにそれはそれは麗しい微笑みを浮かべて辺りを震撼させた。王都のサダクビアにもなぜか話が行っていて、アルが大丈夫だからとへらへらしているとひどく罵られた。
前途洋々とは、残念ながら言いがたい。
案の定、女だ平民だ王太子をたぶらかした魔女だと罵られる毎日を送っており、金剛宮のうちは王都の外にも増して、寒風が吹きすさんでいた。
だが不思議と心は満たされている。
先日の大雪で倒れたのか倒木があり、ジュストが振り返ってアルに手を差し伸べる。アルはますます過保護になる彼の振る舞いに苦笑して、その手を取った。
やがて見知った墓碑が見えてくる。
そこに人影を捉え、ジュストの気配が強張った。しかしすぐにそれも解ける。
アルを振り返ったのは、イニーツィオそのひとだった。
ジュストが礼をとって、気を利かせたつもりかその場を離れる。
まるではじめて逢った日のようだと思いながら、アルは歩を進める。
イニーツィオは重厚な織りの喪服に身を包み、ふらふらと王土を放浪していたころよりもよほど豪奢な剣を帯剣していた。
闇色の髪が揺れて、金剛石の耳輪が薄明に輝く。
柘榴石の眸から、渇きと孤独が完全に消えたわけではない。
しかし、今のこの人はもう、アルが
「おはよう、俺の言梯師さん」
歌うような声に吸い寄せられて足を運ぶ。
「護衛はどうしたんですか。まさか、また撒いたとかじゃないですよね。次期国王陛下なんだから、しゃんとしてください、しゃんと!」
「今日だけだもん。それに俺も戦えるし。俺だってアルの騎士になれるくらいには強いんだよーだ」
「ヘンなところで張り合わないでください! 王太子が剣を振り回して戦ってどうするんですか、もうっ」
そう言ってから、アルはちょっと不満顔のイニーツィオをそろりと見上げて、「イオの腕が立つことは知ってますよ。先日、金剛騎士団の期待の若手の騎士様と模擬試合で五分の勝負をしたんですってね」と付け加えた。
イニーツィオの表情が目に見えてゆるむ。アルもこの王子様の扱い方をだいぶ心得てきていた。
「それで、なんでこんなところに?」
「うん、君を待ってた」
まっすぐに見つめてくる眸にどきりとして、アルはちょっと目を泳がせる。
嘘がなくなったらなくなったで、素直すぎてときどき心臓に悪いひとだ。
「そういえば、周りだけで話が進んでて、ちゃんと言ってなかったなあって思って」
首を傾げれば、イニーツィオは一歩二歩と近寄ってきて、屈んでアルと目線を合わせた。
「――俺の王笏になってくれる?」
「あ、そ、そのことなんですけど」
アルが慌てて言い募ると、まさかそんな反応をされるとは思っていなかったのか、イニーツィオの顔面がぴしりと固まった。
「なに? 別の誰かから言梯師に乞われでもした? 待ってて、俺、今からそのひとに決闘申し込みに行くから」
なんだその斜め四十五度上の解釈は。というか最近ちょっと好戦的すぎやしないだろうか、この王子様。
「ちがくて。えっとその、ま、前にわたし、あなたにぜんぶあげる、みたいなことを口走ったんですけど」
そう言って、アルは口元に手を添える。こうして冷静になって思い返すと、すごい台詞だ。ジュストのことを恥ずかしいとか言えない。
「よくよく考えてみると、ぜんぶはあげられないなって」
イニーツィオはちょっとほっとしたような顔を見せたかと思うと、「ええー」と不服そうに唇を尖らせた。
「前にわたしの生まれについてお話したのを覚えていますか?」
その問いに、イニーツィオは姿勢を正して頷いた。
「わたしはカントゥスの直系の娘です。本来であれば、《
アルはカントゥス家が呪いを生み出す一族であるだけではなく、遍く王土の人々の幸いを願う一族であったことも知っている。
だが、その道をゆくのは実はとても怖いことだったのかもしれないと今になって思う。この手に数えきれないほどの人のさだめを、命を、心を背負う覚悟もなく、アルはあの家の中心にいた。
「ですが、わたしは母の呪いによって、このさだめに支配された世で、奇しくもひとつの選択肢を得ました。カントゥスとして生きるか、それとも言梯師として生きるか」
果たしてそれは、本当に呪いだったのだろうかとアルは考える。その答えを聞くことはもう、永遠に叶わないけれど。
目の前に転がった選択肢のどちらを取るか、アルの答えはもうとうに決まっている。
「今のカントゥス家当主はわたしの母さまの実の妹で、わたしに甘い。だからこれまでは、わたしがふらふらとどっちつかずでほっつき歩いているのを見逃されていたような状況でした。でももし、わたしが外に子を作ったり、カントゥスの誇りを踏みにじるようなことがあれば、容赦はしない。わたしを擁する王家を敵とみなすでしょう」
ですから、とアルは続ける。
「わたしが言梯師として生きるのならば、カントゥスの名はあなたにも差し出せない」
イニーツィオにはなにもかもをあげたいと願っているけれど、それだけはできない。それはまだ、アルに生家を慕い誇る気持ちがあるからでもあったし、アダマスの血族とその共鳴者たちが示してくれたさだめに依らない世界を望むからでもあった。
アルは身のうちに御すことのかなわない、さだめという名の獣を飼っている。それが強大な武器となりうることも知っている。だけどそれを使うことは、たとえイニーツィオのためだとしてもできはしない。そしてそれを使うことが、イニーツィオの道に添うとも思わない。
「わたしの真名は絶対に明かせません。わたしの身をもって、わたしの生家を政に巻き込もうとすることはまかりなりません。わたしはただの平民としてあなたに仕えます。わたしの名において、カントゥスがあなたを盛り立てることは決してないでしょう」
これからイニーツィオが渡り合っていくのは、カルディア・リチェルカーレをはじめとする四公、高弟三家などの大貴族たちだ。
王笏が名もなき平民などでは、どうしたって見劣りする。アルの言葉はきっと最初は相手にされないだろう。それは、強力な後ろ盾の少ないイニーツィオにとって、不利に働く。
「わたしがあなたにあげられるものは、あげたいと願えるものは、正直多くはありません。それでも、あなたはわたしを選ぶと仰いますか」
アルの問いに、イニーツィオは拍子抜けしたように笑った。
「アル・スブ=ロサ。俺の言梯師さん。俺がどうして君を望んだと思っているの?」
謎かけじみた問いの答えは、正直なところ聞くまでもなく
アルがこのひとの髪の毛ひと筋から、その身体のうちの骨の一本一本や熱く滾る血潮や鼓動の音ひとつに胸を焦がされているのと、たぶん根は同じだ。
イニーツィオはアルの手のなかの花を一輪引き抜いて、その花弁に唇を寄せる。
「君の言葉と心が欲しい」
半ば予想していた言葉なのに、目頭が熱くなって、お腹の奥がきゅっとした。
「……謹んで拝命いたします。わたしの王」
喪が明けて、間もなくさだめの王が名もなき王笏を伴って戴冠する。
第十七代国王イニーツィオの時代を境に、《詩篇》は少しずつその役割を変じさせていき、史家が編纂する年代記と、エジカ・クロニカの内容は乖離していく。
《
王の傍らには常に、琥珀の眸をもつ女の言梯師の姿があったという。
彼女が残した逸話は多くあり、同時代に親交を結んだ多くの人々によってその人となりが語られ、国を問わずあまたの記録が残されている。
だが、その素性に纏わる話は、不思議と歴史の闇に埋もれたままである。
エジカ・クロニカ さだめの王と名もなき王笏 雨谷結子 @amagai_y
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