第2話 対峙

 市門前には、寝たきりになっている患者以外のほとんどすべてのイシュハの民が集結しているようだった。

 なかには、この町を焼こうとしていたのを察していたのか、ひどく強張った顔でクラヴィスの兵たちを見ている者もいた。彼らにはナザリオの兵とクラヴィスの兵のちがいなんてわからない。当然のことだ。

 ただ、クラヴィスは町に入る騎士たちには武装解除をさせたらしく、長剣を佩いている者はひとりもいなかった。そのせいか、暴動が起こるまでには至っていない。


「〈皆さん聞いてください〉」


 アルのイシュハの言葉に縋るような目を向けてきたのは、ほんの数人だった。ほとんどのイシュハの民が、どす黒い憎悪か、恐怖に引き攣った表情でアルを見た。

 アルはすぐ傍に控えているジュストに目配せをして、彼を下がらせた。


「〈あの女が俺たちを騙して、ここに連れてきたんだ!〉」


 アルが来るよりも前からこの町に軟禁されていた人々に向かって、先ほど房舎馬車に乗ってきた男が叫んだ。

 その言葉にアルは反論などできるはずもなかった。

 ナザリオが怪しいと思いながらも、彼に善意ばかりを見いだそうとして、疑惑を飲み込んだ。結果的に、イシュハの人々の虐殺未遂に加担した。イシュハ語を喋るアルの言葉だからこそ、ついてきた人も大勢いたはずだ。その罪は重い。


「〈町中に油が撒かれてる! ここをあたしらごと焼き払おうって魂胆なんだろう!?〉」


 恰幅のいい女の言葉に、ざわめきが波紋のように広がっていく。


「〈たしかに、あなたがたをここに連れてきた者は、町を焼き払おうとしていました。ですが――〉」


 そこまで言ったところで、ゴ、という鈍い音がした。遅れて、頬骨の辺りを鈍い痛みが走った。温かいものが、頬から顎を伝う。

 どうやら誰かが投げた石が当たったらしかった。

 それを皮切りに、何人かが鋤や鍬、小刀を手に一歩近づいてくる。

 ジュストが、アルの隣に並んだ。

 だがその手はまだ剣の柄には掛かっていない。代わりに、布を切り裂いてアルの頬に宛がった。


「退がれと言われても――」

「……言えないわ」


 そう言って、アルはまた深く息を吸った。

 冬の息吹に、耳の奥がキンと冷える。

 胸がつかえる。

 しかし、言葉はゆっくりと、明瞭に、柔らかく。あなたたちに敵意はないと、誰が聞いてもはっきりと伝わる声で。


「〈町を焼き払おうとした者たちの身柄は今、取り押さえています。ここにいるのは全員、あなたがたの病を治療するために集めた者たちです。黒字病の治療の心得があります。ですからどうか、わたしたちにあなたがたの治療をさせてください〉」


 ふたたびざわめきが駆け抜けた。

 騎士たちが背負った鞄からは、薬草や医療器具がこれでもかと飛び出ている。即席らしいが、黒い揃いの衣装もどことなく医者らしき風情に拍車を掛けていた。

 こういうところはクラヴィスは本当に上手い。今ここに居なくても、全力でアルを庇護してくれている。

 ひょっとしたら、という空気が流れた。

 しかし――。


「〈騙されるな!〉」


 血走った目をして、青年ががなり立てた。


「〈俺の妹は散々奴隷としてローデンシア人にいたぶられたあげくに、ここに放り込まれて二日で死んだ! 医者を名乗る連中に身体をいじくり回されてな。お前たちはもう、こいつらの悪事を忘れたのか!?〉」


 イシュハの人々が顔を見合わせる。

 どの顔も覚えがあると言っていた。

 荒れ果てた祖国を逃れて辿りついたこの国は、どれほど酷く彼らに当たったのだろう。

 アルは深く頭を垂れた。


「〈わたしの同胞が犯した罪を、そしてわたし自身が犯した罪を、ここにお詫び申し上げます。申し訳ありません〉」


 わずかに空気がたわむ。

 しかし、鍬を持つ男の視線にはっきりと殺意が過ぎった。

 ジュストが前に出る。剣の柄頭に手がかかる。

 前方から石が飛んできて、がつんという音がした。頭を庇ったジュストの前腕の鎧に当たったらしかった。間髪入れず別の方向から飛んできた石が、ジュストの左耳を掠めて、白銀に輝く甲冑にぱっと鮮血が散った。

 しかしまだ、剣は抜かない。

 その信頼にこたえたい。

 俺の言梯師さん、と呼んでくれた声に、あなたにはできることがあるとお守りみたいな言葉をくれたグリエルモに、ルスキニアやクラヴィスがくれたものにこたえたい。

 なのに舌がはりついたように声が出なかった。

 こんな圧倒的な憎悪を前にして、なにが言える。

 あなたたちを助けにきたという言葉は、空気に触れる前に砂になって風に浚われて何処かへ消えた。

 イシュハの民がアルたちを囲む輪が小さくなる。

 鍬や鋤が高く掲げられる。


 そのときだった。

 手首を強く引かれて、アルはつんのめる。

 驚いて顔を上げると、サダクビアがアルの手を掴んでいた。そのまま彼女に導かれて、輪の中心にいざなわれる。ジュストの制止の声も聞かずに、サダクビアは冷えた目で同胞を見渡した。


「〈あたしの弟は、あんたたちと同じ病に罹った〉」


 淡々とした声で彼女は言った。


「〈でも、この女の一味が助けてくれた〉」


 一味ってそんな悪党みたいな、とアルは思ったが、サダクビアは澄まし顔だ。


「〈ローデンシア人が善人ばかりだなんて言う気はないわ。あたしだってそんなことは思ってない。でもそれは、あんたたちだって同じでしょ。この中にいる連中に、あたしを犯したやつがいることも、あたしの弟を殴ったやつがいることも、あたしは絶対に忘れない〉」


 イシュハの民の何人かが、身体を強張らせた。


「〈まったく、反吐が出そうな世のなかよ。あたしの国はずっと前にエジカとかいう糞くらえな女神の加護を失って、生まれたときから信じられるものなんてほとんどなかったわ。……だけど、〉」


 そう言って、サダクビアはアルに目線をくれた。

 それは目を合わせるというよりはほとんど睨みつける類のものだったが、その眸の奥にきりりと光を放つ星の影を見つけて、アルは目を見開いた。


「〈この女が――アルがあたしを裏切らないことだけは、信じられる。それだけは、あんたたちに保証してあげる。それでもこいつらを殺したいっていうなら、止めないわ。どうせあんたたちも病が進行して、苦しみのたうち回って死ぬだけよ〉」


 言うだけ言って、サダクビアは踵を返す。

 騒乱の町が静まり返る。唾を飲み込む音すら聞こえそうなほどに。

 やがて、からん、と音を立てて鋤や鍬、石礫が地面に落ちていく。

 ルスキニアが腕まくりをして、輪の中心に躍り出た。



 * * *



 クラヴィスの騎士たちはよく訓練された洗練された動きで、ナザリオの兵たちを追いつめた。喉元に突きつけられた白刃に、力なく瞼を下ろした兵たちの手から長剣が取り落とされていく。

 ナザリオの私兵は騎士崩れの寄せ集めなどではなく、ほとんどが《禁詩篇アルカナ・クロニカ》が公表されなかったがゆえに、大切な人間を失った者たちだ。忠実さで言えば、今の金剛騎士団などをはるかに凌駕するだろう。


 イニーツィオは、曠野にできた人の道の間を歩いた。

 見つめる先には、焦がれ続けた異母兄の姿があった。父王に下賜された長剣は今や弾き飛ばされ、地面に片膝を屈している。肩と太腿からは鮮血が流れ、夕焼け色の美しい髪はひどく乱れていた。

 すぐ傍に、布と包帯を握りしめて立ち尽くしているクラヴィスの姿がある。ナザリオの手当てをしようとしたらしいが、彼はそれを拒絶したようだった。


「異母兄上」


 イニーツィオのローデンシア語の響きに、ナザリオはぴくりと眉を動かした。

 だが、その視線は地面に注がれたままだ。

 乱れた髪から覗いた耳には、金剛石の耳環は嵌められていない。逢うたびに凝視してしまっているが、あの忌まわしい《大詩篇マグナ・クロニカ》が詠まれてから、イニーツィオと揃いのその耳環が彼を彩ることはなくなった。


「異母兄上……イシュハの人々とローデンシアの医師たちを虐殺しようとしたかどで、あなたを縛します」


 イニーツィオの声に、ナザリオは乾ききった嗤いをひとつこぼした。

 それから恭しく頭を垂れる。


「おめでとう、次期国王陛下。まったく《詩篇》の言うことには一片のひずみもないな。お前ほどエジカに祝福された男は他にいない」


 静かに上向いた黒瞳の底知れない闇にひたりと捉えられる。

 ナザリオが築き上げた栄光も名声も人望も信念も、イニーツィオの戴冠が預言されるやいなや地に落ちた。彼が愛したものすべて――クラヴィスもグリエルモも、王妃も、そしてアルも、イニーツィオが掠め取った。

 呪われた身だ。

 イニーツィオの存在は、イニーツィオが愛したすべてと彼自身の信念を打ち砕く。

 一瞬また、心が暗がりに引きずり込まれる。九年間ずっと、その常闇のなかで息をしてきた。


 握りしめた拳のなかで、硬い感触が皮膚をつっつく。

 わずかに開いた掌から、梟の眼差しが覗く。

 イニーツィオは細く息を吐き出した。白く棚引いたそれが消える前に、歩きだす。

 異母兄の前に膝をつく。


「異母兄上。今のあなたに玉座を明け渡すことはできません」

「……お前が父上の後に相応しいと? 笑わせるな」


 クラヴィスとともに《詩篇》に抗い続けて、やがて心を壊した父王。その後を継いで、イニーツィオは玉座に腰掛けることになる。それはどれほどの皮肉だろうか。


「たしかに俺は、王に相応しくありません。民の命も人生もこの手に握るだなんて思うと、膝が震えます。でも――」


 イニーツィオははじめて、ナザリオを糾弾するように強く睨みつけた。


「あなたはかつて、民の贄たれと仰った。俺の心を灯して、ここまで導いてくれた言葉です。もう異母兄上のなかに、あのときの異母兄上は欠片も残っていませんか」


 ナザリオの眸が激したように揺れる。


「黙れ! 私がどんな思いで――」

「どのような思いがあろうと、一度踏みにじられた命は二度と戻りません。玉座に座る者は誰より、それを理解していなければならない」


 ナザリオは口を開きかけて、唾を飲み込んだ。イニーツィオなどに聞かされなくとも、はるか昔に彼はそのことをわかっているはずだった。


「あなたの罪を赦しはしません。あなたは、無辜の民もかつてのあなたの信念も志もあなたが愛したものすべてを踏みにじった」


 そう言って、イニーツィオは立ち上がる。

 ナザリオは、ほんの一瞬なにかを恐れるようにイニーツィオを見上げた。


「……それでも。俺にとっては、あなたはずっと俺の大切な異母兄上です。あなたがもう二度と、俺のことを異母弟おとうととは思えなくとも」


 ナザリオの眸がきつく絞られる。立てていた片膝が今、地に伏した。

 イニーツィオは震えかけた唇を噛みしめて踵を返す。

 縺れそうになる足を叱咤して、大地を駆ける。

 廃疾の町の戦いはまだ、始まったばかりだった。

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