第八章 明日を紡ぐ者たち

第1話 比翼

 一陣の風が、曠野を駆けた。

 厚い雲を吹き散らして、降るような陽光が戦場に群れ立つ鋼鉄の剣に輝きを与えている。

 土埃を巻き上げて、馬蹄の音が大地を砕かんばかりに鳴り響く。

 イニーツィオの率いる第一陣が、ナザリオの兵たちの元へ突っ込んでくる。アルとジュストを取り囲んでいた騎士たちが、蜘蛛の子を散らしたように隊列を乱した。

 イニーツィオは青毛の馬を飛び降りて、肩を上下させてこちらに駆け寄ってくる。

 瞬間、強く抱きこまれた。骨まで砕けそうな勢いで背に腕が回される。

 馬を凄まじい速度で奔らせていたからか、心臓が破裂しそうなくらいに速く鼓動していた。

 土のにおいにまぎれて少し、湿った汗のにおいがした。


「――ごめん」


 その声は、ひどく強張り震えていた。

 ますます強く掻き抱かれる。まるで存在を確かめるように。骨が軋んだけれど、アルはされるがままにしていた。

 イニーツィオがしなかったらきっと、アルも同じことをしていた。


「ごめん、アル。俺は――」

「巻き込んだ、なんて言ったらデコピンしますよ」


 今にもぽろぽろ涙をこぼしでもしそうな、濡れた綺麗な柘榴石の眸を仰ぐ。

 まだ小刻みに震えている身体に腕を回す。そっとなだめるように背を叩けば、その呼吸が少しずつ落ち着いてきた。


「あーあ」

 いつも軽口を叩くときじみた声。


「君を守るのは、俺の役目だと思っていたのに」


 そう言って、イニーツィオはアルの横に流し目をくれた。

 アルはジュストの存在を思い出して、イニーツィオを軽く突き飛ばした。


「ぎゃあっ! ジュ、ジュジュジュジュスト隊長ちがうんです。これはその」

「騒がしいやつだな。ジュストでいい。……王太子殿下、その役目は今日から僕に譲っていただかないと」


 ジュストは訳の分からないことを口走った。

 アルは全然意味が分かっていないのに、イニーツィオは訳知り顔で渋々頷く。


「かならず守り通すと誓ってね。このひとは俺の、命そのものだから」


 イニーツィオはそう言って、後ろを振り返った。

 イニーツィオが率いてきた第二陣が到着する。

 サダクビアがアルを睨みつけ、ルスキニアが薄く笑んだ。クラヴィスが騎士によって馬の上から、折りたたまれていた車椅子の上に移動する。

 イニーツィオが手を上げると、クラヴィスの騎士の何人かが市門の前に陣取っていた守衛たちを追いやった。

 門が開き始める。イニーツィオがアルに向き直る。


「――アル・スブ=ロサ。俺の言梯師げんていしさん。君の力が必要だ」


 その言葉に無性に泣き出したくなる。

 この人はアルに信頼をくれる。

 まだ足掻くことを赦す。わたしがわたしとして立つことを赦す。

 諦めないでいいと、君は君の為すべきことを為せと言ってくれる。

 一緒に行こうと手を差し出せば、イニーツィオは静かに頭を振った。


「……そんな顔しないで。かならず君のあとを追いかけるよ。でもまだ俺には、決着をつけなきゃならないひとがいる」


 そう言って、イニーツィオはついにナザリオを振り返った。

 アルがまだ不安そうな顔で彼の横顔を見ているのを知って、イニーツィオは丁寧に言葉を尽くした。


「俺はね、みずから命を絶てば、父上と同じような真のアダマス王家の人間になれるとでも思っていたんだよ。《詩篇クロニカ》に抗った英雄に。でもそれは全然ちがった。俺はただ、もう一度異母兄上あにうえにあいしてほしかった。イオと呼んでほしかった。異母兄上がおかしくなっていくのをはっきり横で見ていたのに、俺が死ねば全部解決すると思い込もうとした。でももう、それはやめる」


 決然とした声に、アルはなんと言っていいか分からなくなる。

 七年前。アルも母と養父の真意が見えなくなってから、何度も“家族”を諦めようとした。あれは偽りの夢だったと思い込もうとした。母は死んで、父はもうどこにいるのかすらわからない。砕けた家族の肖像はもう二度と戻らない。

 でもイニーツィオはちがう。まだ目の前に、彼の異母兄あにはいる。


 ナザリオも、最初はイシュハの民の病を治癒することで《詩篇》を覆そうとしていた。初めから、殺戮者になろうとしていたわけではない。

 彼の行いは到底赦されるべきではない。どれほどの大義があろうと、庇われることがあってはならない。だが、その罪ゆえに家族が壊れきってしまうのは、もう見たくなかった。


「……イオ」

「俺も、君の信じているものを信じる」


 ――言葉を。

 顔をくしゃくしゃにしてイニーツィオを仰げば、彼は困ったように微笑ってアルに手を伸ばしかけた。

 しかし市壁のうちから、怒号と啜り泣きの声が聞こえて、イニーツィオがその手を引っ込める。アルも一歩下がって姿勢を正した。


「……わたしの持てる力の限りを尽くして、イシュハの皆さんを助けます」


 そうこたえれば、イニーツィオはアルを誇るように晴れやかに笑った。

 気づけば、サダクビアがすぐ近くに来ていた。

 手袋を二人分、放り投げられる。アルは慌ててそれを掴んで、ジュストを振り返った。


「ジュストたい――ジュストはどうしますか?」

「……お前を守り抜かないと、あのひとに殺される」

「イオが? 王太子殿下はそんなことしませんよ」


 アルのいらえにジュストは小さく溜め息を吐いて、それから手袋を一組奪い取った。


「ジュスト、町のなかでもしわたしを害そうとするひとがいても、どうか剣は抜かないでください」


 アルの頼みに、ジュストは肩を竦めた。


「……やっぱり、お前の騎士になったのは考えものだな」

「え、ジュスト、わたしの騎士になったんですか? なんで?? ていうかどうしてここに?」

「……後で話す。お前の言葉は、今もっと別のもののためにあるんだろ」


 そう言って、ジュストはアルのずり落ちかけた毛皮の首巻きを直してくれる。

 その手つきが思いがけず優しくて、アルはまじまじとジュストを見つめてしまった。

 だが、ジュストの言うとおりだ。手袋を嵌めて、廃疾はいしつに喘ぐ町を見据える。

 先行するサダクビアの後を追って、アルはジュストとともに市門を潜った。



 * * *



 ナザリオの告げたとおり、町は恐慌状態にあった。

 ローデンシア人の医師が重症化したイシュハ人の老人に小刀を振り上げているのを、クラヴィスの騎士が必死に押しとどめている姿。顔にまで黒い文字の浮いた女が、小さな子どもが泣き叫びながら彼女の方へ駆け寄ってこようとするのを、金切り声を上げて制止している姿。

 木材と煉瓦でつくられたその町には、油のにおいが充満していた。房舎ぼうしゃ馬車が妙な光沢を放っていたのも、油が塗られているせいだったらしい。

 アルはナザリオに手を刺し貫かれた医者の処置をしていたルスキニアの後ろ姿を見つけて駆け寄った。


「ルスキニアさん。相談があるんです。今からわたしたちで治療をするといっても、きっと信用してもらえない。だからまずは――」

「大勢の前で、治療の全容を見てもらう、ということだね。良いだろう。そこのあなた、被検体になってもらえるかな」


 さすがに察しがいい。

 しかしルスキニアの言葉に、応急処置を受けていた医者は鼻白んだ。


「俺たち医学大学出の医師でもどうにもならなかった病だ! 女のヤブ医者ごときがどうにかできるか!」


 アルはカッとして口を開きかけたが、それをルスキニアが押しとどめた。


「医学大学には女は入れないからねえ。ヤブ医者になるしかないじゃないか」


 ルスキニアは冷めた声で言って、懐から書物を取りだした。『廃滅はいめつの国イシュハにおける黒字病こくしびょうの伝染に関する董伯とうはく暦三十六年の記録』。アルが預けっぱなしにしていたその書物の表題を見て、医者の顔色が変わった。


「私がこの本を読める機会を得られたのはたまたまだ。運が良かった。あんたとて、この本があったなら、きっと患者を治せただろうさ。だから奢るつもりはない」


 もちろんアルは、ルスキニアがただ本を読めたからリゲルを治せたわけではないことを知っている。アルはあの本を全部読んだが、だからといってリゲルを治療することなんてできやしなかった。ルスキニアが学び研いできた医学の知識やこれまで積んできた豊かな経験や確かな技術があったからこそだ。

 でも彼女は誰より分かっているのだろう。

 努力の前に、機会そのもののあるなしで道は分かたれる。貴族として生まれ、読み書きを習うことができたか。男として生まれ、ローデンシア語を学ぶ機会や医学大学に入学するだけの身分と財産と教養に恵まれたか。

 そして、たまたま病に関する書物の知恵を借りることができたか。

 ルスキニアは自信に溢れた人だが、彼女の知恵や技術や経験が自分だけの力ではどうにもならなかったことを知っている。謙虚で抑制された心根の持ち主だ。


「交換条件だ。私があんたを治してそこそこ回復した暁には、私を手伝え。誓うというのなら、先ほどの侮辱は水に流してやってもいい」


 医者は項垂れ、力なく頷いた。

 ルスキニアはアルに片目を瞑ってみせる。

 アルは彼女に頷き返し、軽く息を吸って吐いた。


 ここからは、アルの仕事だ。

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