第4話 呪われし恩寵

 イシュハ人が集められているその町は、大都市ルモーレをあぶれた貧しい人々が身を寄せ合って暮らす、借家インスラの建ち並ぶ窮屈な町だという。

 名を、イルレゴラーレ。アルはナザリオらとともに今朝ルモーレを発ち、イルレゴラーレを目指していた。

 二十頭もの輓馬が引く巨大な房舎ぼうしゃ馬車には、イシュハ人たちが所狭しと押し込められている。病人は二台目と三台目の馬車に、そうではないイシュハの民は一台目に乗り合わせていた。

 全員で五十人弱いる。イルレゴラーレの町にも、同数ほどのイシュハ人が集められているようだった。イルレゴラーレの元の住人たちには多額の謝礼を用意し、別の町へと避難してもらっているらしい。

 同じ言語の話者は感染しやすい。アルは病人以外は置いていくべきだと主張したが、聞きいられなかった。一見病にかかっていないように見える者もいつ発症するか分からないというのと、ルモーレでの混乱を避けるためということだった。

 アルも黒字病に関して、潜伏期間のあるなしなど専門的なことは分からない。置いていったイシュハ人のなかから発症者が出たら元も子もなく、大人しく従うほかなかった。

 町についたら、感染者と非感染者を確実に離し、接触しないことを徹底してもらうよう呼びかけなければならない。なぜそんなことを知っているのかとナザリオに問い詰められたら、正直にジュストから託された書物の話をしようと決意する。


 アルは房舎馬車を先導して馬を駆るナザリオをそろりと仰いだ。今日もナザリオはアルを同じ馬に乗せてくれている。一人でも乗れると言ったが、彼は苦笑してふわりとアルを抱き上げた。

 バルトロ国王譲りの黒瞳は油断なく辺りを見渡しており、ルモーレの潮騒のなかで見た黄昏に鎖されたような空気はすっかり霧散している。

 あのあと何度かナザリオがイニーツィオについて述べた言葉の意味を質そうとしたが、そのたびにはぐらかされてしまって有耶無耶なままになっていた。


 やがて前方に家屋が密集した手狭な町の姿が見えてくる。

 房舎馬車から漏れてくる呻き声に、アルは「〈もう少しです〉」と声を張った。

 房舎馬車は、弱々しい陽光にもてらてらと輝き、微かに油のにおいがした。馬車を新調したばかりなのかもしれない。

 町を取り囲む外壁の前に辿りつくと、ナザリオはアルを抱きかかえて馬上から下ろした。

 守衛がなにやら緊張した面持ちで門を開ける。

 房舎馬車はぎりぎり外壁を破壊することなく門をくぐった。しかし、馭者がすぐに三人とも門の外に駆けずり出てくる。

 恐怖に引き攣った顔で、守衛に「早く閉めろ!」と怒鳴り散らした。


(なに……?)


 なにかが妙だった。

 重たい音を立てて、鎧戸が下降していく。

 完全に閉まりきる手前、地面と鎧戸との隙間から、にゅっと手が差し出された。

 それもただの手ではない。

 びっしりと黒い文字の浮いた手だった。

 イシュハ文字ではなかった。ローデンシア文字だ。


「助けてくれ!」

「私たちを見捨てるのか!」


 続けざまに声がした。

 ハラ語とローデンシア語だった。

 その意味を考えることを脳が拒否していた。


「退がれ。触れるな」


 静かに命じる声がして、兵たちが一歩後退りした。

 その半円のなかに、ナザリオが進み出る。

 彼は、腰に佩いた剣の柄を握ると、躊躇いなくそれを引き抜いた。

 薄墨色の文字がのたうっている手の甲に、その剣の切っ先が突き立てられる。

 血飛沫が上がり、男の絶叫が轟いた。


「ナザリオ、殿下……?」


 声は、自分の喉から放たれたものではないように宙に浮いて聞こえた。

 刃を濡らした露を振って払って、ナザリオが振り返る。

 その眸は狂気に歪んでいたりはしなかった。彼らしい、透徹とした理知の宿る眼差し。

 しかし、彼は乾いた声で続けた。


「火を放て」


 兵のうちの何人かが、火箭ひやを番えた。

 それでようやく、思考が澄んで清かになっていく。


「待ってください! 待って!」


 辺りを劈くような怒号に、兵たちの動きが止まった。


「ナザリオ殿下、これはどういうことですか。説明してください。あなたはイルレゴラーレにお医者さまがいると仰った。だからわたしはイシュハの皆さんに治療できるからと納得してもらって付いてきてもらったんです。それを――!」

「先ほどの黒字病を患った男の手を見ただろう。あれが医者だ。もはや手遅れだ」


 半ば予想していた答えだったが、アルは色を失った。


「このふた月近く、私は選りすぐりの医師たちを集めて、このイルレゴラーレの地で治療に当たらせていた。しかし多くの者が治療の甲斐なく息絶え、ついには医者も感染した。もう選択の余地はない」


 そう言って、ナザリオは兵たちに手を上げる。

 アルも保身に走っている場合などではなかった。


「待って! わたしは黒字病の治療法を知っています。ナザリオ殿下、あなたはジュスト隊長に黒字病に関する書物を探させましたね? わたしはそれを託されました」

「なるほど。あの愚かな道化は子どもの使いもできぬのかと思っていたが、お前に渡っていたわけか。道理で探してもないわけだ」


 ――お前の言葉は、劔に勝った。


 ジュストの言葉が蘇る。

 あのときのジュストの心はアルには分からない。

 なにを思ってジュストがアルに書物を託してくれたのか。きっと少なくとも金剛宮の勢力図が書き換わったあとも、ランベルティ家が生き残れるようにという思惑がジュストにはあったはずだ。

 それは結局果たされることのない約束だった。しかし、ジュストはあのとき家とみずからの良心とを天秤にかけて、アルにたぶん信頼めいたものをくれたのだ。アルがイニーツィオに渡したのと同じような。

 騎士の家系たるランベルティ家の男がその劔を差し置いて、言葉に誉れを与えてくれたその意味を、アルは考えずにはいられなかった。


「……ジュスト隊長は愚かな道化ではありません」


 アルは反駁して、ナザリオを真っ向から見つめた。


「わたしも状況も分からず書物を所持していたことはお詫びします。……謝ったところで、赦されることではありませんが」


 ナザリオのやり方を絶対に認めることはできないが、この書物が迅速に彼の手に渡っていれば救えた命もあったかもしれない。それを思うと、足が竦んだ。


「どうしてあんな方法を。黒字病の蔓延を予期していたのなら、金剛宮に掛け合えば、なにもあんな強硬な手段を使わずとも書物の使用許可が下りていたかもしれません」

「それは絶対にないな」


 断言され、アルは眉根を寄せた。


「たしかに閉架書庫の書物は閲覧が禁止されていますけど、こんな事態であれば――」

「こんな事態だからこそ、だ」


 ナザリオはまるで歌うように言った。

 くつくつと喉から嗤いが漏れる。まるで怨嗟のような声が、肌を粟立たせる。

 暗やみの底に落ちた眸が、とっくりと笑んだ。


「カリタの神罰の真相を知っているか?」


 カリタの神罰。七年も前の話だ。王都近郊の街に甚大な被害をもたらし、クラヴィスが廃墟城送りとなり、アルの母が処刑されることになった、あの忌まわしい冬の出来事。

 今回の黒字病の蔓延とカリタの神罰とが結びつかずにアルは戸惑う。


「震災が起こる前、実はカントゥス家によって《詩篇》が詠まれていた」

「《詩篇》ってつまり……震災が預言されていたということですか? でも、そんな《詩篇》公表されて……」


 そこまで言ったところでアルは息を呑む。


「――《禁詩篇アルカナ・クロニカ》……?」


 声が奇妙に震えた。

 《禁詩篇》――《大詩篇》のなかでも、一般には公表されない重大な《詩篇》のことだ。


「あのとき詠まれた《禁詩篇》は類稀な精度でな。死者の数まで割り出していた。詠み人は……“白銀しろがね髑髏されこうべ”アルチーナ・カントゥス」


 母の名に、心臓が歪な音を立てた。

 エジカの《詩篇》は、書き換えの利かぬこの星の記録そのものだ。創世期にエジカが詠んだ《詩篇》からこの世界は一分の狂いもなく進んでいる。

 それが死者の数まで割り出したということは。


「アルチーナはどうも《教会》に《詩篇》の公表をするよう求めたらしい。しかし《教会》はそれを拒否した。《詩篇》どおりに民草が犠牲になってくれなければ、エジカの示した正しきしるべを見失ってしまうからな」


 ナザリオは、くたびれた目で凄絶に笑った。

 アルは絶句した。

 果たしてそれはもはや、“正しき標”と言えるのだろうか。やがて起こる悲劇を知ってなお、ただ唯々諾々と《詩篇》に従うことが正しい人の姿なのだろうか。


「では、クラヴィス公が処刑されそうになったのは」

「アルチーナが《禁詩篇》を報せたらしいな。それを受け、クラヴィスは王都の民らに報せようとしたが、結局それは阻まれた。貴族の高官たちは、家財道具一式持って、王都を逃れたというのにな。元々クラヴィス――というよりも陛下とクラヴィスは、何度も《詩篇》に叛逆しようとして、《教会》に目をつけられていた。それでクラヴィスは、あの震災における民の不満のはけ口に仕立てあげられたというわけだ。まあ、陛下がリチェルカーレ家と取引をして、奴の命は掬い上げたが」


 それが、七年前の真相。

 それを今告げた意味。否が応でも、気づかされた。


「……黒字病の蔓延も、《禁詩篇》に詠まれていたと?」

「三月ほど前のことだがな。詠まれた《詩篇》はこうだ。“篝陶こうとう暦十九年 果玄の月 南より黒き病が押し寄せる 町は廃疾で満たされ やがて死の怨嗟によって 滅びを迎えるであろう”」


 アルは押し黙った。

 黒字病の流行を知っていて、《教会》はなんの対策も打たなかったのか。そしてナザリオは、《教会》の介入を避けるためにあのような無茶苦茶な方法で書物を入手するしかなかった。


「――いつまで我々は、エジカの遊戯の盤上で踊らされていればいい?」


 怒りや哀しみをとうの昔に過ぎ去った、虚ろな、しかし静かに咆哮する声だった。

 エジカの《詩篇》を覆せば、イシュハのような滅びが待ち受けているのかもしれない。でも、ナザリオやクラヴィスやバルトロ、そしてイニーツィオが《詩篇》に抗おうとする気持ちは痛いくらいに理解できた。

 もしも――と考えてしまう。もしも、七年前、オース岳が噴火することが事前に知らされていて避難していれば、王都には骸が溢れかえることはなかっただろうか。母が狂って首を落とされることも、養父が家を出て行くことも。


「もっとも、エジカの《詩篇》の呪縛は生半可なものではない。ちょっとした歪みなど、物ともしないがな」


 自嘲気味に言って、ナザリオはアルを向いた。


「アル、聡いお前なら分かるはずだ。もはやこの道しかない」


 ナザリオの言葉が、わんわんと耳鳴りのように頭のなかに鳴り響く。

 門の内側からは、呻き声と叫び声が間断なく聞こえていた。恐慌をきたしたように、外壁を叩く音がする。赤ん坊の泣く声が、辺りを劈くようだった。

 このまま門のなかの人々を見殺しにすれば、少なくとも病はここで収束するのかもしれない。


「……殿下は、王太子殿下から王位を奪うおつもりですね」

「――奪う?」


 ナザリオははじめてアルの言葉が癇に障ったかのように声を荒げた。


「奪われたのはこちらだ。あれ、、が玉座にふさわしいと?」


 底冷えするような視線に晒され、アルはこくりと喉を鳴らした。だが、ここで口を閉じるわけにはいかない。


「エジカ・クロニカを覆すことだけが、あなたの王道だと。そう仰るのですか」


 アルの問いにナザリオは眉を顰めた。


「大義のための犠牲は、仕方がない。そう切り捨てるのですか」

「アル、聞け。私はお前に王笏をと、かねてから――」


 焦れたように、ナザリオがたたらを踏んでアルに手を伸ばす。

 アルは後退りした。


「この声が聞こえませんか? ほとんどがこの国の民ではないからかまいませんか? 密入国者だから? 言葉も通じないから? 彼らが持ち込んだ病だから? そうやって理屈をこねた結果が今の《教会》なのではありませんか」


 アルは力なく頭を振った。

 ぽろりと涙がこぼれ落ちる。


「……わたしは殿下に、心を捧げることはできません」


「……アル、」


 吐息のように、ナザリオの口から名がこぼれ落ちた。諦めの底に、切実な思いが沈殿しているような、そんな声だった。

 その場しのぎの言葉でなく、この人はきっとずっと前から、《詩篇》を覆したあとにともに歩む王笏を探していたのだろう。そしてそれを、まだ未熟なアルに定めてくれたのだろう。

 この人を慕う心はまだ熾火のように燻っている。《詩篇》なんてなかったら、きっと誰より公平で沈着で慈しみに満ちた王になるはずだった人。

 でも。


 アルはナザリオを真っ向から見据えた。


「門を開けてください。殿下が行くなと仰っても、わたしひとりでもこの町に取り残された人を助けに行きます」

「もはや手遅れだと言ったろう? それにお前ひとりで行ったところでなんになる? 恐慌状態の奴らから病をもらって、死ぬだけだ」

「少しでも可能性があるなら、それをやらない手はありません。殿下だって、最初は医師を派遣した。あなたはそれほど冷酷な方ではありません!」

「――そして私の忠実な騎士は病に冒されて死んだ。まったく無駄なことをした」


 立ち竦んだアルに、ナザリオは薄く笑った。


「過ぎたる慈悲は道を狂わせる。私のものにならないというのなら、仕方あるまい。お前はもはや、必要ない」


 ナザリオの長剣が滑り、首筋に押し当てられる。

 冷たく鋭い金属の感触がして、アルは呼吸を止めた。


「――に、うえ!!」


 風に乗って細く微かな、雷鳴のような叫び声が轟いた。

 そろりと目線だけ動かせば、遠く丘の向こうから青毛の馬を駆って、そのひとが――アルが全部をあげたイニーツィオが人々を引き連れて接近していた。

 傍にはサダクビアとルスキニアの姿もある。きっとイシュハの人々を助けに来たのだ。


「――アルを離せ!!」


 今度こそ、声がはっきりと聞こえた。

 あのお兄ちゃん大好きっ子が、アルのためにナザリオに声を荒げている。

 でも、もう間に合わない。

 まだイニーツィオとの間には二里以上の距離があり、ナザリオが今、剣を振り上げた。

 十分だと思った。

 あのひとのために力を尽くせないのは、そして彼の言梯師の座を誰かに譲り渡すことになるのは悔しくて仕方ないし、人生ではじめて覚えた嫉妬で気が狂いそうなくらいだけど、でもあのひとが築いていく未来はきっと優しさで溢れている。そう固く信じることができた。

 よくよく見てみるとイニーツィオのそばにはクラヴィスの姿もある。どうやら馬具を独自に開発して、あの肢体不自由な人は馬を乗りこなすこともわけないらしい。

 クラヴィスがいるならば大丈夫だ。イニーツィオはきっともう、死んでしまおうだなんて思わない。

 だから、ここで幕引きだ。願わくばあの優しいひとが悲しまなければいいなと思う。

 瞼を閉じる。薄闇をイニーツィオの声が切り裂く。名を呼ばれた。また泣きそうな声だ。

 置いていけないじゃない、と微笑う。ああやっぱりまだ、――。



 すぐ傍で、金属と金属が触れ合う音がした。

 剣戟の音だ。

 腕を強く引かれる。

 驚いて目を見開けば、薄日に金の髪が星屑のように照りかえった。菫青石の眸と目が合う。

 彼はアルを抱きかかえて飛び退ると、ナザリオの兵たちの何人かの剣を吹っ飛ばした。そっと地面に降ろされる。


「ジュ、ジュスト隊長?」


 ジュストは唖然としているアルをじろじろ眺め下ろしてから、小さく「もう隊長じゃない」とあまり意味のないことを言った。

 ナザリオの兵に囲まれそうになったのを察して、アルをさらに後ろに押しやる。

 それから振り向きざま、わずかに口の端を上げて問うた。


「スブ=ロサ。この期に及んで剣を下ろせとか、トンチンカンなことは言わないな?」


 泣き出しそうになったアルを見下ろして、ジュストは少しだけ満足そうな顔をする。


「お前のための劔だ。お前の望まぬものは切らない。好きに使え」


 白亜に輝く細身の剣を振りかぶり、騎士の長靴が軽やかに大地を蹴った。

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